松田:建築討論委員会による第6回「けんちくとーろん」をはじめたいと思います。わたしは建築討論委員会の正式な委員ではないのですが1、布野先生と宇野先生から何か「とーろん」の企画を立ててみたらどうかというお話を賜りまして、今回「都市工学に、未来はあるか?」というタイトルで、討論を設定させていただきました。わたしは現在都市工学科に所属していて、また学部の時にもそこにいたんですけれども、都市工学と建築との関わりを考えることは、建築学会においても重要じゃないかということで、この企画に行き着いたわけです。
1.2015年2月現在。2015年6月より、建築討論委員会委員。
問題提起:都市に関する日本ではじめての専門学科
松田:今日はゲストとして、東大都市工学科で丹下健三研室を引き継ぎ、研究室を持たれていた渡辺定夫先生、そして都市工学出身でいまは慶応大学で教えられている若手研究者の中島直人さんのお二人をお迎えしています(図1)。建築の人が多いので多少説明しますと、都市工学科は高山英華2先生と丹下健三先生が様々に尽力しつつ、建築学科がつくろうとした都市計画学科と、土木教室が発足させた衛生工学科があわさるかたちで、1962年に誕生しました3。
丹下研に関して言うと、建築学科からスライドして都市工で10年近く活動が行われ、その後、大谷幸夫4先生に受け継がれます。それを更に引き継がれたのが、渡辺定夫先生です。その後、数代を経て、現在私が所属しているのも、同じ研究室の系列ということになります。中島直人さんも同じ研究室のご出身です。つまり渡辺先生は、中島さんと私から見ると大先輩にあたります。
都市に関する日本ではじめての専門学科がこの都市工学科ということになるのですが、その都市工学をもう一度問いなおす必要があるのではないかと考えています。私の方では特に建築と都市の両方に所属している観点から、3つの問題提起をしたいと思っており、これをたたき台にして頂ければと思っています。その後、お二方からこれまでの都市工学との関わりを踏まえつつ、お話を展開して頂ければと思っています。
第一の問題提起は、「建築との分離」という点です。都市工学科は特に1970年以降、次第に母体であった建築学科から離れていきます。おそらく渡辺先生の頃は、建築学科とまだ密接した関係が残っていたかと思われます。しかし現在、都市工学科はずいぶん独自の道を歩み、建築から遠く離れたところに来ているように思います。その具体的な問題点として考えてみたいのは、設計力の低下です。都市工学科が設計にもともと力を入れていないのであればよいのですが、都市工学科において歴史的にももっとも重要なものが演習だとされてきました。渡辺先生も昔から都市設計ということをおっしゃっており、都市工学科そのものは設計に高いプライオリティをおいてきたはずです。にも関わらず、都市工学科の設計力は、当初よりかなり落ちているように思います。建築学科と都市工学科との両方の卒業設計をみると、私も責任を感じているのですが、正直、比較をするのは厳しい。もちろんスケールは違うのですが、同じ設計という言葉を適用するには違いすぎている。都市工学科は同じ学科が他大学であまりないため、競争する必要がほとんどないというのが最大の問題でと思われます。よって競争力がついていない。建築学科の場合は全国に多様な形態でたくさんありますし、様々な場面で競争がある。多くのコンペはもちろん、各地に様々な合同講評会もあり、卒業設計の日本一決定戦もある。都市工の学生はこういう学外の競争の企画が少なく、またあってもあまり出そうとしませんね。うちの学生に「どうして日本一決定戦に出さないの」と聞いたら、「せんだいはレベルが高すぎて出せない」という(笑)。だれでも出して良いのだし、だからこそ負けてもいいから出せばいいじゃないと思うのですが、そういうことに慣れていない。あと学生の情報が少ない。興味の対象が広いとは思えない。都市を専門にするなら幅広いアンテナを持ってないといけないと思うのですが、すぐ隣の建築関係のイベントに関心を持っている人がまず少ない。一方で建築の学生は都市に様々な関心を持っているんですけどね。ところで、今日、都市工学科の学生で来ている人は、いますか?あっ、いますね、よかった(笑)。
(会場、笑い声)
1人でもいてくれて、多少は安心なんですけど、でもたった3人ですよね。タイトルに「都市工学」とわざわざつけているのにこの少なさは何なんでしょうね。うちの学生は、このイベントのパンフレットを見て、「これは建築関係者が都市工学科の悪口をいう会なんですよね」といっていた(笑)。もちろん、そういうわけでは決してなくて、そもそも渡辺先生も中島さんも僕もですが、都市工出身で、むしろこちら側の人です(笑)。僕は内部批判ができることこそが、ものごとが健全である条件であると思っているので、内部からこういう問題を取り上げるのは、よいことだと思っています。それなりに学科には告知を出していたので、もう少しは関心を持ってほしかったなという思いがあります。
僕はいろいろ地方の大学の学生とも話す機会があるのですが、SNS的な情報に関して言えば、地方の学生の方がよっぽど新しくて大事な情報をたくさん持っています。情報に対して貪欲なんですね。でも東大の学生は、そこが意外と疎い。中心にいる、都心にいるという無意識の安心感があるのかもしれませんけど、情報は自分から探しに行かないと、結局自分に入ってこない。
さて第二の問題提起は、「専門分野の不足」ということです。都市工学科の中ではもちろん様々な研究室があります。しかし「都市」について研究するという大目標を設定した場合には、そのカバーしている領域は決して十分とは言えません。私はフランスでパリ都市計画研究所5というところにいましたが、そこでは都市を研究するために、哲学、社会学、地理学、経済学、法律学、建築と、実に広い範囲の分野の教員が集まっていました。高山さん、丹下さんが最初につくろうとして実現できなかった総合的な学科は、まさにそういう領域横断的な学科でした。そう考えると、現在の都市工は本来あるべき状況からはかなり離れており、専門分野の偏りも大きいのではないかと思います。さらには、「都市工学」というカテゴリーがそもそも限られていて、もう少し広く考えたほうが良いのではないかと思われます。主旨文にもありますが、都市計画、都市学、アーバニズム、ユルバニスムなど、それに近く、かつより広範な概念は多数想定できます。そういう概念も踏まえた上で「都市工学」のあり方について考えたほうが良いのではないかという点です。
第三の問題提起は「注目されていないこと」です。別の言い方をすれば「ヒーローの不在」です。60年代から70年代くらいまでは、建築に出来ないことをするという意味で、都市工学への注目があったと思います。今回、都市工学科創成期の言説や、渡辺先生の書かれたものなどいろいろ読ませていただきながら、あらためてそれを感じました。ヒーロー、もしくはスターがいないということもあるかもしれません。ピンのアーバンデザイナーが育っていない現状があり、これも建築学科とはかなり違うところだと思います。設立当初は都市設計家、アーバンデザイナーを育てる意図があったはずですが、結果としてそういう人材はほとんど育っていない。あとは震災への対応などでのイニシアチブの取り方ですね。都市工学科は本来ならもっと前面に出てイニシアチブを取って動くべきだと思うのですが、例えば建築との断絶がネックになっているのか、その間でうまく連動がとれているようには思えない。そもそもお互いの業界にどういう人がいるのか、見えていませんからね。建築関係者はまとまってアーキエイドなどの活動として視覚化していますが、都市関係者の動きは決して見えやすくはなっていない。
最後は資料の説明です。お手元にいろいろな資料がありますので、適宜参考にしてください。都市工学科の創設の経緯6や、学科の紹介、中島直人さんがまとめられた都市工学の系譜についての資料7(図2)などがあります。
ということで私の方から簡単に、都市工学科の現状と問題提起をお話しさせて頂きました。このあと中島先生、渡辺先生に、順にお話をしていただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
2.高山英華(1910-1999)。都市計画家。東京大学名誉教授。
3.衛生工学科は、土木教室から1958年に申請、1960年に発足。都市工計画学科は、建築学科から1960年に申請。1961年に両者が共同して都市工学科を申請し、1962年に発足。
4.大谷幸夫(1924-2013)。建築家。東京大学名誉教授。東大大谷研の存続期間は1967年から1984年。
5.Institut d'urbanisme de Paris. http://urbanisme.u-pec.fr/
6.http://www.due.t.u-tokyo.ac.jp/ue50/ayumi12-1101.pdf
7.中島直人・堀崎真一(2006)『都市デザイン萌芽期の研究』
都市工学は、応用的な学問か、新しい専門分野か?
