2001年11月28日

東京都住宅局長
 橋 本  勲 殿

                              社団法人 日本建築学会
                              会 長  仙 田 満

旧同潤会大塚女子アパートメントハウスの保存・再生に関する要望書

 拝啓 時下益々ご健勝のこととお喜び申し上げます。
 日頃より、本会の活動につきまして、多大なご理解とご協力を賜り、厚く御礼申し上げます。
 さて、貴東京都住宅局で所有ならびに管理されている旧同潤会大塚女子アパートメントハウス(以下、「大塚女子アパート」と称す)は、築後70年以上を経過していることから、外壁の落下防止のための養生を必要とするなど、今、そのあり方を抜本的に検討する時期にきていると思われます。
 改めて申し上げまでもなく、この大塚女子アパートは戦前期の都市型住宅として鉄筋コンクリート造による高層高密度住宅を手掛けた財団法人同潤会の代表的作品の1つで、わが国の集合住宅の歴史を考える上で極めて貴重な遺構といえます。加えて、この大塚女子アパートはその名が端的に示すように、わが国初めての職業婦人専用の集合住宅として建てられたもので、その価値は近代建築史だけではなく社会史・文化史的観点からにも極めて重要な価値を有する貴重な遺構といえます。
 また、本会はこれまで日本全国の明治・大正・昭和戦前期の近代建築を対象とした調査を行い、その結果として現存する貴重な建築物を記録した『日本近代建築総覧』を刊行しております。この大塚女子アパートは、この本会のまとめた『日本近代建築総覧』に収録されており、従来から私どもでは貴重な建物としてその保存・再生を強く求めている建物です。この大塚女子アパートを手掛けた同潤会の作品に関しては、現在旧青山アパートの再開発事業に伴い、その存続が危ぶまれ、本会では保存要望書を提出させていただいております。しかしながら、旧青山アパートを含め、現存する同潤会の手になる集合住宅は戦後都から民間に分譲され、民間所有の建物となり、その保存再生の最終的な意志は所有者である民間にゆだねざるを得ません。しかしながら、幸いにも大塚女子アパートは戦後の分譲策の中で唯一都の管理下におかれ現在にいたっており、その所有形態から見れば、大塚女子アパートは保存・再生の可能性が他と比べ絶対的に高い遺構といえます。つきましては、この貴重な文化財としての価値を有する大塚女子アパートの保存・再生の可能性を追及し、後世へと伝えていく方策を積極的に検討していただきたいと存じます。そして、それが偶然にも一貫して公共的な立場で使用されつづけて来た大塚女子アパートに対するわれわれの責務であり使命であると考えます。
 なお、本会は、この建物の保存・再生に関しまして、可能な限りお手伝いをさせていただきたいと考えておりますことを申し添えます。今後とも、優れた由緒ある建物と良好な都市環境の保存のために、ご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。

                                      敬 具


旧同潤会大塚女子アパートメントハウスに関する見解

                              社団法人 日本建築学会
                              建築歴史・意匠委員会
                               委員長 高橋 康夫

1:戦前期を代表する同潤会のアパートメントハウス(集合住宅)の一例である
 旧同潤会大塚女子アパートメントハウス(以下、大塚女子アパートと称す)を計画し、またその運営にあたっていたのは大正13(1924)年に創設された財団法人同潤会である。この同潤会は関東大震災で被害を受けた東京・横浜地区を対象に住宅復興を目的として設立されたわが国最初の公的供給機関で、わが国の近代住宅史上ならびに住宅政策史上極めて重要な役割を担った組織として知られている。
 この同潤会の事業のなかで、とりわけ注目されるのが当時の最先端の技術であった鉄筋コンクリート造による耐震耐火構造のアパートメントハウス(集合住宅)の建設事業であり、大正14年度から昭和9年までの間に都内に13ヶ所、横浜に2ヶ所、合計2508戸の住戸を建設した。大塚女子アパートは、これらの同潤会の代表的な事業の一つとして昭和4(1929)年に起工し、昭和5(1930)年に竣工している。
 また、この最先端の技術やデザインによる建築の実現させたのが、優秀な技術陣であった。すなわち、同潤会の設計部門は、同潤会理事であった東京帝国大学教授内田祥三(うちだよしかず 1885-1972)の門下生が集められ、当時のわが国の最高度の知識と技術を備えた人材が結集した設計組織であったのである。この大塚女子アパートの設計に関与したのは、当時、同潤会に嘱託として席を置いていた野田俊彦(のだとしひこ 1891-1929)である。この野田は、大正4(1915)年東京帝国大学を卒業するが、その時の卒業論文が戦前期の著名な建築論で知られる「建築非芸術論」で、野田の理論と実際の建築活動との関連を知るための唯一の貴重な遺構でもある。

