布野:今日は対論シリーズの第5回になります。「けんちくとーろん」シリーズが今日の問題を直接討論するのに対して、対論シリーズは、今日の問題をもう少しロングレンジの歴史的パースペクティブにおいて、またグローバルの視野においてに考えてみよう、という位置づけをしています。建築教育(第一回、ゲスト:宇野求)、住宅と社会(第二回、ゲスト:山本理奈)、建築史(第三回、ゲスト:青井哲人)、都市計画(第四回、ゲスト:羽藤英二)と続けてきたわけですが、今回は、これまで住宅生産、建築構法の分野で仕事をされてきた松村先生をお迎えしました。松村先生は、最近「箱の産業から場の産業へ」ということを主張されています。日本の住宅生産のあり方を振り返りながら、建築のあり方の未来を展望してみたいと思います。私自身は、松村先生と1980年代から90年代にかけて『群居』で一緒していましたが、最近のお考えを是非聞いてみたいと思っています。今日は、峰政克義先生、藤沢好一先生、安藤正雄先生など、私にとってはなつかしい先生方もお見えです。
松村先生にはレジュメを用意して頂いたようです。拝見しますと、松村先生の話だけで2時間あっても足りない内容のように思えます。とりあえず、10分程度話して頂いて、後は流れに従って議論できればと思います。
松村:八束先生とは今日のような話をするのは初めてなんですが、ご紹介のように、布野先生とは『群居』を一緒にやっていまして、今日はその頃から知合いの先生方が「今度の会に行くよ!」というような声もかけていただいていましたのでレジュメは多少ナツメロ風になっています。布野先生から今日はどういう話をしてくれということはなかったんですが、リード文を読むと、産業がどうなっていくか、ということが書かれています。何故、最近「箱の産業から場の産業へ」というようなことを言い出しているのか、最初に、個人的な関心事を振り返ってみたいと思います(レジュメ①②)。
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レジュメ① | レジュメ② |
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普通のまちのつくられ方-市場・産業・制度
松村:私が大学を卒業したのは1980年ですが、その頃の関心事は主に2つありまして、1つは自分が暮らしている生活空間としてのまちは一体どうやって構成されているのか、ということです。大学で建築の教育を受けていますと、特別の建築家の特別の作品について教わるんですけれど、それは結構、旅に出ないと見に行けない。設計課題に対して、日々眼にしている普通の建築を設計して出したら誰も何もいってくれない、貼ってあってももしかすると剥がされてしまうんじゃないかというような建築でまちはできている。だけど、まちを構成している建築がどういうふうにしてできているのかは誰も教えてくれない。それを理解したいということです。今でも理解しているとは言えないかもしれませんが、要するに20世紀的な市場・産業・制度、つまり近代的な仕組みでつくられているんですね。そうするとそれは大学で教えられていること、建築学科の未来とどう繋がるかということになりますが、建築の仕事はどうなっていくのか、というのが2つめの関心です。調べてみると、20世紀的な専門分化、分業が極度に進行しつつあって、相互に無関心な状況がある。極端なことをいうと、建つ建物に全く関心のないような人によってつくられているんですね。そこで、もうちょっと、相互に関連しながら建築をつくっていくやりかたはないのかということを考えだしまして、フラー1(写真①)とか、イームズ2とか、プルーヴェ3(写真②)の仕事の見直しをやったりしました。
1.リチャード・バックミンスター・フラー(1895-1983年)。いわゆる建築家ではなく、思想家、発明家、詩人等とも言われるアメリカ人。1947年に実際につくられたダイマキシオン居住機械は、先端技術を盛り込んだプロトタイプで、フラーはこれを世界中に届けることを夢想していたと思われる。
2.チャールズ・イームズ(1907-1978年)。最初は建築家だったが、デザイナー、映像作家として世界に名を馳せたアメリカ人。1949年に建設されたイームズ邸において、市場に流通する工業製品としての建築部品を転用し組み立てることで新しい時代の住宅像を示したと言われる。
3.ジャン・プルーヴェ(1901-1984年)。金属加工職人として修業した後自らの工房を立上げ、建築の部分の仕事や家具の製作の受注から始め、最終的には建築全体を自らの構想でつくるようになった。工業化時代のクラフトマンシップを体現した稀有な例だと思われる。
商品化住宅と『群居』
松村:少し時代状況を振り返ってみたいと思います。2,3年前に『箱の産業』という本を書いたんですが、この本は1970年代前半までの動きをまとめたものです。1970年代後半は建築の学生でしたので、それ以降は私が知っている、経験した時代になります。