中島:中島でございます。松田さんのご指名なので、僭越ながら渡辺先生より先にお話しさせていただきます。お配りしたメモが1枚だけあります(図3)。メモというかパワーポイントをしゃべる前にしゃべることを項目立てておかないと喋りきれないと思いましたので作ったものでございます。「とーろん」ということなのですが、議題を出すというよりは少し私の理解をお話しすることになります。そもそも都市工学に未来はあるかという不穏なタイトルなんですけれども、まさか未来はないといようなことはないだろう、私の立場からすると未来はあると答えたいわけです。またタイトルの「都市工学に未来はあるか」というのがなにについて論じるのかというのが少しわかりにくかったのですが、私なりの理解として4つの捉え方があるのかなと思います。
まず、いま松田さんが説明して下さったように、都市工学といえば、東京大学都市工学科というのが思い浮かぶんです。「都市工学」という言葉自体は、戦前からいわゆる都市土木といったイメージで使われてはいた言葉なんですけれども、これに現在の「都市計画」という意味がついたのは、あきらかに1962年に都市工学科ができたときだと思います。そういう意味で都市工学を論じるということは、第一に都市工学科を論じるということになります。そして第二に、「都市工学科」という、特定の大学のある学科の議論ということではなくて、その背景にあるのは「都市計画学」というもの自体、その学問はなんなのか、その学問に未来はあるのか、というレベルの議論もあるだろうと思っています。
ただ当然、都市工学科とか都市計画学とかいうのは、都市計画という社会的技術に関する学術的探求であったり、その教育であったりするわけですから、都市工学に未来はあるかというのは、究極的には都市計画に未来はあるか、という問いでもあるんだろうと思っています。
さらにもうひとつ加えるとすると、今日松田さんが持ってこられた資料をみてやはりそうかと思ったんですが、この場が建築学会ということもあって、みなさんが関心あるのは、実は都市計画の全体像というよりは、いわゆる都市デザインとかアーバンデザインと呼ばれる、建築との接点であって、その都市デザインやアーバンデザインの未来を語るという解釈もあるのかなと。もちろん、都市デザインは都市計画の一分野というよりは、もしかしたらもう少し広い捉え方が適切かもしれないのですが、都市デザインってなんなの、その未来はあるのかという問いでもあるのかと。
この4点くらいはあるというか、それが多分ごちゃまぜに議論されそうな気もするんですけれども、私の中ではまずはそれを分けていって、最初に10分くらい、簡単にお話をしたいと思います。
ひとつめの「都市工学科の未来」なんですけれど、これについては私も5年前までは都市工学科に所属していましたので、都市工学科の中身はなんとなくは理解していますが、そのあと離れておりますので、よくわからないというのが本音です。今日は渡辺先生もいらっしゃっているので、現状というよりは都市工学科のそもそも抱えている本質、原点というか、設立の経緯とか当初のコンセプトについて少し論点を絞りたいと思います。
都市工学科は、松田さんからは1962年に建築学科を母体として生まれたと説明されましたけれど、実際には建築と土木の間に生まれたというのが正確で、しかも都市工学科というのは、大きく二つに今でも分かれているんです。都市計画コースと、もとは衛生工学、いまは環境工学コースがあります。今日、都市工学の原点を考えるということもあるんですが、当時の議論として大事だったのが、学部レベルに都市工学科をつくるのか、それとも大学院なのかというところです。さらにもっと先端の位置づけで、大学の専攻や学部から離れたところにつくるという案もありました。
この「学部」か「院」かという議論は、当時の都市工学科創設のいろんな資料をみると、一番の論点としてあります。というのは、当時つくるときにですね、高山英華さんというか、その下で川上秀光先生8が資料をつくっていらっしゃるのですが、かなり世界というか、基本的にはヨーロッパとアメリカの都市計画教育制度を調べていて、それらを参考にして日本にどういう学科をつくるべきかということを考えたわけです。当時、世界の都市計画教育の主流は大学院だったわけです。特にイギリスの場合、当時の資料を見ると大学院で教えている。つまり、学部では建築や土木を学んで、その後の大学院で学ぶのが都市計画だ、というような話です。
それが主流でしたが、いくつかの大学、例えばMITとかイリノイ工科大学とか、アメリカの大学のいくつかは、学部から都市計画を教えていたり。あとですね、当時の資料をみると、参考にしているのはインドネシアのバンドン工科大学です。バンドン工科大学は、学部に都市計画学科を、東大の都市工学科よりも先につくっていたんですけれども、そういうのを勉強した結果として、学部につくることになったのです。この選択が、今日のいろんな問題の、重要な原因のひとつでもあると考えています。
大学院につくる構想というのは、都市計画が応用的な技術として捉えられていたということです。基本的には建築とか土木とか、個別の空間設計や空間の構築技術がまずあって、その上に構築技術の応用として都市計画というものがある。その場合に、教育体系としては、最初は学部でそれぞれ構築技術を習得してもらい、応用的な都市計画については大学院で、ということになるわけです。
けれども、もうひとつの話として、都市計画には、個別の要素の構築技術とはまったく違う新しい計画技術があるんだと考えたときには、新しい技術を教えるための新しい教育システムが、学部レベルから必要である、ということも言えます。そういう議論が当時あったと思います。まず大事なことは、学部につくったということは、そもそも都市工学科のDNAとして、建築や土木とはまったく違う新しい技術、それを確立しなきゃいけないということです。建築から離れる運命にあったということですね。もし大学院につくられていたら、だいぶ様子が違ったのではないかと思っているのですが、学部で並列になったことによって、現在のような状況になったのだと思います。
その時に予想された新しい固有の技術というのが、都市の構成技術というか、あとで都市計画のところで言いますけれども、個々のものじゃなくて、そのネットワークや配置、システム、あるいはより抽象化された密度の話だったり、フローや交通の動きの話だったりという関係性のデザインだったのです。そういうものの中に、新しい技術、新しい学問があるということですね。
大事なのは、そういう背景で都市工学科の教育をやってきたことに対する歴史的な評価が必要なんですね。それが今日のテーマだと思うんです。そういう風にやってきて、新しい技術とか、新しい職業に結びついたのかどうか、そういうものを本当に都市工学科が生み出してきたかということを歴史的に問うということです。教育という面で都市工学科が輩出してきた人材というのは、実は当初の目論見とは少し違うところがあります。というのは、これも今手元には正確なデータはないのですけれども、都市工学科の卒業生のメインの職場は、国の建設省や国土交通省、あとは民間のディベロッパーあるいはゼネコンの開発部、また大手の設計組織事務所の設計ではなく計画部署みたいなところです。ただ、都市工学の技術として想定していたのは、さきほど述べたような都市の構成技術であり、マスタープラン的なある種の設計手法に基づいて、ものをつくる技術です。世界的な常識でいくと本来それを実践するのは地方自治体ですし、都市工学科も創設時にはそういう構想を持っていた。しかし実際には、都市工学科の学生は、地方自治体には、東京都や横浜市など一部自治体を除いて、ほとんど行かなかった。つまり都市全体のプランニングをやるようなことは、ほとんどやらなかった。
そのことをどう考えるかですが、それを裏返すと、都市工学科がつくろうとした特殊な技術というものが、世の中に根付かなかったということかも知れません。要は日本の都市計画というもが、世界標準から見たときに、かなりズレがあった。都市計画固有の構成技術を必要としない都市計画がずっとあったということです。もちろん都市計画コンサルタントの方々は都市計画の技術を持ち合わせていて、彼らが地方自治体の仕事をしっかり支えたわけですが、発注側の地方自治体には、都市計画の専門職は殆ど生み出されず、都市計画制度の運用をすることが地方自治体の都市計画の仕事ということになった。言い過ぎかも知れませんが、専門家がいなくても動き、それなりの市街地をつくりあげる都市計画というものが広がっていったのです。
ところで、日本の建築学科は、構造とデザインが一緒にあるということ自体が面白いですね。それはある意味、強みですね。都市工学科でも同様のことが言えます。都市工学科で面白いのは、都市計画と環境工学が一緒にあることです。このことは世界的に見ても、わりと面白い状況です。現実的には教育体系はまったく別のものですし、組織としても分かれています。ただ環境工学と計画とが一緒にあるということは、教育や研究の面において今後の財産です。環境をベースとしたこれからの時代の都市づくりに、それ生かすことができれば、強みになるのではないかと思ったりします。
8.川上秀光(1929-2011)。都市計画学者。東京大学名誉教授。
アーバニズム(都市学)の重要性
中島:二点目として、都市工学の研究、学問、つまり都市計画学というものが何なのか、それだけで体系化されるものなのか、といったところもが議論の余地があります。
もともと都市計画学というのがどう出来たかというと、様々な経緯がありますが、石川栄耀9と高山英華の二人の存在が大きいと思います。石川栄耀という人は、都市計画学会をつくった人です。都市計画学会は1951年にできました。都市計画法自体は1919年からあり10、都市研究会11やその後継としての都市計画協会12といった組織が先にありましたが、都市計画協会の役員は技術屋ではなく事務官、つまり都市計画法制度をつくった人や、主に法を動かす人々が主流でした。しかし技術者である石川栄耀は、都市計画の科学的な根拠が極めて薄弱だと感じていた。そこでいったん、都市計画法の運用という枠組みから離れ、技術としての都市計画というものを確立させたかった。そのため都市計画学会は、技術者の集まりというのがもともとの形で、そのことが良い意味で都市計画の技術を発展させてきた。一方で、都市計画学というものが、極めて工学的、技術的なものに限定されていったということもあります。石川の思いとは少し違う方向でした。