2:女性の社会進出という時代の趨勢を端的に反映したアパートメントハウスである
 大塚女子アパートは、鉄筋コンクリート造の地上5階建て地下1階で、住戸数は157戸、このうち、6戸は一階の店舗併用住戸である。個室は、畳敷きの和室とともにベッドを用いた洋室も用意されており、洋風生活を求める居住者に対応できるように計画されている。また、個室以外に、共同使用の食堂、浴室、応接室、音楽室、及び日光室、また、上下移動に便利なエレベーターなど同潤会の他のアパートメントハウスと同様に共用施設が充実している最先端のアパートメントハウスの代表例といえる。
 また、この大塚女子アパートは、同潤会の事業報告書によれば、「わが国最初の女子専門のアパート」で、「女子独身者に対して従来の居住の不安定を一掃する目的を以って建てられた」ものである。すなわち、女性の社会進出が加速されるなかで、独身女性が安心して都心生活を過ごすことのできる施設として計画されたもので、その出現は、時代の要請に適したものとして多大の評価を博したことが記されている。鉄筋コンクリート造のアパートメントハウスを供給し続けた同潤会でも女子を対象としたものはこの大塚女子アパートだけであるが、この作品は当時の社会的要請を意識した極めて意欲的な試みとして実現したものであり、この大塚女子アパ−トこそ、当時の同潤会の活動内容の性格を端的に示す貴重な事例ともいえる。

3:時代の特徴を表すデザインと計画
 外観は、道路側全体に昭和初期に流行した表面に細かな筋の入った凹凸のあるスクラッチタイルが張られ、また、1階の店舗部分はアーチ状の開口部、住戸への玄関部の円柱など、全体の雰囲気は大正末期にわが国で新しい建築様式として流行した表現主義を簡素化したもので、時代の特徴をよく反映している。
 計画面では、1階の応接室が中庭に自由に出入りできるようにその繋がりを強く意識して計画されている。また、最上階の屋上の一郭に設けられた日光室は、南側前面がスチール製のガラス戸、屋外にはパーゴラがあり、応接室同様に屋上と連続した一体的な計画が見られる。これらの中庭や屋上という外部の場との一体化を意識した計画は、まさしく、限られた敷地の高度利用を追及した都市型のアパートメントハウスならでは計画といえる。なお、この日光室は、建物が中庭を取り囲んでコの字型をしているため、各個室がその位置によって十分な採光を得られないために設けられたもので、昭和初期に見られる健康重視の意識を建築化した施設ともいえ、建設当時の時代性をよく反映しているといえる。

4:唯一の公共機関所有の遺構である
 同潤会の手になる15ヶ所のアパートメントハウスは、住宅営団を経て、戦後は東京都の管理化に置かれ、その後、居住者を対象として分譲された。しかしながら、この大塚女子アパートだけは、女子専門のアパートということもあって旧同潤会のアパートメントハウスの中で唯一公共住宅として維持され続け、今日に至っている。その意味で、当初の目論見であった公共集合住宅として、一貫して使用され続けられた唯一の事例といえるのである。
 以上の観点から、貴所有の旧同潤会大塚女子アパートメントハウスは、わが国の近代建築の歴史を考える上で極めて貴重な遺構であり、その保存・再生を行い、後世にこのすばらしい建築文化を伝えるべき価値を有するものである。