70年代後半というのは高度成長期が終わり、ご承知のように、住宅に関しては量的にはもう充足した時代ですね。5年に一度住宅土地統計調査があるんですが、1973年に47都道府県全てで住宅数が世帯数を上回ります。これをもって「量から質へ」ということが言われ出します。それと、産業体制が確立したと言われるのがその頃ですね。住宅産業という言葉が使われるようになったのは60年代末ですし、『住宅産業』という雑誌も70年代に入って出ます。言葉ができるということは、誰かが言い出したということではなくて、そういう大きな社会的意志が働いて、70年代後半にはそういう産業体制が整っていくわけです。住宅メーカーはマーケティングをするようになります。それまではマーケティングなんかしていない。80年頃からほかの分野で行われていたような商品開発をするようになります。従来から住宅は商品として売られてきたんですが、もう少し差別化して、名前をつけて、まさに「商品」として売るようになるんですね。その頃丁度、布野さんたちの『群居』4という雑誌ができたんです。1982年末に創刊準備号が出たんですが、私も最初から関わっていまして、終わるちょっと前まで「群居青年隊」と言っていました。当時のマーケティングとか商品化の動きに対抗して、「地域」とか「町場」とか、「小規模主体」、場合によっては「住み手自身」に着目した、ある種の運動に近いことを展開しようとしたメディアだったと思います。私自身も「地域型〇〇」といった動きに関わっていました。レジュメの裏側に最終号(2000年12月)の目次をコピーしてきました。編集長が布野さんでしたから、布野さんと久しぶりにお会いするというので、ほこりまみれになっていた『群居』を引っ張り出してみたんです(写真③④)。
布野:全部持ってる?
松村:持ってますよ。
布野:去年、中谷礼仁さんがヴェネツィア・ヴィエンナーレの日本館「建築における日本近代化100年の「倉」」のディレクターをやったんだけど、70年代に焦点を当てるというんで、僕の家に来て『群居』全巻持って行った。展示されたもの見たら「メディアによる下支え」というキャプションだった。
松村:80年代ですけどね。この最終号では、「群居の原点」ということで、創刊準備号(「箱・家・群居-戦後家体験と建築家」)、創刊号(「消費社会の神話と住イメージの商品化」)、第二号(「セルフビルドの可能性と限界」)第三号(「職人幻想と建築家」)の座談会を再録してるんです。やたら「箱」ってありますよね。今度「箱の産業から場の産業へ」ってことを言いだしたら、なんか評判が悪いんですよね。なんかこれまでやってきたことを切捨てて揶揄してるんじゃないかって。難波(和彦)さんの「箱の家」とどういう関係にあるんだとか。小野二郎さんの「箱 住み手の自己解体をこそ-住宅街路化への提案」にしても、石山、大野、布野、渡辺、当初は毎回4人で座談会やってましたけど、箱から家へ、家から群居へ、ということでしょうけど、セルフビルドだとか、消費社会がどうだとか、もっとほかにもいろいろやっていましたけど、箱というのが原点で語られていたんですね。『群居』全号を通しての課題がわかると思ってコピーしてきたんです。若い人に伝えて代々語り継いで頂こうという作戦だったんですけど、こんなに沢山『群居』会員が来られるとは思ってませんでした。
4.1982年12月、創刊準備号発行。1983年4月創刊号特集「商品としての住居」、以降、2000年10月50号特集「21世紀への遺言」まで50号発行。2000年12月に終刊特別号「群居の原点」、全52号を刊行した。『群居』同人は、大野勝彦、石山修武、渡辺豊和、布野修司(編集長)、松村秀一、高島直之、野辺公一他。
空家問題
松村:それで次の段階なんですが、昭和の終わりぐらいになりますと、住戸数は4000万戸を超えていて、今は6000万戸ですが、当時ですら空家が500万戸あったんです。今は800万戸です。最近になって空家問題がどうしたこうしたといっていますが、本来であれば、昭和の終わりにはストックに着目すべき時期だったと思います。だけども、そのころ丁度バブルが来まして、ストックがどうのこうのという議論は出ようがない状況になったんです。バブルが過ぎ去って1990年代になって、ようやく、私自身振り返ってもそうなんですが、遅ればせながら、ストックに着目することになるんです。団地再生とかコンバージョンのことをやりだすんです。『群居』で言えば、私が特集をやった「X年目の住まい」(29号、1992年)とか、今日いらっしゃっている安藤正雄先生に中心になってやってもらった「イギリス-成熟社会のハウジングの行方」(41号、1996年)があります。というように、私自身の問題意識は変わっていくんですが、新築偏重の市場と産業の構造、制度はなんら変わらなかったように思います。大括りに言うと1980年代、90年代には、近代的な構造、すなわち20世紀的な市場・産業・制度は揺らがなかった。そこで『群居』終刊(2000年)となるわけです。既にストック再生とかコンバージョンに取り組む人は出だしていたんですが、まだまだ供給者側の発想でしかなかった。そもそも需要がなかったんです。空いてるビルを住宅にする場合、何が法的に邪魔してるのか、こういう部品だったらエレベーターで持って行けるとか、今日いらっしゃっている何人かの方々ともいろいろやったんですけど需要そのものがなかった。