同様に高山英華という人は都市工学科の創設者であり、都市計画学会の最初の学術理事です。高山英華に関しては、世の中の評価が偏っています。オリンピックのような大きなプロジェクトを動かし、細かいことは気にしない大物というような大雑把な評価されている。高山の行ってきた学術的な活動の意義をしっかりと省みることは少なかったのですが、高山は戦前から内田祥三13のもとで、都市計画の技術、そして学問というものをやろうとした大学人です。高山が都市計画学会の創設に関わったころに考えていたことは、何よりも都市計画技術の確立です。技術が確立されなければ何も始まらないので、とにかく技術に集中してやるということでした。都市計画を考える際に、都市がどのようになるのか、どこに向かうべきかといった目標を考える都市政策は大事ですし、また同じく都市そのものを理解するための歴史学、地理学、社会学というものも非常に大事であるということは、高山英華も言っていたのですが、技術が確立していない状況で、そうした風呂敷を広げる前にまず技術として確立しなければダメだという姿勢でした。都市工学科もその延長にあります。
だから都市工学科も都市計画学会も、まず技術として都市計画学というものを中心に捉え、その体系を生みだしていった。そのことは、都市化がものすごいスピードで進み、都市の目標などいちいち考えず、とにかく都市に技術的に対応し、つくっていかなければいけない、あるいは都市をコントロールしなければいけない、というような段階では、それで良かったかもしれない。
しかし、そもそも都市がどういう方向を目指しているのかということを考えたり、あるいはこれまでの技術が前提としてきた都市化や都市の拡大化が、そうではない現象と出会ったりしたときには、都市計画の目的そのものから検討することが必要だし、手段としても工学的なものからそうでないものへと柔軟に広げたり、変化させたりしていかないといけない。そして、そうした中でも、変わらない都市計画の中心みたいなものを見つけていかないといけない。
そこで、技術学としての都市計画から、もう少し広い「都市学」というものが必要となると漠然と考えています。そこに「アーバニズム」と書いてあるものは、私が勝手にそう呼んでいるのではなく、同じような問題意識は、全世界とは言いませんが、例えばアメリカでは、都市計画、都市社会学、都市経済学など様々に細分化されていた都市に関する学問を、「アーバニズム」として包括的に議論することが常識になっている。
そもそも都市計画学は、都市計画のためにあるということが最大のポイントですが、その都市計画自体がいま問われている。都市工学に未来はあるのか、という問いは、都市計画に未来はあるのか、「これからの日本に都市計画は必要ですか」という問いになる。ただ、都市に課題がある限り、それにしっかりと答えていくのが都市計画だと言えば、都市計画に未来はある。都市に課題がなくなるということがあれば別ですが。しかし、都市計画には得意、不得意があり、それを見分けなければいけない。ただ、都市計画は与えられた課題をただ解決するだけでよいのか、といえば、そうではないかも知れない。都市計画というものが、社会が気付いていない都市の価値や、あるいは都市を通じて人間社会というものはなんなのかということを発信する、そうした都市計画も探求していかなければいけないのではないかと思っています。
最後、4つめの「都市デザイン」に関してはしっかりとした定義がないのですが、わたしの師匠である故・北沢猛先生14は、都市デザインを「運動」だと仰っていました。つまり都市計画や建築家の活動に対する批判をすることが重要ですが、都市デザインはそういうことだけに拘る必要はなく、もっと広く考えてもよいのではないかと思っています。「都市計画」との最大の違いは、都市を実際に動かすという段階において、都市デザインは都市の楽しさというものをしっかりと魅せていくとういことです。そしてそのことを実現するためには空間のデザインはもちろんですが、もっとやらなければいけないことが、たくさんあると考えています。
松田:ありがとうございました。中島さんにはたくさんのことをお話いただきましたが、今日の話に関連して、その核心にあるだろうことをひとつだけ確認的に挙げさせていただくと、都市工学という新しい学問が生まれた時に、既存の学問分野をベースとした応用的な技術として捉えるか、それとも既存の学問分野に存在していなかった新しい個別の技術として捉えるか、という分岐点があったというところではないかと思われます。都市工学を、応用学問として捉える場合は大学院レベルの組織として、新しい専門分野として捉える場合は学部レベルの組織として、つくるべきだということになりますが、この段階で、世界の主流は大学院レベルの組織であり、高山・丹下は最初そちらを目指したけど、結果的には東大では結局学部レベルの組織として立ち上げた。そこから現在に至る問題が様々な形で生まれており、この二つの理想の違いの結果を、歴史的に評価すべき段階に来ている、というのがいまの中島さんのお話の大きな軸であったのではないかと理解しています。
さらにもう一点、個別の専門技術として確立されようとしてきた都市工学や都市計画という分野に対し、応用的な学問として「都市学」もしくは「アーバニズム」といったもう少し広い概念を導入すべき段階にあるのではないかということを述べられたのが、未来に向けた非常に重要なご提案であったのではないかとわたしは受け取りました。
さて、次はこうした歴史的背景に対して、まさにその激動の時代の都市工学を見てこられた渡辺定夫先生から、お話をお願いいたします。
9.石川栄耀(1893-1955)。都市計画家。
10.1968年までは、いわゆる旧法(旧都市計画法)。
11.1917年に発足。事務局は内務省内。会長は後藤新平。
12.都市研究会を起源としつつ、1946年に財団法人都市計画協会として発足。
13.内田祥三(1885-1972)。建築家、建築学者。元東京帝国大学総長。
14.北沢猛(1953-2009)。アーバンデザイナー。横浜市都市計画局都市デザイン室長を経て、1997年より東京大学都市工学科で教鞭を執る。
都市工学、都市設計、都市工学の未来
渡辺:はじめに「都市工学に、未来はあるのか?」ということですが、このタイトルで大いに結構だとわたしは返事をしました。その結構というのは、そういう問いは馬鹿げているということをいうためです。未来があるかどうかを問う以前に、いままさに多くの仕事を都市工学が頑張ってこなさなければいけない段階にあるということです。その仕事をどうやってこなしていくのか、多くのことを勉強しなければいけないということに尽きます。今回は、一つ目に都市工学というものについて説明し、二つ目に都市設計についてどう考えているかを述べ、三つ目に冒頭の都市工学の未来について述べます。
都市工学のはじまりは、都市計画学科の申請書類を出すときに、高山先生が衛生工学科と都市計画学科の二つをあわせることで、書類に手を加え、都市計画学科ではなく都市工学科として樹立しようとしたところです。その際、わたしも世界の都市計画学科の書類を取り寄せるなどの手伝いをしました。文部省は、学科の卒業生をどのようなところに就職をさせるのかを明快に記さなければ申請を受諾してくれないため、建築、土木、農学部の卒業名簿を集め検討しました。都市計画学科卒業生の就職先は、大きく分けて3つの分野があり、1つは都市計画・住宅行政と公団公社などの関連分野であり、2つ目は専門家としてのコンサルタント、3つ目はディベロッパーである不動産業、建設業等とし、これからの都市化時代にとって必要な役割を担う技術者の重要性を申請書類に記述しました。
ひとつ目の行政ですが、学部教育などを通じて想定されていたのは、10万人規模の都市の都市計画担当助役をやるような人を輩出することでした。しかし、実際にはこのような人材は、都市行政制度上の問題もあり、ほとんど育っていません。不動産業というものは建築学科にはない発想であり、あくまで都市というものの価値をいかに上げるかということが第一とされました。価値を増加させるということをビジネスにすることが、コンサルタントを含め不動産業の社会的役割です。
学科申請時点で高山先生は専門学部を超えて都市計画学科を創設しようと考えられていたようですが、多くの問題があり時間もかかり創設がつぶれてしまう可能性があるため、土木工学科から先に申請されていた衛生工学科に相乗りし都市工学科をつくったようです。
都市計画学科樹立が存亡の危機にあるなかで、高山先生のいう「学科創設をするためには、衛生工学と都市計画学科を足して二で割り、都市工学科を設立することで現実化することが必要である」という考えに感心しました。これは高山先生の優れた判断力だったと思います。当時そんな専門分野や学問体系はなく、感心いたしました。その後、実際に筑波大学などいろいろなところに似たものができました。
学部と大学院のどちらに設置するのかという問題を高山先生に伺ったところ、「当然大学院に設置すべきであるが、大学の制度の面から考えると、人材を都市工学の分野に送るためには学部に設置するほか手がない」ということでした。しかし、実際の研究活動はもう少し幅広くある筈で、例えば、都市地理学、都市社会学、都市計画の三本柱で社会問題に対して問題提起や提案を行う日本地域開発センター15という団体が、東電が後ろ盾になって活動していました。こういった都市に広がりを持つ組織をもとに「そのうち、専門学部を越えて大学院に組織をつくれればいい」ということをおっしゃっていました。
都市工学科の最初期の卒業生は、皆、口を揃えて「先生方が、同じことばかりをいう」といっていました。大体、想像つきますが、やはり学科をつくってから、専門分野をどのように構成するのかという問題は、当時の先生方が皆、考えていたことだと思います。このことを次の世代にゆだねていくような流れは、わたしも感じていました。「どの先生もみな、同じようなことをいう」ということに対して、反面教師といってしまうと怒られてしまうのですが、土田旭さん16、大村謙二郎さん17、曽根幸一さん18など、大学院を出たばかりの人が、演習助手という立場で学生指導をしました。それは「演習」という科目ですが、いろいろな都市の課題に対して、どのように対応し、一つの提案としてまとめるのかを指導するものでした。講義に対する演習の時間の割合が、圧倒的に多かったのではないかと思います。演習でものをまとめるのを指導するなかでの学生とのやり取りが、教育上かなり効果的であったと思います。
建築学科などでは設計製図課題と言いますが、都市工学科では演習としましたので、設計の課題は演習課題となります。どのような演習課題を出すのか、どこでどのような提案をさせるのかといったことを、演習助手の人たちが大議論していました。都市計画あるいは都市設計で、どのような場所を選ぶのがよいのか、架空の都市ではなく、現実の場所を選ぶなかで、川越が都市として規模もよく、周りは農地で独立した環境にあるので演習の対象に取り上げました。土地利用計画と交通計画は主要な課題内容ですが、駅前の広場、緑地や近隣住宅地開発など都市の物的空間のあり方を考えなければいけません。都市全体の話と都市の構成をつくる要素についての二つをきちんと分けて、それを総合することを演習の課題としなくてはいけないと思います。このことはいまなお続けるべき、重要な教育ではないかと思います。
