2002年9月13日

 大磯町
 町 長 片野 一雄 様

 大磯町議会
 議 長 三澤 龍夫 様

 株式会社 ユニホーム
 代表取締役 麦島 善廣 様

                              社団法人日本建築学会 関東支部
                              支部長 小谷 俊介

旧三井守之助大磯別荘の保存・活用に関する要望書

 拝啓 時下ますますご清勝のこととお慶び申し上げます。
 日頃より我々の活動につきまして、多大なご理解とご協力を賜り厚く御礼申し上げます。
 さて、貴町大磯字北本町に所在する「旧三井守之助大磯別荘」につきまして、その存続が危うい旨聞き及んでおります。
 旧三井守之助大磯別荘は、貴町が「文化財として貴重な資料や建築物をまとまった資料として残すため」に作成された『大磯のすまい』(大磯町教育委員会、1992年)にも取り上げられており、貴町におかれましても貴重な文化財と位置付けておられることを承知しております。
 日本建築学会ではこれまで日本全国の明治大正昭和戦前期の近代建築を対象とした調査を行い、その結果として現存する貴重な建築物を記録した『日本近代建築総覧』を1980年に刊行しております。旧三井守之助大磯別荘は『日本近代建築総覧』に収録されており、従来から私どもでは貴重な建物としてその保存・活用を求めている建物の一つです。
 『大磯のすまい』にも記されておりますとおり、旧三井守之助大磯別荘は、東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)の設計にも参画し、明治期から昭和期にかけて天皇家、宮家などの邸宅建築を数多く手がけた木子幸三郎の設計であることが知られており、別紙見解に示しましたように、戦前期大磯の別荘建築を代表する貴重な遺構です。
 また、三井財閥の一角をなす永坂町三井家によって明治期に設置されたという経緯を考えるならば、近代以降有力な政財界人の別荘地として発展してきた大磯町の地域文化を具体的に物語るきわめて価値ある建築と言えます。
 つきましてはこのかけがえのない建物を後世に伝えるべく、保存・活用のための方途をご検討頂きますよう御願い申し上げる次第です。
 なお、我々はこの建物の保存・活用に関しまして可能な限りのお手伝いをさせて頂きたいと考えておりますことを申し添えます。
 今後とも優れた由緒ある建物と良好な居住環境の保存のためにご理解とご協力を賜りますよう御願い申し上げます。

                                      敬 具


「旧三井守之助大磯別荘」についての見解

                              社団法人日本建築学会 関東支部
                              歴史意匠専門研究委員会
                               主 査  星 和彦

1. 建物の概要
 旧三井守之助大磯別荘は、三井守之助(1874〜1946)の別荘として昭和2年(1927)に建設された。守之助(守之助は通称で本名は高泰)は、戦前の日本を代表する財閥三井家の連家永坂町三井家の8代目当主である。守之助は既に明治39年(1906)にこの地に別荘を設けていたが、関東大震災後の昭和2年に、現在の建物を新たに建設した。守之助逝去後は三井高篤が相続し、昭和31年(1966)以降は村田直哉氏が常住の住まいとして使用されていた。
 木造2階建てで、延床面積は約131坪、設計は木子建築事務所、施工は清水組(現在の清水建設)である。1階に居室3室と事務室、厨房、女中室、水まわりなどを置き、2階に居室3室と化粧室などを置く。2階の1室を除いて居室はすべて和室である。外観は一部にハーフティンバーを用いるなど洋風である。
 旧三井守之助大磯別荘については、東京都立中央図書館木子文庫に「永坂三井家大磯別邸」と表題のあるおよそ250枚の図面が所蔵されている。初期の計画段階の図面から、原寸図を含む実施設計図まであり、当初の実施設計図と現状を比較すると、事務室、厨房まわり、水まわり部分および建具などには改造が見られるものの、内部外部ともに旧状を良く留めている。