それと同じ頃、不動産証券化ということが起こって、デュー・デリジェンスが問題になってきた。従来の不動産の見方とは違う見方が入ってくるんですね。例えば、収益性に着目するとか、建物を含めた詳細な調査をしてどういうポテンシャルを持った資産であるか評価しないと、それなしには証券化ができないわけですね。単に土地の価格がいくらで、建物の値段は零にしてとか、そんな単純なやり方では動かなくなってきた。ストック型社会で不動産として建築をみていく、そしてそれをビジネスにしていく、不動産の世界が変わってきたんですね。丁度この頃。一旦、この辺で切りましょうか。
布野:そうですね。八束さんここまででコメントというか質問ありますか?
「建築」という思考の枠組への疑問
八束:『群居』の話が出たんで、対抗上じゃないけど(笑)『10+1』のことを話しておきましょうか。創刊は『群居』より10年あとの1992年で、これは僕が立ち上げたんですが、編集委員だったのは最初の4号だけで、後はずっとライターとしてだけの付き合い。でもこの間の話題になった『ル・コルビュジエ―生政治としてのユルバニスム』を含めてかなり一杯書いています。それに引き換え、僕は一度も『群居』に登場したことがないんです。
布野:ああ、そうかなあ。『群居』は住宅をターゲットとしてたから、『10+1』は全く違うメディアだと思ってたことは確かだけどね。
八束:で、布野さんは一度も『10+1』に登場していない。対論の最初に出ていたように、二人は一緒に『建築文化』の連載でデビューしたようなものですが、この期間、二人の途ははっきり分かれてたのですね。
今日は、廻りじゅうが『群居』に関わっておられた方ばかりだから、敵陣に乗り込んだような感じがしながら来たんだけど、ちょっとテリトリーの違う話をしないといけないとは思ってきたんです。とくに、これは建築学会のイヴェントですから、建築学科が何を教えるか、どういう人材を育てるか、ということに関しては、かつて同僚だった藤沢好一先生もいらっしゃるんで話しにくいんですが、僕も10年余り教師をしてきて感じるところがありまして、是非、その辺のことを話をしたいと思って楽しみにして来ました。
松村さんがおっしゃる産業の話もそれに繋がって、産業のパラダイム転換にともなって、その一環である建築産業とそこへ人材供給する建築学科も当然再編成されないといけない、と思っているんです。ところが僕の目からすると、その改革というか、再編成は遅々として進んでこなかった。建築学科というのは、よろず、私がいたところを含めて、アウト・オブ・デイトになってきているという感じをもっているのですね。
そういう考えをもっている中で松村さんの研究室のホームページを見せてもらったんですが、同感というか共感する言葉があって、もう建築という思考の枠組み自体を変えていかないといけない、と書いてある5。僕も、建築というのは時代遅れだ、特に設計に携わる建築家というのはステータスとして圧倒的に時代遅れだといってきました。実際に、設計系に進む学生は減ってきています。そのニーズは簡単にはなくならないとは思いますが、中心ではなくなっている。設計を中心に建築系の学科、学部が編成されていくことはありえない、と思う。美術系の学科は別でしょうが。じゃあ、どう変えていくのか、ということですけどもね。
第一回で宇野さんと建築教育について話したんですけど、そうはいっても・・・というアンヴィバレントなとこもあるんですけどね。それは追々お話ししていくようにしましょう。
5.「役に立たなくてもいいから感動的な研究」。ぼんやりとそんなことを目指しながら、直感だけを頼りに研究の手を広げてきました。その結果、これまでよすがにしてきた「建築」という思考の枠組も邪魔になってきたように感じ始めています。これは私個人の問題ですので、ここからは少々おせっかいな物言いになりますが、「建築」に代わる概念を考え出すべき時代になったと切に思う今日この頃です。
世界を覆うシステム
布野:今の八束さんのコメントについていうと、二対一かな。僕は、「建築」は「建築」でしょ、と思う。建築教育のあり方とか、建築学科とか建築学部の編成をめぐってはいろいろあると理解はしていますが、「建築」は「建築」と思っている。後で、議論になると思うんですが、「箱から場へ」というけれど、「箱」は「箱」でしょ、という気がしているんです。生活空間としてのまち、圧倒的多数の建築をどう考える、どうするというのは『群居』の初心6ですし、時代状況についてのこれまでの説明については違和感はないですし、共有してきたと思いますが、僕の場合、あくまで「建築家」としての関心なんですね。もちろん、いわゆる「建築家」という理念に限界があるのは前提であり、出発点です。
八束:だからアンヴィバレントといったのですね。けれど、そこにしがみついているという安住していては将来はないと言いたかったわけで。
布野:「建築」の領域が拡がるということは当然ある、広げていかないといけないという意識ですね。一般的に建築の仕事のあり方とか、産業構造への関心ではなかったように思います。それであれっと思って、確認したいのは、何でフラーとか、イームズとか、プルーヴェの見直しだったんですか?
