東京都復興記念館の保存に関する要望書
本会は3月24日,下記要望書を東京都に提出しました。
1997年3月24日
東京都知事 青島 幸男 殿
社団法人 日本建築学会
会 長 尾島 俊雄
東京都復興記念館の保存に関する要望書
拝啓 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
日頃より、本会の活動につきましては、多大なご協力を賜り、厚くお礼を申し上げます。
さて、貴下におかれましては、現在、「都平和祈念館」(仮称)を計画され、東京都復興記念館に合築するため、復興記念館既存建物の過半部分の取壊しを考えておられる旨うかがっております。
ご承知のように、復興記念館は、横網町公園に、慰霊堂(旧・震災記念堂、昭和5年)、鐘楼(昭和5年)と一体の施設として、昭和6年につくられました。この敷地一帯の施設の計画・建設は東京震災記念事業協会が行いました。同協会は大正12年9月1日の関東地震にともなう未曾有の惨事の犠牲者を弔うとともに、このような天災に対処する方策の必要性を訴えるために設立されたものです。施設の設計はいずれも同協会が自ら行っています。より具体的には、同協会顧問の伊東忠太(当時・東京帝国大学名誉教授)が設計に関与し、萩原孝一(東大建築学科大正10年卒業)がその下で設計図を作成したと考えられます。
復興記念館は以下の3点で保存すべき建物と考えます。
1) 場所の記憶を保持する点で重要な建物である。
よく知られておりますように、この場所(旧・陸軍被服廠跡)は関東大震災でもっとも多くの犠牲者を出したところです。そのために犠牲者の大半をここで荼毘に付すことになり、他の地区からのものを含めて犠牲者の遺骨が集められる場所になりました。震災犠牲者を慰霊するための象徴的な地と認識されるようになったわけです。この場所には震災前に公園計画が立てられていましたが、震災の犠牲者を弔うとともに、同様の天災に対処する方策を後に続く世代に考えてもらうために、当初の公園計画を変更してまでつくられたのが、この場所の一連の施設です。慰霊堂や復興記念館だけではなく、鐘楼や公園も含めて、すべてその目的のためにつくられたものです。いわば関東大震災における人々の無念さや苦しみを後世に伝えるための場所であり、その惨事を繰り返さないようにとの思いが込められた場所なのです。そのような場所の特性を重視することは都市行政においても当然と考えられます。復興記念館はその記憶のためにつくられた施設であり、これをつくった人の思いを伝えるための重要な存在のひとつであることはいうまでもありません。
2) 慰霊堂などとともに群を構成して、昭和初期のデザインの特徴をよく伝える存在である。
復興記念館は震災の記念物や復興関係の資料を展示するためにつくられました。この建物には当時の展示施設に適用された設計手法がよく示されています。それは、外観においては、タイル壁に凹凸をつけて秩序を生み出しながら、記念性を表現するところに見られます。また瓦を葺いた短い軒は慰霊堂の和風のデザインとの対応を意識したものと考えられます。軒を含めたこのような立面構成は、当時のひとつの典型で、大礼記念京都美術館コンペ(昭和5年)などの当選案にも見ることができます。内部では、玄関ホールや階段室、2階中央の展示室のデザインなどに、当時のデザインの特徴がよく現れています。
ちなみに、慰霊堂は和風のデザインですが、これも日本的なデザインを求める当時の風潮に沿ったもので、過去の建築様式を自由にアレンジしながら、新しい構造を用いて、伝統を表現しようとしています。正門や鐘楼も同様の方針で設計されています。
このように、この場所では昭和初期のデザインの特徴を示す建物が、インテリアも含めて、複数存在していることが注目されます。しかもそれらは、震災の記念という、ひとつの目的のために、同じ設計者(組織)によって、全体計画を含めて構想されたものである点で貴重です。その一方で、それぞれ異なる機能を持つ施設であるために、当時のデザインの多様性をも同時に見てとることができます。一体的に昭和初期の建築・造園の設計方法を残すという点では都内でも有数の場所と考えられます。