次に丹下先生、大谷先生がつくられた都市設計講座についてです。「都市設計」とは、事業となるための設計をするわけですから、地区の開発、再開発あるいは保存の手法やプロセスが関心事でした。こういった事業がらみのニーズを含め、その地区の固有な都市空間像を勉強することが、第二講座でありました。
建築系の方々は、哲学であったり思想であったりというものをおっしゃられると思うのですが、実際には、例えば住宅はどれくらいの密度で、どのような設えをしなくてはいけないのか、といったことを考えなくてはいけません。例えばひとつの答えとして、密度を高めることで土地の値段が低くなります。ですが、環境は悪化するかもしれません。そのバランスをいかにしてとるのか、勉強していました。
研究室では、一方では具体的な事業と関連したことをやりますし、もう一方では例えば都市の空間密度を高くするとはどういったことなのか、といったことも考えていました。ここでいう密度とは、建築的な密度と人や物の集中密度といった、二つのことがあります。例えば人の動きやお金の動き流動と市街地面積の関係、特に都市を構成する各地区の公園、道路、広場などの面積とのつながりに関係するような都市の空間的密度を考えるということが、都市設計の最初の研究対象のひとつでした。
それが時代とともに変わっております。なぜ変わったのかというと、例えばまちなみ保存、開発に対する保存というキーワードですが、街を保存するということに、どういった意味があるのかという議論が当然出てきます。あたり前のことですが、都市とは歴史的産物です。蓄積の上につくり変えるところと維持するところがあることが都市の姿であれば、壊れていったり価値が失われていったりするものに対し、その価値をどうやって保存あるいは保全していくということや、また新しい価値をどのようにしてつくるのかということが、都市設計の大きな課題として浮かび上がってきました。
昭和40年代あたりに、都市の居住人口が爆発的に増加しました。20世紀の100年間を見ると、1960年代から70年代の都市の人口密度が急増します。東京の下町の狭小過密居住地区では、ヘクタールあたり数百人が住んでいました。1970年代から、急速に人口密度が減りはじめた。これは当たり前のことでして、都市が拡大していく、郊外にどんどん市街化がスタートしていくからです。地図を見てもらえば分かると思うのですが、拡張期あるいは拡散期に入るわけです。これがヘクタールあたり40人程度の薄いものになるわけです。個人が家を所有する、あるいは住宅の質を上げるといったことにより、密度が薄く、拡散した都市が、日本に現れました。
そういった事態に対応するため、昭和31年に住宅公団ができます。住宅をどうやって提供するのか、所得階層別に公営住宅を、民間の開発の住宅も同じですが、それらを都市のどういったところにつくればいいのか、あるいは可能性があるのかという住宅の建設の問題が、密度の拡散と同時並行的に現れてきます。そうすると当然、農地をつぶしたり、きれいな美しい田園風景をこわしたり、あるいはひょっとすると歴史的価値のあるものをつぶして、どんどん住宅がつくられていくということが起きます。それに対し、先祖から授かった資産をどのように保存していくのかといったことが、昭和45年、46年以降の都市設計の大きな課題として浮上しました。こういった課題は、いまでも続いています。ひとつは再開発に対する、もうひとつは津波など自然災害に対する保全の課題で、開発と保全のあり方、空間像を巡って都市設計の課題はずっと続いていると思います。
三番目の「未来があるのか?」「課題が目の前にあるぞ」という話ですが、先ほどもちょっと話したように、20世紀に人口は、2.6から2.7倍程度まで増え、また都市人口は15倍弱に増えました。こんなにも人口が増え、面積を拡大したにも関わらず、良い悪いは別として、地域固有な都市空間ができたという例は、実はあまりありません。日本に独特な発展、成長の仕方だろうと思います。正確には1890年から、まあ2000年でしょうか。100年をマクロにいうと、そういう都市形成でした。
日本の都市形成は場所によって異なるのですが、20世紀のはじめに人口が増加したところと、1970年あたりから人口が増えた都市と、マクロにいうと二つの大きな都市形成が見えてきます。地方都市で、例えば伝統的な都市、あるいは工学や工業によって育った都市というのは、意外に、戦前の1920年くらいに都市形成をしています。ところが大きな中心都市、三大都市もそうですけれども、例えば札幌とか仙台などは、1970年代ごろに急激な都市形成がおこりました。先ほどもいいましたように、密度が急に下がり、薄く拡散的な都市形成が起りました。
都市工学科が腕を振るう時期というのは、実はおそらくこれからもあります。今後、人口が減るというのは、誰でも分かっている。それから当分のあいだは、高齢化が進むだろうと考えられます。ところが、お年寄りが車で行き来することはないでないでしょうし、うろうろしながら人生を送るような街を、どうやってつくるのか。密度を上げ、しかも居住水準を下げないで、どうやって空間をつくっていったらいいのか。いったい誰がどのようにお金を負担して事業を進めたらいいのか。ものすごく大変な課題です。かつてのパリのように、権力者が一気に事業をできるといった時代背景ではありませんので、いろんな人をうまくまとめながら、ひとつの事業の仕組みをつくり上げていく新たな都市計画設計制度が必要です。
仕組みづくりの後半部分は都市工学科の責任で、前半部分はわれわれがうまくコミットしていかなければならないのですが、行政やディベロッパーなり、住民を含め市民運動なりが力を発揮するところでしょう。空間のつくり方はいままでと大きく異なるものになると思われます。これからは都市経営、ただつくって売るだけではなく、リノベーションなどを含めた都市空間像の提供が重要で、団地再生などで実際住宅公団の人たちもよく分かっている。チャレンジの対象としてのこうした事業の都市設計が今後大いにあるだろう。
先ほどあえて「アーバンデザイン」という言葉を使わなかったのですが、アーバンデザインというのはもともとアメリカの言葉でして、アメリカと日本はそもそも同じではないということから「都市設計」と言っております。課題は山積しています。それに対して事業費のお金の回り方ですが、日本は大いにオレオレ詐欺で払えるくらいの能力があるし、国家もわれわれの懐から使っていますので、あう意味では、まだ民間の預金は十分ある状態です。これから30年くらいの間に、日本の民間のもつ豊かな資金を、どのようにして適正な、ひょっとしたら豊かな都市空間に置き換えていくのか、これがこれからの都市工学の皆さんにお願いする大きな課題であります。
松田:ありがとうございました。渡辺先生から、歴史的なパースペクティブも踏まえた、とても密度の濃い話をしていただきました。都市工学について、都市設計について、そして未来についてという、3つのお話でした。今日は、建築や都市工学の学生の皆さんにも来てもらっていますが、半世紀前から現在に至るまでの両者の関係や、都市工学科の歩みと現在について、大きな流れが見えてきたかと思います。それから渡辺先生から最初に馬鹿をいうな、課題はいっぱいだとおっしゃって頂きましたが、わたし自身はむしろ都市工内部の人間ですので、力強い言葉をいただいて、ありがたいと思っています。
15.1964年に財団法人として設立。
16.土田旭(1937-)。都市計画家。1970年に都市環境研究所を設立。
17.大村謙二郎(1947-)。都市工学者。筑波大学名誉教授。
18.曽根幸一(1936-)。都市計画家、建築家。芝浦大学名誉教授。
演習の限界と、都市計画の近代化
松田:半分、中から都市工学科を見る立場から、特にお伺いしてみたいのは、演習の問題です。都市工学科の演習は、先生が最初におっしゃっていた、10万人規模都市の都市計画担当助役という役割を想定して強化されたものではないかと思います。しかしその方向がずれてきた現在、いまの都市工学の演習は、これからどのような役割を想定すればよいのかということを、ひとつ問題点としてお伺いしたいと思いました。渡辺先生から、高齢化や人口減少の話がありましたが、今後は助役的にマスタープランをつくる人を育てる方向だけではなく、そういった問題に対応する人材が育てられるべきかと思います。都市工学の演習については、中島さんが創成期からの動きをかなり詳細に調べられていますので19、この辺り中島さんからもコメントがあったらお願いしたいと思います。
それからもう一つですね、中島さんのお話と渡辺先生のお話で共通して出てきたのは、創設時における、大学院レベルの組織か学部レベルの組織かという分岐点の話でした。学部レベルにおける都市工学という新しい専門技術が、半世紀を経て確立したとすれば、そろそろ大学院レベルの応用的、統合的な組織や学問の立ち上げというものが必要なのではないかと思われます。その時、中島さんが挙げられた「都市学」あるいは「アーバニズム」というのは、そのキーワードになるような気がしました。その辺りに関して、中島さんにもう少し詳しくお聞きできればと思います。
つまりは二つの質問は、学部レベルの専門技術を磨く演習のあり方と、大学院レベルの応用学問としての「都市学」のあり方のことで、都市工学が前進するために必要な、表裏一体に結ばれていることについてでもあります。
中島:都市工の演習については、もう5年くらい見ていませんので実情から離れた話になってしまうかも知れません。いまわたしはSFC20に通っていて、環境デザインということで、3人の建築家の先生とわたしの4人でやっています。スタジオが3個あるんですけど、最後が都市のスタジオです。ただ、大体みんなその前に力つきて、都市のスタジオを取る人が少ないんですね。あと建築の学生は、住宅をやって、学校をやって、そしていきなり都市になる。都市といっても、駅やその周りのことを指すんですけど、やっぱいきなりは出来ないということを、あらためて思いました。二年間ぐらいやらないと出来ないこともあるんだな、ということです。