松村:それは、分業の極度の進行に対して、どう対処するかという問題意識なんです。フラーはどう言っているかというと、分業は体のいい奴隷制度だといってるんですね。彼がやったことは、全体のモデルを設計して、そのモデルをモデルごと量産するということですよね。イームズは、フラーのことを尊敬していたわけですが、世代が違うこともありますが、アメリカの工業社会が育ってきて、もうあるじゃないか、というのが出発点だった。たまたま住宅用ではない他の需要のためにつくられていたシステムを使おうという発想だった。システムやモデルを設計するというのではなく、資源として存在しているものを組み立てるということですね。分業というのとはちょっと違うわけですが。分業という問題に関して決定的なのはプルーヴェですよね。ひとりでやろうというわけですから。工場を持っていて、一人で考えて、自分でハンマー叩いて、組み立てて、工場の機械を動かすのもプルーヴェが誰よりうまかったという、全部自分でやった。プルーヴェ自身も言っているんですが、マスタービルダーですよね。全く分業していないけれど工業化技術は使っている。彼らは、産業化は行わなかったけれど、工業技術は使ったわけですよね。産業化の動きと違う彼らの動きにどんな可能性があるのかという関心があったわけですね。
布野:分かった。というか、もちろん解ってるけどね。要するに、建築家としての彼らの表現に興味が合ったわけじゃない。分業というか要するに生産システムへの関心ですよね。
松村:ただ、建築学科で教育受けてきましたから、見て気に入らなかったらやらなかったと思いますね。フラーもいいし、イームズ邸もいいし、好きじゃなかったら、興味をもてなかったら、突っ込んで追求しようという気にはならなかったでしょうね。きっと。
八束:イームズ邸は、僕も昔偶然ですけれど、レイ・イームズに中まで見せて頂いて、あれは本当に素晴らしい住宅だと思った。僕もそういう古典的な感性を否定する積もりはない、自分の中には確実にあるし。ただ、それだけで彼らの仕事を評価したら拙いわけですよね。
布野:『群居』で最初からずっと議論していたことだよね。「箱」というのは、セキスイハイムM1、大野勝彦さんは、箱を横に並べたり、縦に積んだり、そういう全体的な空間システムを考えていた。それを現実化する過程で住宅がターゲットとなり、道路交通法とか、戸建てという形式とか、空間を規定する制度的枠組みによってユニットの大きさが決まっていった。それに対して、石山(修武)さんの場合は、今の脈略だとイームズに近いのかな。しかし、大量に生産される地下埋設管用のコルゲートパネルを使うという発想は、川井健二の先例があったにせよ、ゲリラ的だし、それを「幻庵」とか「開拓者の家」という作品、表現にしていく戦略ですよね。しょっちゅう喧嘩してましたよ。
松村:誰と誰が、喧嘩してたんですか。
布野:大野VS石山ですよ。二人は仲好かったけど、議論は、要するに、どちらが世界を覆えるかをめぐって熾烈だったですよ。内田スクールでいうと、システムズ・ビルディングか、オープン・ビルディングか、という議論になるかな。僕は、アジアのセルフビルドの世界が現実の世界だと思っていたから、「箱」が世界を覆うとは思っていなかった。大野さんも「地域住宅工房」ということを言い出すでしょう。僕は、産業社会の廃棄物を再生することに未来がある、とかいってたけど、確信があったわけじゃない。しかし、コルゲートだけで世界を覆えるとも思わなかった。まあ、ちゃちゃをいれてたのかなあ。
松村:まあ、みんな似てますけどね。
布野:いや、フラー、イームズ、プルーヴェへの関心は『群居』の関心そのものだったということを確認したかったんです。松村さんも修士論文は工業化について書いたわけだし、今度、日本建築学会の著作賞を受賞したのも「箱の産業-プレハブ住宅技術者たちの証言」(写真⑤書影)の方ですよね。産業の編成という今日のテーマは、要するに世界をどう覆うかということですよね。
6.『群居』創刊の言葉「家、すまい、住、住むことと建てること、住宅=町づくりをめぐる多様なテーマを中心に、身体、建築、都市、国家をめぐる広範な問題を様々な角度から明らかにする新たなメディア『群居』を創刊します。既存のメディアではどうしても掬いとれない問題に出来る限り光を当てること、可能な限りインター・ジャンルの問題提起をめざすこと、様々なハウジング・ネットワークのメディアたるべきこと、グローバルな、特にアジアの各地域との経験交流積極的に取り挙げること、等々、目標は大きいのですが、今後の展開を期待して頂ければと思います」(1982年12月)