2. 日本近代建築史における価値
1) 木子幸三郎設計の住宅作品としての価値
 木子建築事務所の主宰者木子幸三郎は明治7年(1874)、木子清敬の次男として生まれた。木子家は天皇家出入りの大工棟梁の家柄であり、木子清敬は明治宮殿造営などに関わった明治期の和風建築の第一人者であった。木子幸三郎は東京帝国大学で建築を学び、住友本店臨時建築部、東宮御所(現赤坂迎賓館)御造営局、宮内省内匠寮技師を勤めた後、大正11年(1919)木子建築事務所を開設した。木子幸三郎はその間、住友家須磨別邸、東宮御所、竹田宮洋館(現高輪プリンスホテル洋館)、永坂町三井家洋風別館、北白川宮大塚別邸、鈴木三郎助邸(現味の素記念館)などの設計に携わった。没年は昭和16年(1941)である。邸宅建築を得意とし、東宮御所などの洋風建築、鈴木三郎助邸などの和風建築、いずれも手がけた建築家であった。
 旧三井守之助大磯別荘は、木子幸三郎が得意とした邸宅建築を代表するものの一つであり、さらに、内部は和風を主とする構成でありながら外観を洋風とする意匠を破綻なく成立させており、和風建築、洋風建築いずれにも精通した木子幸三郎ならではの作品である。木子幸三郎の設計した邸宅建築で現存するものは少なく、旧三井守之助大磯別荘は木子幸三郎の設計による住宅作品の現存遺構として極めて貴重である。
 また、既に述べたように旧三井守之助大磯別荘については、東京都立中央図書館木子文庫に図面類が所蔵されており、建物も当初の様相を良く留めている。また、施工は清水組であることが判明しており、このように旧三井守之助別荘は、施主、設計者、施工者が明らかで創建時の図面も存在し、建築の履歴が明らかな得がたい遺構である。
2) 平面および意匠上の価値
 旧三井守之助大磯別荘の平面は、主人家族の居住部分以外に、玄関脇に事務室部分をもち、別荘建築でありながら本邸の建築に見られるような構成をもつ。通年の使用を念頭においた都市近郊の別荘建築ならではの構成であり、大磯の別荘建築の平面の特質を読み解く指標となりうるものである。
 主人家族の居住部分の内主要な居室はすべて南側に配される。1階に3室、2階にも同じく3室を置き、当初の図面では1階の1室に「和風食堂」とある以外はいずれも「和風居室」「洋風居室」とのみ記されており用途は判明しない。当初の図面によれば2階のベイウィンドウを持つ居室のみが洋室で他はすべて和室であるものの、1階東南に配置された和室はベイウィンドウと暖炉を付設させ巾木をまわすなど、和室でありながら洋風の意匠を混在させている。
 外観の魅力もほぼ南面に集中する。敷地北側にがけを背負い、道路からのアプローチも南面にあるためである。南面ファサードは腰部を石張りとするハーフティンバーで、ベイウィンドウを配し、天然スレート葺きの屋根にドーマーウィンドウを開く。南面ファサードは垂直線を強調したデザインだが、玄関部および西、北、東面は1階部分を下見板張り、上部をモルタル塗りとする水平線を強調した意匠とし、異なる意匠を組み合わせているものの、全体として均整の取れた品格ある作品となっている。
 明治以降、平面においても意匠においても、洋風と和風をいかに取り入れ組み合わせるかは住宅建築の主要な課題であった。旧三井守之助大磯別荘にみられる、内部は和風を主としつつも外観は洋風とする表現もその回答の一つであり、近代の住宅建築における生活様式や建築様式の「和風」と「洋風」の問題を考えるうえで、貴重な資料となりうる建物である。

3.地域の文化財としての価値
 大磯町の近代の歴史は別荘地としての発展と大きな関連性をもつ。明治初期の海水浴場開設や、東海道線開通を契機とし、大磯の別荘地化は急速に進んだ。湘南の別荘地の内、大磯と並んで近代以降別荘地として著しく発展した葉山は、皇族や宮家の別邸が設けられた点に大きな特色があった。一方、大磯は政治家や財閥の別荘が中心であり、伊藤博文、山縣有朋、大隈重信、岩崎弥之助、浅野総一郎などが大磯に別荘を設けている。三井家の場合、本家にあたる北家の八郎右衛門が明治22年(1889)に西小磯に、本村町家の養之助は同33年(1900)に東小磯に別荘を設けており、守之助は彼らに次いで別荘を設けたことになる。大磯に設置された三井家の別荘の内、今日現存するのは旧三井守之助大磯別荘のみであり、大磯と関係の深かった三井家の別荘建築の貴重な遺構である。
 すなわち、旧三井守之助大磯別荘は、三井家をはじめ当時の一流の政財界人に好まれた別荘地大磯の歴史を後世に伝えうる、貴重な地域の文化財であるといえる。

4.地域の景観上の価値
 旧三井守之助大磯別荘のある一帯は大磯の駅前海岸側に位置し、大磯の中でも極めて早い時期に別荘地化した一帯である。現在では一部開発され、当初の景観が失われつつあるものの、旧三井守之助大磯別荘や隣接する旧岩崎別荘(現エリザベスサンダースホームなど)の周辺は、樹齢を重ねた豊かな緑や石積みの擁壁など明治期からの別荘地としての景観を良く保つ。
 近年、大磯町が制定したまちづくり条例は、大磯らしい景観の保全をその目的の一つとするものであることを考えるならば、旧三井守之助大磯別荘を含む駅周辺の景観は、別荘地として発展してきた大磯の特徴ある景観をよく保っており、後世に伝えるべく保全・活用すべきものである。

                                      以 上