その時、当初もいまも都市工でつねに議論になっている、どこまで個別の要素の設計を教えて、どこまで密度も含めて都市の全体の構成を教えるのか、その順番やバランスをどうするのか、という話になります。結局、二年間のなかでは教えきれないというなかで、こちらの選択肢としては、個別の部分はやっぱりちょっと薄くなって、つまり具体的に建物を設計するとか、広場を設計するとか、そういう部分は少し昔より少なくなっているのかなと思います。
全体といっても、住宅地スケールと都市スケールとさらに広域スケールでは、理論もニーズも違うので、結局それをやっているうちに、やらないといけないことはどんどん増えていって、具体的な空間を教える部分は弱くなってくるし、回数が少なくなってくると、学生の関心として、そこは重要じゃないのかなという勘違いをされてしまうところもある。その辺は非常に難しいなと思います。
あと先ほど実務家の話がありましたけども、建築の設計をしている人が都市工学科のなかに、まったくいなくなってしまったこともよく指摘されることで、建築設計そのものは都市工学の専門技術ではないんですが、やっぱりそれを知らなければと思います。設計を、常日頃から設計している人が教えているわけではないというのが大きな問題です。ある時期までは、最低一人くらいは建築をやる人がいたんですが。全体の時間が限られたなかで、どこに時間をかけるかという話のなかで、興味のある人は建築学科の授業をとればいいじゃないか、ということでなくなったのかなあと思います。そういうことで、限られた時間の中でいったい何をしようかと考えると、少し建築と距離が離れてきたのかもしれません。
あと二つ目として、渡辺先生のお話ももっともだと思ったんですけれども、大事なのは、都市工学科がどうあるべきかというより、そこを出た後に、職能を発揮できる場所があるのかどうかというところだと思います。それが日本の都市計画にはないということが、先ほど助役が何故できなかったということにも関係しているのかなと。
いろんな事情があると思うんですけれども、基本的に自治体のなかで都市計画といっても分断されていて、国からつながる縦割りの仕組みがあって、自治体の都市計画はその一部になるんです。そうするとみんな国を見るわけです。
なので、都市工の卒業生たちは、国にさえ行っていれば、その全部が把握できて、逆に自治体に行ってもなかなか仕事ができないんですよ。フィジカル・プランニングとしていろんな要素を統合する技術がどんなにあっても、それを発揮する場がない。つまり、日本をつくっている中央集権的なある種の国土のシステムがものすごい縦割りなので、自治体の統合力より国から自治体までの縦割り行政の方が強かったのです。あくまで一般論ですが。
都市計画マスタープランがありますけれども、あまり力を持っていない。ちょっと言い過ぎかもしれませんが、都市計画が、都市の全体をコントロールするような技術として、社会の中で根付いていないという問題があります。どんなに技術を磨いたり、学問として磨いたりしても、結局、出口が、職業が見つからないから、それをそんなに発揮できないじゃないかっていう問題があるんです。多分、その部分まで、やらないといけないんですけどね。
ただ、いま言ったのは「都市計画の近代化」の話で、日本の場合、自治体政策の中核としての都市計画といった世界標準にまったく達してないじゃないか、都市計画が近代化してないんじゃないかという議論です。しかし、次の問題として、たとえ近代化したところで、もはや統合的に構成された計画に向かってものが動いて行くというモデル自体が古いので、近代化できないうちに、近代的な都市計画が既に過去のものになろうとしているみたいな状態なんですよ。現代の都市計画の状況もこのままじゃいけないということで、日本の都市計画がおかれている二重の難しい状況です。都市計画が近代化したとしても、もうフィジカル・プランニングの技術が役に立たないという場面も多い。都市がどういう風に動いて行くか、何に向かって行くかということが、多分不明瞭な時代になっています。松田先生がおっしゃったように、確かに人口が減少していくんですけれども、その時に目指すべき都市像も分からない、都市へのこだわりとか都市への期待とかもないなかでは、まず目的が設定できないかも知れません。
非常に不確定な状況のなかで、フィジカルなプランニングの技術をどう応用するかということではなくて、もう一度、都市計画そのものをつくり直すようなことが大事です。そのためには絶対、技術だけではダメで、思想や哲学、あるいは地理学、基礎的な社会学や経済学、そういったものを、しっかりともう一回幅を広げて勉強して再構築して行かないとダメじゃないかなということは、つねに思います。それが個人レベルでいいのか、やっぱり教育体系あるいは学問としても広げて行くのかってところが、多分いま問われているのかなと、まあそんなところです。
松田:ありがとうございます。いま中島先生の方から、都市工学に関するいくつかの問題点を、具体的なレベルと、もう少し全般的なレベルでお話頂きました。
具体的なレベルでは、多少限られた話になりますが、例えばある時期から都市工の演習では、建築の設計をしてきた人が教えておらず、空間的な感覚を十分教えられていないというようなことが挙げられました。建築的なところから都市的なところまで、様々なスケールについて教えようとすると、時間が足りなくなり、空間的な感覚も育ちきらない。やはり都市と建築は、教育上、人的にも内容的にも接点が足りていないという問題があると思います。
それから全般的な話では、都市計画の話ですね。これはある意味、衝撃的ですけれども、都市計画が日本に根付かなかったという話が、すごく大事だと思っています。その原因として、都市計画が近代化できなかったことを指摘されていました。これまでの技術を応用していくよりも、都市をつくり直すくらいの覚悟が必要で、哲学的なところ、思想的なところ、その周辺分野など、本来都市が必要としていたはずのものを、都市という概念のもと、もう一度全部合わせて再起動すべきだということが、中島さんのお話の軸だと解釈しました。
19.中島直人・堀崎真一(2006)『都市デザイン萌芽期の研究』
20.慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス
自動化された都市計画から、プレイヤーによる都市計画へ
松田:都市計画が日本に根付かなかったという話は、もしかしたら渡辺先生から見ると、違うように見えてくるかもしれません。渡辺先生は確か、「都市設計は都市計画の実現」ということを『アーバンデザインの現代的展望』21(図4)のなかでおっしゃっていました。つまり、都市計画をいかに現実化するかということが、都市設計であるというお話だったと思います。中島さんのお話を踏まえた上で、渡辺先生から見られて、いまの都市工学や都市計画関係の学科が今後目指すべき方向が、どういうところにあるのか、再度コメントなど頂けますでしょうか?
渡辺:あのね、なんていったらいいかな。「都市計画の近代化」っていうのは、言葉で分かっているつもりだったんだけれども、国の制度は、国よって全部違うんです。アメリカの都市計画行政っていうのは、ご存知のように市がしっかりしていて、そういうところに建築の学生さんも相当多く就職しているんですよ。それで結構お偉いさんになっているわけ。ヨーロッパなんかも小さな町に行くと、設計事務所やっているおじさんとか、あるいは市の役員とか、建築系の人がですね、まちなみ保存なんかで目立っているんですね。この開発は、これ以上認めないとかね。すごい権限持っているなと思います。
ところが日本の場合、そういう立場の人は、非常に緩やかな用途規制の運用ぐらいしかできないわけですね。やっと地区計画のなかで、景観をというようなことを少しやっても、これが土壌として育っていかない。行政でも民間のディベロッパーでも、街の姿に直接コミットできるような立場の人が、じゃあ市民を巻き込んで、どこを壊して、行政がどれくらい金を回して、民間がどれくらいやってという具体的な計画を、住民なり関係者の人に提示するような仕組みっていうのが、まだできていない。そういう意味では、まだ近代化が出来てないのかなっていう感じがします。これは建築でも都市工学でもどちらでもいいんですけれども、根気のある若い人たちがこれからやるべき仕事です。
いろいろな地域で人口回復に一生懸命頑張っているんですね。そういうところではでは、若い在地の人を含め結構いろんな人がわあわあ言ってますよ。それぞれで市民会的なものが少しずつでき上がってきています。都市に人口がもう一回集まってくるような政策を立てると、議論の場がクリアに出来あがってくると思いますね。それにどうやってコミットするのかっていうのが、中島さんが指摘していた都市計画あるいはアーバニズムの具体化かもしれません。
中島:仮に近代化したところでもう状況が先に進んでいる、というのがわたしの考え方ですけれども、結局、なぜ都市計画の専門家がいなくても大丈夫だったかというと、それは時代の背景もありますが、日本のシステムは、誰でも動かせるオートマチックなある種の制度があって、担当者がそれをやると、最低限だけどある一定の質の市街地ができて、制御できてしまっていたからです。高度経済成長の日本にとってはこういう自動化の仕組みが大事で、先進国に追いつくためにはそうするしかなかったけれども、いまやもうそういう時代じゃない。もちろん縮退していくんですが、高度経済成長のようなスピードで縮退するわけではないので、ひとつひとつ丁寧にオーダーメードでやっていくという時には、こういう仕組みが、逆にある種の足かせになってしまっているということのように思います。
だから、そうではない、つまり人を動かすような能力と技術がある人が都市計画を行うのが大事で、そうやって頑張っておられる方々も沢山いますね。別に今の行政の担当者が悪いといっているわけではないのです。都市の公共財をつくる自治体は、本当にそのプレイヤーかというと、重要な部分であって、期待も大きいのですが、一方で、大分状況が変わってきていて、もっといろんな主体がボコボコと都市をつくるようになっているイメージがあると思うんです。様々な都市のつくり方がたくさん出てきて、学問も技術体系もまったく追いついていないそういうものを、都市計画としてどうやってフォローするのか、あるいはそういったボコボコとした動きを、どういう風にひとつの都市にまとめあげるのか、そういうところを新しい都市計画の範疇として、しっかり考えなくてはいけないということです。
そのときに、いままで都市計画が持っていた固い計画とか制度というような「技術」とは、もっと違うもの都市計画として持たないと、都市計画なんて何も出来ないと言われてしまうか知れない。いままでは行政の都市計画には一定の権威があったけれども、これからは都市の中に入って、引っ張って行くことができなければ、都市計画は何もできず、片隅に追いやられ、いらないっていわれるんじゃないか。そのような不安があるのです。