コトを起こす力
松村:ということで続けましょうか。21世紀以降ですね。2000年頃からコンバージョン研究会というのを始めるんです(写真⑥)。80人近い結構大きな研究会で、石山さんなんかも入っていました。当時2003年問題と言われていたんですが、空きビルがテーマでした。アメリカ・ヨーロッパでは1990年代半ばに、ニューヨークでも、パリもロンドンも、シドニーも、あるいはシカゴでも、空いているオフィスをコンバートする動きが起こっていたんですね。制度も変えたりしたんだけど、日本では依然として新築中心で動かなかった。なんでだろうなと思ったんですが、先ほどもいいましたように、利用者側に空いてるから使おうという機運が起こらなかった。供給者側の発想だった。ところが、2005年ぐらいから、ライフスタイルとかワークスタイルとか、それに関わる価値観が大きく変わり始めるんです。僕らのコンバージョン研究会と関わりなくいろんな動きが出てくるんです。早い例でいうと、ブルースタジオの大島さん、当時30歳ぐらいなんですが、その後、馬場(正尊)さんのR不動産なんかも出てきますよね。大阪だと中谷ノボルさんとか。住み手に近いところで仕事をし出すんですね。それが2008年のリーマンショック以降顕著になる。さらに2011年の原発事故以降、はっきりしてきた。利用できるストックの価値に気付く人たちが次々に増えていくんですね、各地で。僕らより一世代も二世代もうんと若い世代ですね。若い人たちが、需要があってそれに対応する中で人生が変わっていくということが起こり始めたんですね。そういう動きが、丁度普及していったSNSによって繋がっていった。共感して、共有して、拡張していくんですね。日本のどこかで、九州で行われたこと、和歌山で起こったことが全国に伝えられていくんですね。あらゆる場所の動きが交感(交換)されるんですね。
今や全くコンテンツの問題ということなんです。要するに建物の問題ではない、活動そのもの、暮らしと仕事の未来が問題になっているということです。そういう方向の模索、トライアルが行われていると考えたわけです。建物の保存や耐震改修が中心的課題ではない、ということです。「箱の産業から場の産業へ」ということを言い出したのはそういうことなんです。「箱の産業」というのは建物中心ということですね。それより、場をどう作っていくかが問題、コンテンツが問題ということです。本のタイトルについては、場の「産業」と言っていいかどうか、産業はそうなってないわけで、「から~へ」というタイトルと産業界の人が読むだろうからということで「産業」としたんですけど、行き着く先は必ずしも「産業」という形ではないかもしれないと思ってもいます(写真⑦)。
開かれた「場づくり」の時代へ、というのは、実感ですね。この間、石川の小松市の西圓寺の住職の雄谷(良成)さんの話を聞いたんです。お寺なんですが7、まちに開くというのがコンセプトなんです。温泉を掘り当てて温泉(西園寺温泉)をやったり、障害を持った人々のために福祉法人佛子園http://www.bussien.com/index.html#/というのをやられているんですが、寺のどこに座るところをつくろうかとか、いろんな計画をたてていくために、パタン・ランゲージの勉強会をしてるんです。専門家はいなくて、一般の人たちがですよ。そういう時代なんです。
それに類することは今すごく増えていて、リノべーションの世界ではセルフ・リノベーションの時代なんです。僕のこの方面の仲間たちは今リノべーションスクール(写真⑧)というのをやってるんですけど、この間北九州でやった時に大阪のカリスマDIY女子で久米まりさんという方がきたんです、講師として。若いんですが、セルフ・リノベーションのためにすごい技を生み出して人気なんです。化粧品を買うか建材を買うかという家計のやりくりの中で建材を買ってリフォームするそんな人なんです。原状復帰するために、剥がしてもきれいに見えるとか、ディテールがすごいと言われています。その技は、クックパッドのようにネット上に流れているんです。パタン・ランゲージもそうですが、身近な空間を自分で作っていくそういう時代になっていると思うんです。場を作っていくということは、身近な環境を整えていくということなんです。われわれ専門家が蓄積してきたことがばあっと開かれていって、使われていく、そういう時代が来ているんじゃないか、専門家の役割の再定義が必要なんじゃないかということなんです。
