2002年2月25日

高崎市長 松浦 幸雄 様

旧井上房一郎邸の保存に関する要望書

                              社団法人 日本建築学会
                              会 長  仙 田 満

 拝啓 時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。
 日頃より、本会の活動につきましては、多大なご理解とご協力を賜り、厚く御礼を申し上げます。
 さて、高崎市八島町にあります「旧井上房一郎邸」が公売にかけられる告知がなされました旨、聞き及んでおります。
 しかしながら、改めて申し上げるまでもなく、この建造物は、単に一個人の住宅としてだけでなく、高崎市の歴史にとり、また日本の近代建築史においても、重要な位置を占めるものであります。井上房一郎は、親交のあったアントニン・レーモンドのいまはなき東京麻布、笄町のレーモンド邸に感銘を受け、焼失した自邸の再建のため、レーモンド邸を実測し自邸を建設いたしました。その房一郎は、繰り返すまでもなく、第二次世界大戦前から戦後にかけ、長く高崎市、さらに群馬県の文化、とくに建築文化に貢献いたしました。さらにレーモンドは、群馬音楽センターが「モダン・ムーブメントにかかわる建物と環境形成の記録調査及び保存のための国際組織」(DOCOMOMO)の日本を代表する近代建築作品、二十(DOCOMOMO二十選)のうちのひとつに選ばれましたように、貴市とは縁が深いだけでなく、建築物をとおして、また日本の戦後建築界を支える建築家を輩出させた設計事務所活動をつうじて、日本の近代建築に重要な役割を果たしたことが評価されています。笄町のレーモンド邸が失われた現在、その面影を伝えるだけでなく、房一郎とレーモンドの関係や各々の業績を知る上でも、この建物は欠くことができません。貴市がその点で、この 「旧井上房一郎邸」のもつ建築のみならず文化的な価値を認識されておりますことは、建築と環境を保存していく先進的な制度であります、高崎市の都市景観重要建築物の第一号として、この建築を指定されましたことにも、示されております。
 つきましては、「旧井上房一郎邸」の建つ貴市とされまして、この建物の存続と活用に格別のご配慮を願えれば、幸甚に存じます。
 なお、本会はこの建造物の存続、ならびに今後生じます保全・活用の問題に関しまして、可能な限りお手伝いをさせていただきたいと考えております。今後とも、この優れた由緒ある建物と良好な環境の保存のため、ご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。

                                      敬 具


「旧井上房一郎邸」についての見解

                              社団法人 日本建築学会
                              建築歴史・意匠委員会
                               委員長 高橋 康夫

1 近代建築史における価値
 旧井上房一郎邸は、井上房一郎(1898−1993年)の自邸として、1952年(昭和27年)に建設された。敷地は群馬県高崎市の駅西側にあり、高崎市美術館や市立南小学校と隣接しており、駅前から通り一筋を隔てただけにも関わらず、静穏で緑豊かな佇まいが維持されている。井上邸は、南に面して中庭とその東側に居間、西側に寝室、和室、台所などが配置され、北側は玄関と廊下からなる、平屋の住宅である。この建物は、チェコ生まれの近代建築家で、長く日本で活動した、アントニン・レーモンド(1888−1976年)が東京の麻布笄町に建てた自邸(1951年)との関連がよく指摘され、レーモンド設計という表現をされることもある。井上は、第二次世界大戦前からレーモンドと交友関係にあり、第二次大戦後再来日し、建築活動を開始したレーモンドの笄町の自邸も訪れており、その建物に強く感銘を受けていた。おりから自邸を焼失した井上は、レーモンドの許可を得て笄町の住宅を実測させ、それをもとに新たな自邸を設計した。したがって、住居と事務所から構成されていたレーモンド自邸とは異なり、井上邸は住居部分のみからなっている。また、中庭と居間、寝室の関係が両者では逆転している。さらに、井上邸には和室も加えられていた。それにも関わらず、柱筋が外壁とずらされた平面計画、柱や垂木を二つ割りの丸太で挟み込む構法など、いわゆるレーモンド・スタイルの特徴がよく踏襲されており、原設計レーモンド、実施設計井上ともいうべき、両者の建築的意図と表現の融合された作品となっている。
 レーモンドが日本の近代建築に果たした貢献はよく知られるところである。井上の委託に応えレーモンドが設計した群馬音楽センターは、高崎を代表する建築であるだけでなく、「モダン・ムーブメントにかかわる建物と環境形成の記録調査及び保存のための国際組織」(DOCOMOMO)の日本を代表する近代建築作品、二十(DOCOMOMO二十選)のうちのひとつに選ばれている。井上邸だけでなく、群馬音楽センターをとおして、レーモンドは群馬の建築文化と分かちがたく結ばれている。
 井上邸は、単に井上とレーモンドの関係から捉えられる建物ではない。レーモンドの笄町の自邸が存在しない現在、井上邸はレーモンドの住宅空間を彷彿させるだけにとどまらず、日本の近代建築史においても、重要な位置を占める作品ということができる。

2 地域文化財としての価値
 旧井上房一郎邸は、2000年(平成12年)に始まる、高崎市の都市景観重要建築物 の第一号として指定された。都市景観重要建築物制度は、「高崎市に現存する歴史的建築物等で地域の特色ある景観を構成する重要な要素になっているもの」、「著名な建築家の設計によるもので市のシンボルとなっているもの」、「著名人が滞在した等の謂われがあるもので地域の活性化の資産となるもの」を高崎市が指定、顕彰する、高崎市独自の制度である。こうして、建物やそれに関わる人が高崎の歴史にとり記憶される意味があるだけでなく、現在の高崎の都市景観を形成する上で、欠くことのできない建物や環境を積極的に保存ならびに公開していこうとする制度である。井上邸は、群馬の芸術全般、とりわけ建築に果たした役割を評価できる井上房一郎の自邸であっただけでなく、日本建築界に偉大な足跡を残したレーモンドゆかりの建物でもある。さらに、敷地と建物は、高崎駅前の喧騒な市街地の中にあって、独特の静寂をもたらしている。したがって、井上邸の建築的な価値は、日本の近代建築史にとってと同時に、高崎の地域文化財としての視点からも、他に変えることのできないものであるといえる。