渡辺:あのね、おっしゃることは、分からんでもなくて、日本はどこにいっても大体われわれは、近世の都市の上に住んでいるんです。都市っていうと、まとまった形のものは近世なんですね。お城があったりとか、宿場町があったりとか。そこに町家が並んで、その裏には、最近はあまり見かけませんけど、劣悪な長屋がびっしりと集まっていた。そういうストックが、近世につくってきた都市なんですね。その都市をこの100年間、先ほど申し上げたところでいうと60から70年間、ずっと使ってきたんです。一番大きなインパクトは、鉄道と駅ができるということですね。近世の都市を壊しちゃいけないから、必ずすれすれのところに駅をつくりますね。それから近世の物流の拠点は川とか海の港ですから、そういうところに流通機能を継続的に開通しながら、都市の外側を広げていくんですね。面白いことに学校施設は明治の早い時期から大きな勢いで、城下町なら城下町の周辺に、小学校、女学校、師範学校とバーッとできるんです。工場もあります。特に例の世界遺産にもなったような生糸産業が主な開発主体です。
戦後、大火や震災などがあり、道路の拡幅、幹線道路のバイパス化、区画整備事業などが入り、都市が拡大してきました。我が国の住宅水準も20世紀後半からは上がり、長屋に住む人が減少し、外へ外へと出て行きました。しかし現在、外に出ていった家が空き家になってきています。郊外住宅は限界集落的になるかもしれませんが、一番困るのが水道、下水などのインフラの維持が難しくなることです。するともう一度、都市のなかに密度の高く楽しい空間をどうつくるかといった課題が浮かび上がってきます。これらに対応するような技術や研究は、海外にはあまり見られません。したがって、自分たちで答えを見つけなければいけません。
日本は植民地化されていなかったため、東南アジアや中近東のように、ヨーロッパナイズされた都市がないのです。これがいいことか悪いことかは分かりませんが、建築・都市の設計、工学をやる方々が、腕を振るうチャンスです。高密度で楽しく、出会いのチャンスの多い空間をどのようにつくるか、これは建築の課題というより以上に都市設計課題そのものです。このような時代にこれから入っていくので、大いに活躍してください。
松田:ありがとうございました。郊外化と人口減少の先に、再び密度の高い都市をつくる課題があるだろうという、ポジティブな未来についてのお話を頂きました。さて、本日は布野修司先生、宇野求先生にもコメンテーターとしてお越し頂いておりますので、お二人からコメントをお願いいたします。
21.渡辺定夫『アーバンデザインの現代的展望』(鹿島出版会、1993)
近代化と現代化を、同時に行うということ
布野:世代的にすっきり頭に入るのは、ナベサダ(渡辺定夫)先生のお話の方ですね。僕は先生の講義を聞いているんです。丹下健三先生の代講でした。駒場の2年生向けの「アーバンデザイン」という講義でした。丹下先生が二回ほど講義されて、「あとは渡辺くんやれ」ということだったんじゃないかと思っていました。渡辺先生の講義内容は覚えていませんが、今日のお話でなんとなくわかりました。丹下先生の講義はロストウ23の経済理論ですね。また、ギリシャ・ローマのアゴラ、フォーラムのスケールの話も覚えています。広島平和公園の話と思って聞きました。ロストウの経済理論は、成長理論というか、経済発展論ですね。経済発展には、離陸期があり、成長が続いて、衰退していく、ソフト・ランディングができるかどうかが問題だ、というような話でしたね。建築を学びはじめたばかりの学生に「日本の建築界はこれからダメになります」というんで、ずいぶん、ひどいことを言うなあと思ったことを覚えています。日本経済のその後の行方は、大体当たってたんですけどね。
ナベサダ先生との思い出というと安田講堂前広場ですね。僕らは「雛芥子23」を名乗って、講演会、シンポジウムなどいろんな活動をしていたんですが、佐藤信24や津野海太郎25などの演劇集団「黒テント26」を呼んで安田講堂前でテント芝居をプロデュースしたんです。緑魔子27とか石橋蓮司28が来ましたよ。それでしばらくしたら、テントが張れないように公園になった。僕らがその張本人で、公園と地下に食堂を設計したのが渡辺先生です。空間の利用、所有をめぐって様々な政治力学を勉強したのが全共闘世代です。
中島さんのお話を聞いて、都市工学、都市工学科が少し心配になりました。当時、東工大に社会工学というのができ、京都大学でも、都市工学的な新学科をつくろうとしたんですが、建築と土木で上手くいかなかった。西山夘三先生29がいらっしゃって、土木の方が警戒したんだと思います。それで、建築学科と建築第二学科ということになった。膨大な建設需要を担う人材を育成するということで各大学に建築系学科が増学科されていきました。都市をどうコントロールするかというのが背景だったと思います。
少し心配になったというのは、都市工学という名前はいいとして、都市計画やアーバニズムといっても、結局何を武器に、何をするか、という戦略と全体像がないと、若い学生には理解できないんじゃないかということです。国土計画のレベルから住区レベルの計画もあるし、空間の編成なのか、経営なのか、財政なのか、何を決定していくためにどういう学問領域があるのかというフレームが必要ということですね。
僕は建築の出身ですが、京都府の宇治市、20万人の都市で、十数年、都市計画審議会の会長をつとめていました。つくづく思ったのは審議会というのは形式的だなあということですね。勝手に議論すると叱られる。諮問したことに答えればいいという制度ですね。一応、市民参加の仕組みはあるけれど、形式手続きでしかない。都市計画の主体は何なのか?自治体は何をするのか、財源はだれがどう配分するのか、仕組みをきちんと提起する必要がある。現行制度の中でもやるべきことはたくさんあります。中島先生のおっしゃり方だと、若い人たちは嫌になってしまうのではないか、という心配です。都市工出身の首長さんはいらっしゃらないですか?
渡辺:一人います。現職では柏崎の会田さん30。
布野:土木出身の首長さんは多いですよね。国土計画、経済計画、インフラに関わるから、当然政治にも関わる。一方、建築の首長さんもいらっしゃって、僕の同級生の長岡市の森民夫31とか、今、お手伝いしている守山市の宮本和宏32など見ているといろいろ仕掛けています。公共建築の設計者選定の問題とか、かなり思い切ったやり方ができる。要するに、首長を育てるというのはわかりやすい。意欲ある首長さんの現場では、やりようで出来ることはたくさんある。
気になっているのは、少子高齢化の問題ですね。日本中空き家問題になっている。滋賀県彦根に10年いたんですが、そこら中の自治体が空き家をどうするかと頭を悩ましている。しかし、空き家問題を口にしながら、建売住宅を建てるという妙な事態が起こっている。これは一体どういうことなのか、都市計画の問題としてどう考えればいいのか。
松田:多少、反論的なお話を頂きました。わたしなりに話の構図だけ整理しますと、先ほど中島さんがおっしゃっていたのは、都市計画とか都市デザインとか、これまで都市工学が依拠してきたような概念に対し、その限界が見えてきたということで、アメリカでは90年代頃からアーバニズムという、より根本的な概念が注目されてきたということです。そこで、日本でも例えば「都市学」といった、技術だけではない、より根本的な都市をつくるための学問に、注目していかなければいけないのではないか、というお話だったと思います。
布野:それは「都市工学」ではなくて、「都市学」でもなくて、なんというんですか?都市計画技術というのはなんですか?実践の学ですか?という議論が必要だということなんです。「都市計画」という言葉、概念はいつ、どのように成立したと考えているんですか。
松田:関一33が使った、1913年です。
布野:それは日本の場合でしょ。というか、言葉が出来て、それはどういう理念や体系を前提としていたんですか、ということなんですけどね。僕は、都市計画というのは、住民、資源、エネルギー・・・等々の管理技術だと思っているんです。
松田:はい。そのあたりはむしろわたしの専門で、詳しく話すと長くなってしまうので、簡単にいうと、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ各国で相次いで出てきたといえます。具体的には、スペインでイルデフォンソ・セルダが使った1867年が、最初といえます34。
中島:わたしは布野先生のお話を聞いて、逆に建築が心配になりました。わたしのイメージとしては、皆さん一科目くらい都市計画の講義をとっているので、都市計画とは何かという共通のイメージがある上で、今回の討論があると思っていました。建築では都市計画に関して、一級建築士の試験で一問くらい出るという状況で、ほとんど取らないという状況なのでしょうか? 布野先生は、いま建築学科でしょうか?
布野:わたしがいたのは、環境建築デザイン学科です。京都大学では、地域生活空間計画というのをしゃべってました。
中島:いまの建築学科にその考えがない、まったく分からないとなってしまうと、それは大きな問題だと思います。都市計画の一番の根本は、都市の全体を見ながら、機能的で美しい都市をどのようにつくっていくかということで、それは社会技術です。社会的技術ですから、制度として事業として、例えば道路をつくるという公共事業もあるし、規制や誘導のルールもあります。その時に都市計画から見ると、ひとつの建築は都市のなかのエレメントであって、いかにそれを集合としてよい状態にもっていくかということがあります。
また誤解のないように申しておきますと、わたしは渡辺先生と同じで、都市計画が活躍する場はたくさんあると考えています。自治体の都市計画だけではないかもしれませんし、それだけではできないこともたくさんあると思います。例えば、いままでの都市計画はどちらかというと成長の富を分配したり、負の部分を直したりする方が得意で、成長そのものを能動的に生み出すようなことをあまりやってきませんでした。
いま例えば、都市がどうやって稼ぐか、どうやって生きていけるかというような問題が重要で、全国の地方都市は頑張っています。そこで都市計画の従来の手法や制度では出来ないことがあります。むしろ、そうした制度やルールが、動きを縛ってしまった面があります。そうではなく脱皮しないといけません。その時にアーバンデザインかまちづくりかは分かりませんが、活躍の場があります。ただ、どういう都市がいいかという強い想いをもって望まないといけないのではないか、ということを言っています。近代化と現代化の二段構成です。
松田:そのために必要なのが、アーバニズムだということですか?
