
布野修司/滋賀県立大学・建築討論委員会委員長
003は、真摯に設計に取り組む作品である。問題は、応募者自身が「作品と呼べるかどうかは甚だ疑問であるが・・・」というところにある。建築作品は、必ずしも個の作品ではない。クライアントがあっての作品であり、つくってくれる職人さんたちがあっての作品である。だから、集団の作品である。そして、それだけではない。すなわち、クライアントの言うがままにつくればいいということではない。その表現が社会に対してどういう意味を発信するかが問題である。老人ホームとして様々な配慮がなされているけれど、それは制度に従うだけではないのか。建築構造や材料の選択についても既存の仕組みに従っているだけではないのか。どこか物足りない。全ての仕事について、自らの提案や工夫、新たな空間の試みをみたい。
004は、集合住宅のひとつの形式として興味深い作品だと思う。ただ、この立地において、この形式がどういう意味を持つのかが読めない。面積的にも構造的にも、随分余裕があるように思える。「長屋」といい「小さな都市のような建築」というけれど、もう一歩進めるとすれば、何か都市的な要素、隣とつながっていく要素を組み込む必要があるのではないか。
005は、与えられた敷地(旗竿敷地)にうまく答えたという作品だと思う。
006は、木造戸建住宅のあり方を追求した作品として評価したい。連続柱構造というのがよく理解できないが、木材を徹底して使う姿勢に好感をもつ。しかし、平面は硬く、フレキシビリティにかけるのではないか。
宇野 求/東京理科大学・建築討論委員会幹事
私は、基本的に建築(学)的多様性を認める立場です。日本国内の文脈でいっても文化力の源泉は、もともとは、多様な生活スタイルを包含する緩やかな社会構造から生み出されていて、ハイエンド、ローエンドのデザインやテイストは、どちらが優越してるということもなく、それぞれに建築の意義と価値があると考えるからです。そうした前提でコメントします。
003は、制度にのっとってつくられた老人ホームの事例です。近代的シビルミニマムを体現した「普通建築」のケースといえます。機能的には制度が生み出す施設で、芸術的でも、いわゆる作品でもない、誠実に建築をつくっているが議論される場がないので投稿した、とのこと。気持ちはよく分かります。意匠、文化、生活、歴史、文脈などで、必ずしも突出してはいない平均的建築をどのように評価するべきか。「普通建築」の需要はあるのだから、こうしたアプローチはあり得る一方、こうした類いの建築を批評する言語が不足しているのではないかと考えさせられました。
004は、高崎は、設計要旨で述べられているように、バイパスなど道路建設を軸に都市開発を行ってきた地方都市で、いまでは自動車がないと暮らせないまちになりました。都市をコンパクトにとする都市政策の結果、新幹線駅の周りはマンションがたくさん建設される一方、高齢化と人口減少が進行して住宅地は駅周辺ですら空き家が出始めていて難しい状況といえます。
設計者の意図したことは、こうしたアーバンコンテクストとしてとらえると、よく分かります。自動車が必須な計画であり、この建築で暮らすと都会的でおしゃれな生活ができる、そうした集合住宅をつくったというわけです。郊外的な広々とした高崎のコンテクストに対するマイクロアーバンライフの建築的提案といえます。8戸の長屋ですが、図面に描かれている自動車は4台のみ。ほんとは、何台なのか、どのような生活が展開されているのかに、関心が湧きます。RCの打ち放しによる、こうしたプランニングとデザインの建築は、周辺環境ともマッチするでしょうし面白いと思います。人気が出て若い世帯が近所付き合いしながら面白く暮らせると思います。子供たちの遊び場にもなりそうで、映画や小説でも書けそうな生活が営まれるのではないかと、好感を持ちました。一方、多分、地盤はいいところじゃない。重量のある建築なので断面図にも描かれているように杭がたくさん。かなりコストがかかっている。事業としては投資に対するリターンが多いとはいえないプロジェクトでしょう。余裕のあるプロジェクトだといえます。RCで設計したココロを設計者に聞いてみたいなと思いました。
005は、吉祥寺の旗竿敷地の住宅設計です。千葉学さんや青木淳さんなど一線の建築家も、このタイプの小住宅設計を手掛けています。彼らはとても厳しい条件下で完成度の高い解を提出しています。このケースでは、やや余裕があるためか、その分少し設計のつめが緩いように思いました。例えば、建物周りにまだ余裕があるように見えます。アプローチの奥に物置が置かれていたり、南側にテラスを出していたり。納まりも、もう少しシンプルにすっきりできるのではないか。町場でぎりぎりのところで苦労しているいわゆる建築家のアトリエ事務所とはやや設計手法がちがうのかなという印象を受けました。
篠原一男の「代々木上原の家」や「高圧線下の住宅」などのように日本の独特な形態規制のもとに、小さな寸法のスケールや素材を駆使して新しい形態と様式を生み出す設計手法は、こうした厳しい計画条件から考案されたものともいえて、それは日本の現代建築をうみだしてきた背景です。狭小住宅設計のノウハウは蓄積してきましたけれど、それがどのような意義や価値があたのか、次にはなにが新たな課題なのかと考えることも必要な時期に来ていると思います。
006は、今回われわれが試みとしてはじめた新しい媒体に期待していると書かれています。この設計者の応募作品のような建築をあつかう媒体が従来なかったので投稿したとも書いてあります。合板ではなく地元の板材を束ねてユニット化、盤にして建築を構成建設する提案です。木の無垢材の質感でインテリアを床壁天井覆い尽くすこともねらっているように思います。地元産材を用いた建築という点で成功してるんじゃないかと思いますし、施主はきっと喜んでいるだろうと思います。正面がシンメトリーな点がデザイン上の特徴で、玄関なのかテラスなのか、まっすぐ真正面から出入りするプランに迷いがない。前川國男自邸のような、という話しもあったが、二階部分を真中に配置し両サイドに吹き抜けをもってきている。古典的といえば古典的ではあるが、こうした木材を徹底的に使うというアプローチも十分にありうると思いました。
和田 章/東京工業大学名誉教授
美しいまち並みと美しい建築について考える。誰でもがそう思うところは、京都の古いまち、イタリアのベニス、階段のある東京の神楽坂、スイスやドイツの家々や広場などいくらでもある。21世紀になり建築技術は進み、新しい建築が自由に建てられる時代である。しかし、このようにして建てられた建築とまちにいても、心地よさは感じられない。家の前の道には左右に車が走り、道の両側には人が歩く狭い幅の部分があるが、子供や老人は怖々歩く。建築はこの道にそって敷地の制限いっぱいに建ち並び、まちはできていく。この方法で心地よいまちができるとは思えない。当たり前のことだが、一つの建築を考えるのではなく、グループとしての建築とまちを考えて欲しい。一つの提案として、駐車場所をまとめるなどして車を通らせず、人々が安心して行き交うことのできる心地よいまちを作り、ここに美しい建築を建てるなどの工夫をして欲しい。
*「建築時評002」の冒頭に003~006のレビューを座談形式で掲載しています。
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