それで、建築系のシゴトの未来ということなんですけど、コンテンツ産業が主流になっていくとすると、待っていても仕事はくるわけではない。セルフ・リノベーションをやっている人たちもそうです。事が決まってから動くわけではない。建築でも、本社ビルが決まってからさあ考える、というのが従来の分業的プロセスですが、コトを起こす力が重要ということです。まちづくりでも、このまちで何が構想できるか、あるいは住民のひとたちが持っている構想をうまく組織化できるかが問題です。コンテンツを構想できる、あるいは利用者の構想力を刺激し組織できるそういう人材が必要なんです。そのためにはその人自身が豊かじゃないと駄目ですね。徹夜して模型造って、毎日コンビニで弁当を食べているようじゃだめですね。豊かな生活感をもっている必要がある。
そうすると大学では遊んでいればいい、ということになるかもしれませんが、現にあるストックを改造するというような場合は、臨機応変、当意即妙といった能力が必要になります。この能力をどう育むかということです。それと不動産のこともわかる必要がある、耐震改修のことも分かる必要がある、専門家でなくてもいいんですが、つなげられる能力が必要ですね。
とは言え、一方で 施工するためには専門家は要ります。久米まりさんのようなDIY女子が大勢いればいいのかもしれませんが、頼みになるのはやはり大工ですね。しかし、大工は1980年に90万人以上いたんですが、2010年には39万人、今年は30万人ぐらいかなあ、東京オリンピックの時には20万人を切っていると予測される。こういう状況で、建築学科がどういう人材をどう育てるのか、ということなんです。待遇とかライフプラン、育成プロセスをどうするか?それも含んで、新しい仕事像、職人像が必要で、これまでの建築家像に縛られない時期に来ていると思うんです。
7.その昔「お寺」は、折節につけ日常的に町の人たちが自然と集まり、さまざまなことが行われる場所でした。住人同士が分け隔てなく、ともに支え合い、暮らしを営むための「拠り所」だったのです。しかし、最近ではこうした人と人のつながりが希薄になり、地域の活動も少なくなってきています。私たちは「三草二木」の理念のもと、かつて「お寺」が担っていた役割を見つめ直し、これからも西圓寺が野田町住民のさまざまな「拠り所」であり続けるよう、町民たちとともに手を携え、ともに楽しみながら、町おこしに貢献します。
カリスマDIY女子と建築学科
八束:要するにゼネラリストを育てるということになりますね。でも、建築学科じゃなくても、ということは、逆に言えば、結局、今日の建築学科がそうなっていない、ということになる。それと『箱の産業から場の産業へ』には最後の方に、ハードからソフトへということが書いてありますよね。日本の現在の建築学科は大半工学部にありますから、どうしてもハードに偏る、その転換をどうできるかが、私の第一にして最大の質問になります。
それと第二の質問は、ハードの産業は成立している―それが縮小しているという話はありましたが―、しかし場の産業は成立していない、という話ですが、そもそも成立するものなのか、という点ですね。布野さんは建築の仕事のあり方は問うにせよ産業まではどうなのか、みたいな話をされましたが、私的にはそれは問題ない、というか問うべきだと思います。大学は大学だけに閉じこもっているわけにはいきませんから。ただ、個々の話は納得できる点はあったのですが、お話のようなことが規模として産業になるかどうかについては疑問がある。
建築家も個々の作品は建ったとしても、産業ということじゃないですよね。大野勝彦さんとか、石山さんとか名前が出てきましたが。他方、今、大島さんとか、馬場さんとか、中谷さんとか、久米マリさんとかの固有名詞も出てきましたが、それはやはり個別のタレントとしての活動じゃないか、果たして産業というスケールに成長していくか、ということですね。最初にそこいらに建っている建物を問題にしたいと言うお話があったけれども、箱から地域に移ったにせよ、やはりそこいらに成立する話なのか、どうかということです。