中島:はい、アーバニズムが必要であるというか、そうゆう人材がいるべきではないかということです。教育とか学問という面で見ています。技術としては、例えば社会学とかにはつながらないので。
松田:そこが重要で、新しい技術やデザインができる人材を必要としていることですね。
中島:そうだと思います。
22.ウォルト・ロストウ(1916-2003)。アメリカの経済学者。独自の経済発展段階説で知られる。
23.東大の学生グループ。布野修司らが、三宅理一、杉本俊多らと、1971年に結成。建築批評などを行う。
24.佐藤信(1943-)。演出家、劇作家。
25.津野海太郎(1938-)。演出家。元編集者。
26.1968年結成の「演劇センター68」を母体とし、何度かの改称の後、1990年から「劇団黒テント」が正式名称。1970年代前後の代表的なアングラ劇団。
27.緑魔子(1944-)。女優。1976年に夫の石橋蓮司と劇団第七病棟を立ち上げる。
28.石橋蓮司(1941-)。俳優。劇団第七病棟主宰。
29.西山夘三(1911-1994)。建築学者。京都大学名誉教授。
30.会田洋(1947-)。政治家。2004年より柏崎市長。
31.森民夫(1949-)。政治家、元建設官僚。1999年より長岡市長。
32.宮本和宏(1972-)。政治家、元建設官僚。2011年より守山市長。
33.関一(1873-1935)。社会政策学者。元大阪市長。
34.イルデフォンソ・セルダ(1815-1876)。スペインの土木技師、都市計画家。バルセロナの拡張計画で知られる。1867年に『都市計画に関する一般理論』(未邦訳)を出版。
建築的視点から見た、都市工学の問題
松田:宇野先生からもお願いします。
宇野:都市工一期生のおひとり、小林重敬さん35は、土地利用が専門で、世界の都市計画における土地利用と日本の土地利用の比較や中心市街地の再生について研究していました。日本は近代化する以前の歴史が長く、地震と台風が頻発する自然環境にあり、また雨が大量に降る気候条件から木の生育に適した山地を広く国土にもっていたため木造構造物で都市の造営を行ってきました。まちは低層木造建築で構成されていました。農地を開発して都市化住宅地化してきたこともあり、土地利用が重視されてきました。こうした歴史的経緯もあり、近代都市計画を導入した際、土地利用が都市建設において最重要視されてきました。要は、地表面の活用を主に考えてきた面があり、そのことが今日の建ぺい率と容積率による都市形態の制御につながりました。ゾーニングは、後追いして設けられた。戦後、土地は細分化され個別に建築を建てられる仕組みとしたため、建築と都市と基盤を総合的一体的に制御することが困難になりました。欧米の都市空間は、建築の発展と密接な関係があり、建築は都市とともに構築的に構成される物理的な実体として捉えられてきました。建築家は、建築を通じて都市の設計をするプロフェッションなのです。しかし、あいにく日本では、土地利用、さらにいえば経済最優先政策を国是としたために、土地の高度利用が都市計画で目的化されてきた面があります。ご紹介した小林さんの論文は、そうした実情を踏まえて、土地利用を念頭にどのように都市空間をよりよく制御するかという都市計画手法の基礎を築かれました。先ほど密度の話がでましたが、建物は土地の上もしくは地中にフロアをかさねますから、都市の密度をあげようとする場合、建築の高さでかせぐか地下へと展開するかのいずれかです。日本の都市開発は、あいかわらずフロア面積の多寡で議論されているのが実情です。日本の場合、実は、地質や地形が著しく多様であり、工学的にいえば、本来は、どこにどのような構造物として建設するかがクリティカルな課題なのです。建築分野では、空間を重視します。つまり3D重視ですね。残念ながら、都市工では、3Dや地形地質、あるいは物質性や構造物に関する視点はニグレクトされてきたと思います。都市工初期のプロフェッサー陣は、建築学科か土木工学科のご出身で、実務経験も豊富で、都市造り、国造りに従事してきた方々でした。ですから、都市工も初期の教育研究では、空間(3D)、建築、土地の形状、性質は、重視されていたように思います。小林重敬さんの世代です。それが、次第に、抽象化が先に立つ教育研究が行われるようになり、実体や物性から都市の議論が遠ざかっていきました。半世紀たってみると、日本の都市は近代化して生産性や効率といった面では高まりましたが、一方、たとえば、土地の形状、大小にともなった建築の形状と高さの高低がばらばらになり景観が著しく乱れましたし、水害を被り易いところや液状化が起きやすい土地に住宅地が形成されるというような非合理かつ不条理な開発が現れることになりました。生産性向上を目的化して、地表面の土地利用に偏重しすぎた都市計画の進め方に問題があったと思います。都市工学分野の教育研究を更新し時代に適合させるためには、何らかの対策が必要でしょう。若い世代は、こうしたことを、どのように考えているのか聞いてみたいと思います。
二つ目。国交省の都市局の話です。都市工は、国交省の技術官僚を大量に輩出してきました。文官から聞いた話しですが、東大都市工出の技官のほとんどが開発派だそうで、彼らはどうしたそこまで開発しようとするのか疑問に感じるといっていました。都市工草創期には、都市づくりは、グラスルーツ36でやるべきだという考え方と、いやいや国づくりが大切でまずは国土開発、都市開発だという二極の考え方がありました。すなわち、草の根派と開発派の間でダイナミックな議論が交わされて街や仕組みがつくられてきた。しかし、現在では、官庁の技官についていえば開発派が圧倒的に多く、バランスを欠いているのではないかという指摘です。これについてどう考えるのでしょうか?
三つ目。都市という言葉は明治時代に造語としてつくられた言葉です。「city」を翻訳する際、「都」と「市」、つまりガバメント(行政府)とマーケット(市場)を備えた人口集積のことだと理解したのでしょう。ところで、都市を成立させる根本的な社会機能は分業と交易です。商われる物品が交換されて都市のダイナミズムが生まれます。そこでは都市の個性(個別性)が重視され、都市がネットワークになることで、さらに都市は強化発展されます。いってみれば、個別性とネットワークは、都市にとって最も本質的で重要な概念です。
ところが、日本の都市計画では、国土の均衡ある発展と等質性を重んじるあまり、均質な標準都市化をめざしてきたきらいがあり、結果、スタティックで、ダイナミズムや面白みの欠ける都市をつくりあげてきました。ネットワークや分業と交易による都市の個別性や動的変容についての論考に基づく計画が足りないように思います。都市工学と称しているのですから、こうした都市の本質的な動的な課題に工学的に取り組んでもらいたいし、都市工学科にはそうしたことを期待しています。
松田:大きくは、3D的空間思考の欠如、開発派の官僚が圧倒的に多い、ネットワークが考えられていないんじゃないかという、3つの話を頂いたのですが、渡辺先生からは・・・
宇野:渡辺先生には、あとで伺うとして、まず、若い世代の考えを聞かせてもらえればと思います(笑)。
中島:先に大地の話ですが、わたしも東日本大震災の後で、三陸のいろんなところを調べた時に、都市計画についてショックを受けたというかびっくりしました。本当にこんなところで区画整理、つまり都市計画をやってきたんだと思いました。近年の土砂災害、広島を見ていると、やっぱりそういう三次元的なことがまったく忘れられていた。大地、自然との関係性みたいなものが、ものすごくないがしろにされながら、開発されてきたんだなと思いました。そこに住まわれている方々に申し訳ないのですけど、出来ちゃったからしょうがないではなくて、何とか安全な場所を、大地の性質を見ながら、都市をつくり変える必要がある。
多分、先ほどから渡辺先生がおっしゃっていた、真ん中に集中させて、コンパクトにしていくというのもあるんですけれども、その時、一番重要なのはやっぱり人命にかかわる問題なので、そのことをもう一度見なおしすべきだと思います。そのために都市計画の履歴を見ることが大事です。
あと、何故いまだに開発主義なのかということですが、それが事実としたら何故なのか・・・。正直、分かりません。
宇野:開発派が多いのは、おそらく、グローバリゼーションや東アジアに大規模なメガシティが出現してきたことに対抗しようとしているのでしょう。国土計画って、そもそも日本が世界と期してやって行くんだ!という殖産興業政策から始まっているようなところがあって、そのために近代化を追い求めてきたということができます。テクノクラートとしては資本と技術と方法を計画的集中的に投下して、世界と渡りあえるグローバルな都市をつくろう、って、そういう考え方に傾く官僚がいても不思議ではないと思います。これは、想像ですけどね。しかし、21世紀的かなというと、だいぶ古い考え方であるようにも思えます。抽象的にデータを拾って、モデルをつくって論じると一見正しいみたいですけど、本当にそうかなと。もう少しよく考えてもらいたい。現場から立ち上がる具体の集積からアプローチする考え方もいろいろあります。リアルな市場で鍛えられた物事が競い、立ち上がり、そしてリアルな都市が構築される。抽象化して俯瞰して操作するのとは違い、より魅力的で強靭な都市をかたちづくることができるのではないか、サステナビリティやレジリアンスは現場からしか育てることができないのではないか、そうした考え方を再考する必要があるでしょう。都市工が、このところ、開発派一方向になびいて見えるものだから、あえてお聞きしました。
渡辺:わたしもその開発派の一人を知っています。基本的にグローバルっていっても、東京都心の話だと思うんですが、いまやそんな開発主義でうまくいくとは誰も思っていないので、ちょっと誤解があるのかなということです。
東京の都心に関しては、世界のグローバル競争のなかで頑張っていてね。東京以外のところは違うんだけれど、なんとなく東京の話がよくメインに出てくる。東京を想定した制度的なものだけが流通しちゃうとか、そういうことなのかなという気がしています。
宇野:まさにそこが問題ですね。首都をモデルとして、中央集権的に制度設計してきてしまったところに弱い面があらわれたと思います。南北に3000kmもある島々に暮らしている日本は、もともとは、地形も多様、地質も多様、気候も多様、植生も多様、生態系の多様です。必然的に、町も村も多様でした。なぜ日本が近世にあれほどの発展をしたのかというと、多様な物産を生み出す城下町が各地につくられて、そこに交易が発生したからです。もう一度、原点を見なおすことが大切だと思います。それぞれの町、それぞれの地域の特徴を見直し、個別性を尊重し、個別性を競いつつ連携していくのがいいと思います。小さい町でも、魅力的な唯一性や個別性を担保できれば、生き残ることができます。規模を追うのは、得策ではありません。集積が生み出す、いろいろな利点をそれぞれの町が追求する時代だと思います。都市計画の若い人たちには、そうしたことを頑張ってもらいたいと思います。松田さんは、こうしたことについて、どう考えていますか?
