2002年9月18日
東京都北区
区 長 北本 正雄 様
社団法人 日本建築学会
会 長 仙
田 満
旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟の保存・活用に関する要望書
拝啓 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
日頃より、本会の活動につきましては、多大なご協力を賜り、厚く御礼を申し上げます。
さて、貴台におかれましては、旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟が建っております場所に、図書館の建設計画を進め、平成11年6月24日の区議会企画総務委員会で、建物の一部活用を検討するとの報告が企画部からあり、6月26日の読売新聞にも「建物を周辺の敷地こみで今年度中に国から購入し、部分保存することを決めた。」とあります。その後、図書館の建設計画が具体的に進められているとの話が伝わってきますが、旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟の建物について、どのように保存計画が進められているのか、いまだ公に発表されておりません。
ご承知のように、この建物は旧陸軍の東京砲兵工廠銃包製造所のなかで唯一現存するものであります。東京砲兵工廠銃包製造所の一群の建物について、本会では以前より、わが国における明治・大正・昭和戦前の近代建築調査研究に着手し、その成果を『日本近代建築総覧』(昭和55年)として刊行し、そのなかでも特に重要な建築については、歴史的・文化遺産としての価値と保存の意義を所有者にお伝えしてまいりました。また、本学会の日本全国における代表的な建造物を網羅した『総覧日本の建築3 東京』(昭和62年)のなかにも取り上げられており、本学会においては極めて重要な歴史建造物に位置づけております。貴台所有の旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟が、その対象であることは既にご承知のことと存じます。
旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟は、当時優秀な技術者をかかえていた陸軍省の設計によって、大正8年に弾丸鉛身場として建設された煉瓦造の建物です。十条駐屯地に建設された煉瓦造の建物を見ると、その構造形式が同じ煉瓦造であっても、明治期には「木骨煉瓦造」の建物が、大正期には「煉瓦造」の建物が多く建設されております。関東大震災による被害をみると「木骨煉瓦造」よりも「煉瓦造」のほうがはるかに少なく、275号棟の建物は、技術的にほぼ完成された時代の煉瓦造を示す建物であると考えられ、日本の耐震構造技術の進歩を知る上でも貴重な存在であります。また建物に使われた煉瓦については、北区内の工場で焼成されたものがあることも知られており、北区の近代を考える上でも重要で、かけがえのない建物であると考えられます。
つきましては、貴台におかれましてこの建物の北区の近代における文化的価値、および建築史上の重要性についてご理解いただき、その歴史的価値をできるだけ後世に伝えるべく、旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟の保存・活用をご検討いただけますよう、お願い申し上げる次第です。
なお、本会はこの建物の保存・活用について大きな関心を持っており、可能な限り、お手伝いさせていただきたいと考えていることを申し添えます。今後とも、優れた歴史的建造物と良好な環境の保全のため、一層のご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。
敬 具
旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟についての見解
社団法人 日本建築学会
建築歴史・意匠委員会
委員長 高橋 康夫
1、建築物としての見解
陸上自衛隊十条駐屯地の歴史は、東京砲兵工廠が小石川から十条の地に移ってきた明治38(1905)年に始まる。十条駐屯地には、明治から昭和戦前期にかけていくつもの建物が建設されたが、現在は旧275号棟が残るのみである。
これら、旧陸上自衛隊十条駐屯地の建物の設計は陸軍省による。当時の陸軍省は優秀な技術者を数多くかかえており、質的にも高度な建物を建設していた。十条駐屯地の建物は、そのような高度な技術を持った技術者によって建設された例としても、重要な存在といえる。