松村:産業になるかどうかに関しては、分野ができるかどうかもわからない。でも、例えば、地方に移住した人から聞いたんだけど、多職という概念がある。農業で5万、お爺さん御婆さんにパソコン教えて5万円、5つぐらいやると25万円、空き家に住みながらセルフ・リノベーションして充分豊かに生きていけるというんです。産業というよりも自分たちの生活領域でのシゴトが各地で同時多発的に生まれてきている。そういうことかなとも思います。あるいは、嶋田洋平さんのらいおん事務所では、所員に電気工事も給排水工事も、まず資格を取らせるというんですね、それで多能工で食っていくという。十分なサラリーが得られるかどうかわからないですけど、やはり身近な生活環境に働きかけるシゴトを実践することを意識した人材育成だと思います。大学がそれを教えられるかどうかはわからない。
八束:松村さんへの質問というより建築教育一般の問題ですが、ゼネラリストを育てるというけど、時間が足りないのですね。大学院を入れて6年でも足りない。専門技術を教えるのにアップ・アップの状況ですね。学生は松村さんの本なんか読むんだとは思うのですよね、設計の課題なんかみてても、なんとなくそれ風の話がでてくる。ですが、なんとなくで、かつ小っちゃくなるんですよね構想が。産業構造への目配りどころではない。さっき毎日コンビニ弁当食ってちゃダメという話があったけど、名前はいいませんが、世界的に有名になったある若い建築家が、オープンハウスのパーティに出て、この寿司うまいですねといったんだけど、実はコンビニの寿司だったということがある。ことほど左様に、教育、教養教育はまだ浅いし、難しい、人生経験でいうと学生が少ないのは当然なんだけど。私の大学の件でも建築学部つくっても、執行部の関心は結局一級建築士の合格者数が多いかどうかが問題なんですよ。とてもコンテンツを充実するような関心やヴィジョンの広さにつながっていかない。建築士試験というのは実は建築学科の本来なすべき教育を邪魔しているんじゃないか、という気さえします。
松村:少なくとも、建築教育については、私が今お話したようなまさに動いている現実の状況に接触する機会が少ない。確かに、大学での専門教育は短いですよね。構造は4年やった方がいいですよね、1年やってわかったふりされるよりも。新築は零にはならないですしね。ただ、頭出しは大学でやった方がいいんじゃないか。
私が関係している話としては、リノベーション・スクールを大学とは別につくって、具体のプロジェクトとして、事業として始めてるんです。北九州で始めて、10都市ぐらいで動き出しているんですけど。大学のサマースクールというような形でもいいかもしれない。
布野:簡単に言うとOJTでやるということかな。サマースクールということなら、藤沢好一先生と安藤正雄先生と『木匠塾』8を始めたのは1991年からだから、もう四半世紀やってきてる。ここのところ、復興支援で「番屋」建設やってきたけど、今年から加子母に復帰します。建築のトレーニングとしては、実にいい。
松村:OJTはお金をもらってやるんだけど、自ら変えられるということ、自ら組織化していくことが大事。OJTを受けて、普通に就職して、アジアに行きたくないけど行かされた、というのではだめなんです。
八束:頭出し、というのは全く同感なんだけど、その頭出しをインスパイアしていくセンスが、今の教官にはないんですよ、大部分が。一般論ですが、自分のテリトリーをやっていれば間違いない、という先生が多いのではないかと思うのです。自分の学校では何とかそれを変えてやろうと最後の数年でやったんですけど、ここは教員というよりは上層部の無理解で結局うまくいかなかった。このままいくと、松村さんの言う方向はやっぱり例外にとどまってしまうんじゃないか。
布野:松村さんのしゃべったことに違和感はない。リノベーション・スクールの話にしても、そういう需要があるからひとつの流れになるわけですよね。需要と供給がずれているからというので教育の話になっているんだけど、僕が「建築は建築でしょ」というのは、教育の内容についてきちんと「建築」を教えればいいんじゃないの、ということです。おそろしくコンサーヴァティブというか、正統的といってもいいと思うけど、「建築」の中身が問題なんだけどね。さっきの久米まりさんだっけ、カリスマなんとか。
松村:カリスマDIY女子。
布野:DIYというのも我々は考えてきたわけですよね。建築的思考の範疇にあった。『群居』の第2号では「セルフビルド」の特集やりました。誰もが建築家でありうる。「建築」になっているかどうかが問題。建築家としての素養があればいい。それと、アーキテクト・ビルダーの可能性についても考えてきたわけだよね。
一方、京都大学へいってから、コミュニティ・アーキテクトということを言い出した。
松村:あれ、タウン・アーキテクトじゃなかったんですか?