3) 景観構成上、重要な建物である。
復興記念館は横網町公園にあり、清澄通りに面しております。多くの都民の目に触れる場所に建っています。このような立地の歴史的建造物が景観構成上重要であることは今では広く認められていると思われますし、都がこの建物を「歴史的建造物の景観意匠保存事業」の対象建物(150棟)に選定しておられることは、都自身もその価値を認めておられることをよく示していると理解されます。
以上のことから、貴下におかれましては、東京都復興記念館の文化的意義と歴史的価値についてあらためてご理解いただき、このかけがえのない文化遺産が永く後世に継承されますよう、格別のご配慮を賜りたくお願い申し上げる次第です。
敬具
東京都復興記念館の建築史上の価値について
社団法人 日本建築学会
建築歴史・意匠委員会
委 員 長 中 川 武
東京都復興記念館は、震災の記念品や復興関係の資料を展示するためにつくられました。このような展示計画は東京震災記念事業協会の発足時にすでに構想されていましたが、当初は慰霊堂の一部をそれにあてることになっていました。しかし、同協会が市民に記念品の提供を募ったところ、予想をはるかに超える点数が集まったために、独立した施設として敷地内に計画されたものです。
『被服廠跡』(同協会清算事務所、昭和7年)や『建築雑誌』昭和6年8月号の竣工記録には、設計者の個人名はあがっておらず、「東京震災記念事業協会」とだけ記されています。したがって個人名を特定するのは困難ですが、慰霊堂の設計が伊東忠太であること、復興記念館の着工時まで伊東が同協会の建築顧問をつとめていたこと、また同協会の建築関係の技師として萩原孝一の名だけがあがっていることから見て、復興記念館の設計に伊東忠太がまったく関与していないとは考えにくく、おそらく伊東の示唆や指導のもとで萩原孝一が図面をつくったと見るのが妥当と思われます。
ちなみに、伊東忠太(1867〜1954)は建築史研究の泰斗であっただけではなく、東京帝国大学建築学科教授として日本の建築界をリードし、その学識をもとに設計を積極的に行ったことでも知られております。また、建築関係者の中では初の文化勲章受賞者です。
この建物は2階建の箱型の建物で、平面・立面とも左右相称を意識して設計されています。これは記念性を表現するためと考えられます。外壁はタイル張りで、側面はかなり平滑で、単純化されていますが、3.7mスパンの柱間にあわせて凹凸がつけられており、それによって秩序ある立面がつくり出されています。正面はもっとも設計者が意を用いたところで、タイル張りの柱型を6本中央に並べて、その中に石張り箱形の玄関を設けています。過去の建築様式を用いるのではなく、より簡単な手法で立面に秩序と威厳をもたらそうとしており、当時の典型的な立面構成法のひとつといえます。
また、頂部には短い軒を張り出し、瓦を葺くとともに、肘木や斗組を簡略化したような持ち送りをつけています。これも当時行われたデザインの一種で、日本趣味や東洋趣味を表現したいときに用いられたものです。この場合は、慰霊堂の和風のデザインとの対応を意識して導入されたと考えられます。
内部は1階が震災関係の展示、2階が復興関係の展示になっており、1階の陳列室は側窓から、2階はトップライトから採光しています。特に2階は大きな絵画を展示するために長い壁面が必要なので、このような構成をとったと考えられますが、それによって、外壁に1階だけ窓が並ぶことになり、それが立面に変化を与える根拠に利用されています。このように内部の展示や空間の構成と立面とを関連づけるのは、有能な建築家が建物を設計する際に留意する重要なポイントのひとつです。また、内部は当初の姿を、材料も含めて、よく維持していると考えられます。
以上から、東京都復興記念館は、昭和初期の建築のデザインのやり方をよく示す建物として歴史的に重要な存在と言うことができます。しかも外部・内部とも当初の姿をよくとどめています。さらに、その周囲には、一体で計画された慰霊堂や鐘楼、正門、公園が残っており、全体で昭和初期の雰囲気をよく残していることも注目されます。
以 上