松田:宇野先生から直接指名されたので、ちょっとだけコメントしておきます。わたしは確かに問題提起として、都市工学の未来を問いました。もちろんあってほしい、自分自身の出身でもありますから、未来があってほしい。ただ、いま都市工学科に半分所属していて37、いまの都市工に足りないと感じるものが二つあります。
ある意味、両極ですけど、それは「思想」と「空間」です。都市とは何かと考える思想と、もうひとつは空間的な思考ですね、その両方が足りないというのが現状だと思います。宇野先生からおっしゃって頂いた3D的なことは、二次元ではなく三次元的に考えないといけないということですけど、加えて開発派が多いとか、ネットワークに対する思考が足りないとか、そういう問題の根幹は、全部この両者の問題かなと思っています。
都市とは何かということを根本的に考えなければいけないのに、いまの都市工は、ずっと「技術」に走ってきたという気がするんですね。都市工でやっている演習は、確かに二次元的に地図を見ながら、あるいは上からの目線で都市をつくってきたところがあるような気がしていす。もっと空間のなかに入る視点があればいいなと思っています。だから「思想」と「空間」という両極がどうも足りなくて、中間的なところだけが、いまの都市工の主要な教育であると。
演習教育はもちろん大事だと思っていて、中島さんがおっしゃっていたアーバニズムが必要だというのは、まさに思想的な部分から、都市とは何かというところから考えなおさないと、いまの問題はすべて改善されないだろうと僕は思っています。僕も中島さんとまったく同じような気持ちを持っているつもりです。フランスにいた時に「ユルバニスム」という学問を学んだのですが、それは中島さんがおっしゃっていた「アーバニズム」と、語源的にも近いですが、本質的に同じだと思います。多少、順番が逆転していて、フランスの場合は先に20世紀初頭からユルバニスムという思想が始まり、いまは逆に具体的なプロジェクトのための技術など、詳細化していっている。アメリカの場合は、おそらく逆の流れを辿っていて、中島さんとはちょうど反対の視点から、同じものを見ているのではないかと思っています。それが、いま都市工学科に足りないところかなと思っています。
中島:足りないかも知れませんが、ない訳じゃなくて、1970年代のオイルショック後、都市史への探求があった。2000年代以降も、いわゆる都市そのものに取り組もうという面白い視点はありまして、実際学生がやっている卒論とか修論を見ていると、そういうのが増えてきている。若い人たちは、基本的にそういう感性は持っているし、気づいてきているのだけれども、それと教育のシステムの齟齬があるのかも知れません。
確実に若い人の感性は、制度だけで満足していないし、いままでの都市計画や技術のあり方にこだわっているのは、実は私も含めて教員であり教育する側であって、もっともっと面白い学生の感性に寄り添わないといけない、そういう状況かなと私は思っています。その中には先程もありましたけど、なりわい型のネットワークとかそういう話もあって、そっちが本流だとなればいいのかなと私は思っています。
35.小林重敬(1942-)。都市計画学者。横浜国立大学名誉教授。元都市計画学会長。
36.草の根運動のこと。
37.2015年2月現在、本務は東京大学先端科学技術研究センター。都市工学科とは兼務。
社会工学と都市工学の違い
松田:そろそろ時間ですけれども、やはり最後に、渡辺先生からお話頂ければと思います。
渡辺:都市工学科卒業生の若い人たちは、すごく批判的だなと(笑)。これは大変ありがたい、励ましの言葉だと聞いていました。繰り返しになりますけども、これから本当に真剣に取り組む対象がですね、例えば街区ブロックで容積率200%、500m角の市街地をつくりなさいという課題をあたえられたら、大変、悩むと思いますよ。それは一体どういうものかと、実体験しないといけないわけですよね。
そうすると、うろうろと街の中を歩かなければいけないわけです。ここが容積率何百%、こういうような建築構成だと何百%、これは昔の闇市だけど100%超えているんだとか、その代わり路地裏しかないんだとか、いろいろな現実の空間ですね。いまの言葉でいうと3Dですね。最近は3Dの地図がデジタル化されているので、いくらでも応用できる。あとは自分で行けばいい。そうしますと、その中で自分で答えを見つけられますね。素晴らしいデータベースが最近は出てきたので、ぜひ活用すると同時に、現場行ってご覧になっていただきたい。
例えば近世の都市でも、殿様はいいものばかりをつくったわけじゃなくて、ひどいものもつくったんですよ。有名なのは松江っていうの、皆さんご存知ですよね。
布野:僕は、松江出身です(笑)。
渡辺:いまでも先祖の馬鹿どもが、何故こういうことをやったのかと話している。0m地帯でね、まだ沈下しているんですよ。こんなところに人を住まわせやがってと思って。いまの都市計画の現場連中も、何とかしてあげてと。大雨が降らないこと、祈るだけです。
布野:わたし松江出身なんで、あれですけど・・・関ヶ原の合戦で功があった堀尾吉晴38という城主がやってきて築城します。堀尾は彦根の佐和山城にいました。この間、治水の問題では相当お手伝いしてきてるんですよ。
渡辺:すみません。
会場:(笑)
渡辺:そういう近世の街もあるわけですし、すべて歴史が大事というわけではなくて、変えていかなきゃいけないものも、たくさんあるんですよ。現場でよく状況をつかんで、3Dとか、自分の感覚をそこで研ぎ澄ましてってくっていうのが大事。その時にここを何%に密度を高める、あるいはものすごく密度を低めるけれども、豊かな田園風景の中に人々が暮らせるような場所が、どういう風なものなのか。
先ほど密度、密度といっていましたけど、これだけでは空間はできません。これにケビン・リンチ39風に言うと「パス」を加えて、ノードとパスのある「通り」ですね。そういう「通り」に「グレイン」が市街地の密度を表現しますが、いまの日本の我が国の制度でいいますと、集団規定というのがありますね。建物は道路に面して、こうでなきゃいけないとか、いわゆる斜線制限とか、日影規制とかが大まかに市街地の姿を決めて、必ずしも密度の表現にこだわらないで、市街地ができてしまう。
ところがこれが、全国一律にかかっている。一律かかるっていうこと自体が、中島先生のいう近代化以前の話です。松江だったら、松江の集団規定をつくらないといけないんですね。都市計画税という税金を、固定資産税にぶら下げて取っていたわけですが、あれが都市計画の情けない財源なんです。そこから一体どれだけのことが出来るかっていう議論が、もう一度、市民運動のひとつとして「市町村の都市マネージメントは、俺たちがやるよ」っていうことを、是非若い人たちに、声を高らかに上げて、やってもらいたいですね。
布野:京都のときに、相当やったんですよ。広原盛明先生40と京都コミュニティ・デザインリーグCDLというのをつくって、コミュニティ・アーキテクト制を提起したんです。広原先生が京都市長選で敗けて、実現できなかったんですけどね。
松田:ありがとうございます。予定の時間を、既に5分ぐらい過ぎているのですが、会場から質問があればひとつくらい。
藤村:(挙手)
布野:建築と都市で3対2だから、3対3くらいにしておかないと。
松田:僕が中間の立場なので、一応バランスは取っていたつもりなんです。
藤村:私は東工大の社会工学科の出身なんですが、では「社会工学に未来はあるか?」というと、社会工学科は来年解体することになっているそうです。近年は空間系の先生と経済系の先生の方針が、あまりにも噛み合わず、結局、空間系の先生は建築や土木系の学科に戻り、経済系の先生は経済系の学科に戻るそうです。
布野:京都大学も途中、環境地球工学科ってつくったけど、いまは戻ってますよ。
藤村:社会工学と都市工学の、他とのある種のコンセプトの違いというのは、建築、土木に加えて、経済だったり社会学だったり、より横断的なコンセプトが、少なくとも当初はあったところだと思いますが、結果的には、そこがむしろ仇となった形です。
私が学生の時の社工の演習では、例えば「外国籍児童の初等中等教育問題」というのがありまして、それを解くためには、空間的にはこうだ、経済的にはこうだ、社会的にはこうだといろいろ分析して、最終的には社会全体の計画をしていく。その社会計画を実現するために、必要であれば都市計画を使う、建築を使う、そういう思想だったのですが、都市工学のなかに、そういう社会計画に対するアプローチというのはあったんでしょうか。
渡辺:ありません。何故かといいますと、学生は自分で勉強する立場ですよね。おかしいと思ったら、法学部なり経済学部なりへ行って、経済とかを勉強すればいいだけの話です。東大の場合、ちょっとこれは語弊があるかもしれませんが、ただでいろんなことを学べますからね。全然文句を言われない。夕方、先生にうまく取り入れば、ごちそうになっていろんなことを教えてくれる。社会全体を計画するなんてことは、考えたこともないです。それは他のところで勉強したほうがよいのでは。
松田:補足しておくと、都市工学で特に重視されているのは、中島さんの話にもありましたが「フィジカル・プランニング」です。つまり物理的に、目に見えるものの計画。いまの話を聞くと、そこは社会工学との大きな違いだと思います。
藤村:なるほど。
松田:それでは時間が来ましたので、今日の討議はこのあたりで終了したいと思います。ご多忙のなか、大変なテーマに対する議論にお越し頂きました渡辺先生、中島先生、コメンテーターとしてお願いさせて頂きました布野先生、宇野先生、また会場にお越しいただいた皆様、まさに未来はあるか?という核心部分にも触れる、よい議論が出来たと思います。本日はどうもありがとうございました。
38.堀尾吉晴(1544-1611)。戦国時代から江戸時代の武将、大名。1611年に松江城を建造。
39.ケビン・リンチ(1918-1984)。アメリカの都市研究者。『都市のイメージ』の著者として知られる。
40.広原盛明(1938-)。まちづくり研究者。京都府立大学元学長。
追記
2015年2月13日のシンポジウムの時点では、中島直人氏は慶応義塾大学に属していたが、4月より東京大学都市工学科に異動。一方、松田はこの時点で東京大学先端科学技術センター及び工学部都市工学科に属していたが、4月より武蔵野大学工学部建築デザイン学科へ異動。奇しくも中島と松田は、都市工学科に関しては入れ替わる直前のタイミングであり、当時、この状況を知りつつ、また知っていたからこそ、「都市工学」についての問題提起を行った。
(文責:松田 達)