旧275号棟の建物は、弾丸鉛身場の建物として大正8年に建設された。建物の規模は桁行方向が54.00メートルで、梁間方向が26.94メートルの大きさをもつ。梁間方向の中央部に鉄骨の柱をもち、鉄骨で作られた二つのトラスからなる2連棟の形式をもっている。軒高は5.45メートルで、外壁は1.5枚厚の煉瓦造平屋建の建物である。
現在は失われてしまった建物をも含めて、陸上自衛隊十条駐屯地に建設された主要な煉瓦造の建物をみると、その構造形式が同じ煉瓦造であっても、明治期には「木骨煉瓦造」の建物が多く、大正期には「煉瓦造」の建物が多くなっている。明治から大正にかけて、日本の主要な建物は煉瓦造で建設されており、また煉瓦造の建築技術も、地震に対する対応など大きく発展しつつあった。旧陸上自衛隊十条駐屯地の建物について関東大震災による被害をみると、明治期建設の「木骨煉瓦造」よりも大正期建設の「煉瓦造」のほうがはるかに少なくなっている。このことは、十条駐屯地の建物をみても、明治から大正にかけて日本の耐震構造技術が進歩していたことがわかる。大正期に建設された275号棟の煉瓦造の建物は、技術的にある程度完成されたものであると評価することもできる。文化財としても、東京に残された数少ない煉瓦造建物の一つであり、重要な存在といえよう。
2、地域としての価値
陸上自衛隊十条駐屯地の煉瓦造の建物には、北区内の小さな煉瓦工場で焼かれた煉瓦が用いられており、北区の郷土史的な視点から見ても重要な存在であることがわかる。
明治以降、多くの煉瓦造の建築物が建てられていったが、建設に使用した煉瓦の生産についてみると、ホフマン窯などをつくり、西欧の技術をそのまま受け入れていた点もあるが、その一方で、それまで瓦を焼いていた伝統的な職人たちが、瓦と一緒に煉瓦を焼いた事例も明らかにされている。またその煉瓦は、伝統技術を受け継ぐ左官職人によって積まれた。町場の小さな煉瓦工場で焼かれた煉瓦は、当初は窯の火力が低く、建物の構造として使用するだけの強度をもった丈夫な煉瓦を焼くことは出来なかったが、やがて登り窯をつくるなど改良を重ねていくことで、十分な強度を持った煉瓦も焼けるようになっている。たとえば、銀座煉瓦街を建設した明治初期には、隅田川(旧荒川)流域で瓦を焼いていた業者が煉瓦を焼くことを試みている。このような業者は、明治35年には旧東京府内に19軒あり、王子周辺にもいくつかの工場が確認されている。
煉瓦のなかには、煉瓦を焼いた工場の刻印が押されているものがあり、この刻印によって、どこで焼かれた煉瓦であるかがわかる。調査の結果、十条駐屯地内の煉瓦造の建物にも、王子周辺などの工場で焼かれた煉瓦が使われていることが確認されている。旧275号棟の建物にも、王子周辺の工場で焼かれた煉瓦の刻印を確認することが出来る。このように、旧275号棟の建物は、北区の近代史を考えるうえで重要な存在であり、かけがえのない建築物である。しかも現在は、十条駐屯地の建物の建て替えがすすんでおり、建設時の姿をうかがうことのできる建物は、旧275号棟だけである。
北区内の煉瓦工場で焼かれた煉瓦を使用して建設された旧275号棟の建物は、日本の近代を支えてきた「近代化遺産」「産業遺跡」としても注目される。そして、旧275号棟の建物に使われている鉄骨材からは、「SEITETSUSHO YAWATA ヤワタ」の刻印も発見されている。当時の建築に使われた鉄骨材の多くは外国製によるものであるが、ここでは、国産の材料である八幡製鉄所でつくられた鉄骨が使用されているのである。建物に使われた鉄骨そのものも、日本の近代化遺産として重要である。
さらに十条周辺を見れば、醸造試験場、製紙工場、印刷工場、青淵文庫、晩香廬などなど、北区の近代を伝える建築物が集中してみられる。まちづくりにおいて、北区の独自性、北区らしさを打ち出していくうえでも、これらの近代化遺産は今後大きな役割を果たしていくことと思われる。旧275号棟の建物は、北区のまちづくりを考える上でも欠くことのできない建物であるといえよう。
以上のように、旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟は、日本の近代建築史を考えるうえで、また北区の近代化、さらには近代化遺産など、歴史的な景観と、その歴史の継承を考えるうえでも、極めて重要な建物に位置づけられると判断できる。ついては、貴台におかれましては、旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟の文化的意義と歴史的価値についてあらためてご理解をいただき、このかけがえのない文化遺産が、永く後世に継承されますよう、格別のご配慮を賜りたくお願い申し上げる次第である。
以 上