建築討論

「公共建築は誰のものか? ―建築設計競技をめぐって」

主催:日本建築学会 建築討論委員会
日時:2014年2月25日(火曜日)18:00-20:30
会場:日本建築学会 会議室301+302@建築会館

布野修司(建築討論委員会委員長/滋賀県立大学副学長)

 「あいさつ/ローカル・コンペとナショナル・コンペ」

(経緯とイントロダクション)
紙媒体が衰えネットが広がるとともに、建築雑誌が廃刊休刊に追い込まれてきた。そして、建築に関する議論の場が限られてきた。議論がないと実際できる建築にも力がない。こうした現状を受けて建築学会では議論を重ねて、web版の建築を議論するためのプラットフォームをつくることになった。今日の公開討論会をもって事実上のスタートとなる。投稿された建築作品について定期的に批評討論を行って、web上にアップしていく。

本日のテーマは、「公共建築は誰のものか?」である。設計者選定についても考えたい。さきに滋賀県守山市で委員長をつとめたプロポーザルコンペでは、公開ヒアリング方式を提案、その方式が採用された。2次審査に進んだ応募者が、公開の場所で同じ質問を受ける。審査員がどういう観点で設計者を選ぶかをオーディエンスが見まもる。公共建築設計者選定の仕組みとして、この方式を広めたいと思っている。一方、ほとんどの場合、公共建築建設のプロセスは、誰がどのように決めているか分かりづらいのが実状である。公共施設に様々な形で関わってきた先生たちに「公共建築は誰のものか?」というテーマでレクチャーを依頼した。建築がつくられていく仕組みプロセスについても討論したい。

第一部 ふたつのミニ・レクチャー

山本理顕(建築家)

 「国家と個人のあいだを設計する」

コンペの体験
今まで数々の公共施設を手がけてきた。設計競技=コンペにも参加してきた。そこでは、いろいろと問題がある。一例として、邑楽町の町役場のコンペ(「群馬県邑楽町役場庁舎」設計コンペ)を挙げる。最優秀に選ばれて住民とのワークショップを重ねて設計をまとめた。しかし、コンペ後に町長が変わり、実施設計まで終わった段階でキャンセルされてしまった。これは後に裁判になった。そのとき裁判長に言われたのは「コンペとは営業行為ではないのか」ということ。つまり建築家集団とは利潤を上げるための集団だと考えられているわけです。残念ながら、こうした見方が建築家の仕事に関する日本社会の共通認識である。

公共建築の私物化
公共建築は、(公共の名の下に)私的に作られているのが実状ではないか。多くの利用する人のために作られていない。行政の一組織の内側の理論でつくられている。民間の建築にしても、法律に違反していなければ、土地の所有者が利潤のために、その敷地を自由に使っていいのか。だれのために、何のために作るのか、建築家は考える必要がある。一つには利潤を上げるためだろうけれども、もう一つは地域社会に貢献するためである。公共建築は特に地域社会に貢献するべきであるが、実際はそのように作られていない。

専門家集団
公共工事の設計費が入札で決まっている。それが実情である。都営住宅の基本設計費が1円で落札されたなどという極端な例もある。1年の基本設計費を許しているのは「住宅は標準設計として既に定形化されている」という東京都都市整備局の見解である。こうした状況を許している設計者集団にも大きな問題がある。標準的な建築の仕様を行政側で決めてしまって、その後に設計者を決める。設計者は単に行政の決定を追認するしかないわけである。公共建築の設計者の決定は徹底してその選考のプロセスが透明でなくてはならない。審査員の思想が明らかでなくてはならない。設計者の思想が問われるべきである。新国立競技場のコンペも、その審査のプロセスに疑問がある。プログラムが既に国家(行政側)によって決められてしまって、設計者はその決定に従うしかない。設計者がパッケージ・デザイナーのように扱われてしまっている。設計者のような専門家集団は国家と個人の間にあって、国家権力に対する非常に重要な中間集団なのである。そういう自覚が今の設計者集団には全く欠けている。


松隈洋(京都工芸繊維大学教授/近代建築史)

 「20世紀建築を21世紀に継承せよ」
 歴史的に蓄積してきた質の高い建築を、いま一度、見直すべきであろう。関東大震災の後には、社会に本当に必要な新しい建築が多数建造された。現在は、新しい優れた建築ができにくい状況となっている。なぜ昔できたものが、今できないのかを考えるべきだ。

20世紀のコンペ/現在のコンペ
戦災からの復興期にも、建築家は建築家にはなにができるのか議論した。たとえば、広島ピースセンター/丹下健三設計のコンペがあった。「祈りの場ではなく平和を作り出す工場である。」と提唱。このコンペ案が実施されたことで「原爆ドーム」が残された。現在は世界遺産として登録されている。建築が人々の記憶に残るからである。戦後の近代建築は、新時代の社会性に対応して展開している。ホール、図書館、美術館、学校建築など、現在当たり前のように使われている、戦後型の市民に対して開かれた 公共施設のひな形はこの頃生まれたもので、当時は革新的だった。「壊すときには壊す前になぜ建てられたか考えてみよ」というヨーロッパの格言があるが、日本では、残念ながら、歴史的な見解から建築保全の判断ができていない。新国立競技場を考える上では、まず戦前の東京オリンピック誘致から1964年の東京オリンピックに至るまで、一貫してあの界隈では、神宮外苑の自然景観への配慮がなされ、周囲の建物は高さが抑えられてきたという歴史を踏まえる必要がある。建築は人間より長い時間を生きるバトンのような存在で、神宮外苑は様々なことを目撃してきた歴史的な場所である。新国立競技場コンペの要項には計画条件として歴史的な項目が一切なく、そこが問題だと指摘できる。

都市と公共建築
弘前では前川國男の建築を非常に大切にしている。前川國男設計の市民ホールが取り壊されると決まったとき、市民が手弁当で椅子を直して保全した。東京オリンピックが開催された1964年ごろ木造と非木造の建築の比率が逆転し、日本は木造の国ではなくなった。もう少し木造に対する理解を深めるべき。人口が減少するなか、建築はどうあるべきか考えるべきである。高齢化する公共インフラをどう維持するのかという課題もある。

話は変わるが、昨年どのくらいの時間で建築が作られているのか分析した。1㎡あたり建設に要する時間を試算すると、東京駅では174分、昔の東京都庁舎では65分かかっていたのが、技術の進歩によって建設にかかる時間は短くなっていって、1974年が分岐点。現代では1㎡あたり4分でビルがつくられている。職人がじっくり建築を作ることが、とてもしにくい時代であると言える。最後、本日のテーマ「公共建築は誰のものか」に話を戻すと、生きられた建築の意味をきちんと踏まえ、議論することが重要なのではないだろうか。建築界の外にいる人にとって、建築がどういう意味を持つのか建築界はしっかり考えるべき。

第二部 ディスカッション

藤村龍至(建築家、東洋大学講師)

 「自治体・市民・大学の連携による公共デザイン」
 建築家および大学でないと行うことが難しいプロジェクトに寡𩻄にチャレンジして、新しい公共建築の在り方を切り開こうとしている。大学に関わるようになって4年程たつが、地域に入って学生と公共の建築の在り方について考える機会が増えた。その実践から話をする。

鶴ヶ島プロジェクト(埼玉県)
学生が行政の公開情報を基に、公民館機能を複合した小学校施設の設計を行った。パブリックミーティング方式で設計を進める形式である。パブリックミーティング方式というのは、実際に地域の方を招いて学生提案に投票してもらい、模型を使いながらワークショップとして設計を進めていくやり方である。ここで使用する模型は500分の1で丁度都市と建築の間のスケールのものだ。

まず、地域の方々に学生が模型を使いながら提案を説明する。次に複数の学生提案に対して住民が投票する。上位数案がワークショップに進み、住民と意見を揉みあわせていく。しかしながら、最初は住民のニーズと提案がなかなか一致しない。ポイントは、このミーティングを2週間に1回のペースで5回繰り返すこと。こうして投票、ワークショップを繰り返すことで当初は技術的課題を問うばかりだった住民もポジティブになり、何ができるか提案をするように変わってくる。同時に設計者も何をすべきかわかってくる。回を重ねるごとにそれぞれが歩み寄り、提案に要素が盛り込まれる。

このような形式をとることで、地域の方には建築の選び方、そして自治体には建築を使ってどのように住民の参加意識をあげれば良いかがわかってくる。その後、市役所のロビーで展覧会を開きプロジェクトを様々な人に周知させる。さらには渋谷ヒカリエでの展覧会、新聞、テレビ、メディアを通じて先進的事例として発信している。
こうした試みから、役所で公共施設をいかに集約するかということを議論するようにもなった。大学が非営利組織として地域に提案型のプロジェクトをやっていくアプローチには現代性があるとも考えている。
以上から「これからの公共施設5原則」をまとめた。

オープンプロセスで設計されること
経営戦略に適合した予算設定であること
地域の人が誇れる独自性を備えること
地元企業が施工技術を披露できること
地域行政内部の職員や住民で維持管理できること

今後、世論を味方に、このようにやっていきたい。


池田昌弘(エンジニア、建築構造設計)

 「構造物エンジニアリングの視点からみた公共建築の近未来」
 今日は技術的な視点から、大きく2つの論点を提案させていただきます。
1.地球環境問題についての無関心さ
2.テクノロジーのカジュアル化

透明性と無関心さ
まず1つめ。実は、今、我々が住んでいるこの地球には様々なことが起こっています。北極のオゾンホール、異常気象、そして放射能問題など。目をそむけたくなるような現実に直面しています。一方、先ほど山本さんは透明性というキーワードをお話されていましたので、それと対になる概念として無関心さというキーワードを導入してみたいと思います。政治も含めて、我々の身の回りにあることに非常に無関心である現象は、そのまま社会の建築に対する見方であるように思えます。つまり、公共建築に対する無関心さです。透明性が実現されて行くことと同時に、その情報についての関心の度合いは対になって解決されていくべきかと思います。そして地球環境問題についても同様です。

建築家と目利き
2つめ。今は、半世紀前では、NASAしか保有していなかったようなテクノロジーが、冷戦終了後、社会に放出され、インターネット、科学技術、経済理論等、様々なジャンルに浸透している時代です。つまり、テクノロジーが家電のような手の届くものになってきたと言えるのではないでしょうか。それに連動して、今建築界にも、カジュアル化が浸透してきているような気がします。音楽や料理の世界では、有名人が作ってもよくなければ人気が出ない。建物も有名人が作ってもよくなければ人気が出ないような。それはおそらく、上から目線の建築家ではなく、社会の一員としての建築家像。そして、そのカジュアル化に伴い、社会に必要になってくるものとして2つめのキーワード、目利きを導入してみてはと思います。つまり、同じ目線の建築家達と対等な目利き達。社会がそういう状況になっていこうとしているのではないでしょうか。

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