布野:タウン・アーキテクトでいいですけど、ちょっと評判が悪かったんです。特権的だという。僕の頭の中では、建築主事さんとか、建築市長というのは、理念としてまだあるんですけど。一緒にやろうという広原盛明先生がもう少し広がりをもったほうがいいとおっしゃって、コミュニティ・デザイン、コミュニティ・アーキテクトということにしたんです。滋賀県立大学に行って「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)」というのが即学則になったのはびっくりしたんですけど、座りがよかったんでしょうね。今、みんな使いだしてるけど、カタカナなのがどうかと思う。それはともかく言いたいのは、コミュニティ・アーキテクトというのは一体何なんだ、というのと同じなんですよ。コトを起こす力、コンテンツを構想できるか、というのが問題。武器は一体なんだ、ということなんですよ。企画力がいるとか・・・。その久米まりさんというのは、ディテールがきれいなんでしょ。建築というのはディテールが奇麗じゃないといけないんじゃないか。
松村:布野先生、内田研みたいですね。
布野:そうかなあ、そうかもね。内田研でもなんでもいいけど、この前日建の山梨さんが言ってたんだけど、設計会議をやると、まるで広告会社のように、企画アイディアとか、コンセプトとか、ばっかり言う。構造も考え、設備も考え、ディテールも考え、建築的な提案にしろというんだ、ということだったけど、そういうことかな。コンバージョンということであれば、おっしゃるように耐震補強も考えないといけないし、設備の配管も考えないといけないし、同じですよね、建築の設計というのは。とにかくいろんなこと、複雑な要素をひとつにまとめるトレーニングとしては建築設計が一番いい。コミュニティ・アーキテクトというのは何も建築家じゃなくてもいいんだけど、建築家は向いているんです。コンサーヴァティブかもしれないけど、建築のトレーニングをきちっとすれば対応できると本気で思っているんです。
八束:建築計画学はコンテンツをつくる専門なんだけど、布野さんは今どちらかというとアジアにシフトしているから、アジアでこういう問題はどうなんでしょうか。日本は人口が減っているけど、アジアの発展途上国は増えている。そういう場合はどういうことが起こっているのか。僕の研究室からは殆どいなかったけれども、学科としては住宅産業に就職する学生は多かったんだけど、彼らには日本はこれから人口が減るんだから、もう需要は少ないよ、だからアジアとかアフリカに行かされるよ、きっとメーカーさんもどういうことは考えて要るんじゃないか、なんて話をしていたんですけど。実際はどうなのか、聞きたい。
布野:僕はアジアにシフトしているつもりは全くなくて、同じなんです。もうずっと学生たちには言ってきてるんですけど、これから君たちには3つの道があります。日本は少子高齢化が進行していくわけだから、新築建築は少なくなる。新築やりたければ、建築市場が活発なところ中国、インドに行きなさい。中国は皆行きましたね。ちょっと翳りが出てきてる。インドが開くでしょう。中国はアフリカを押えだしている。これが第1の道ですね。それと日本ではストック主体ですから、当然、メンテナンス、コンバージョン、リニューアルが仕事になる。そのためには、耐震診断、改修技術、設備更新などを徹底的に身につけること、これが第2ですね。そして、第3は、まちづくりです。地域社会のお世話をする、これがコミュニティ・アーキテクトの仕事ですね。
松村:布野先生がおっしゃっているのは、ややもすると下請け的な技術屋でもできるしごとになりかねない。私が考えたいのは、自分で手ごたえがある仕事、自分がやってる、できた、と感じられる仕事なんです。そのための技術、あるいは修練は、もしかすると建築学科でなくていい、かもしれない。
布野:だから武器は何か?ということなんだけど。建築は建築で、職人さんは職人さんで手ごたえをもって出来たと思える世界がある。しかし、そういう世界がなくなってきている状況にある。
八束:僕がさっきいったのは、建築は建築でしょ、と古典的な建築を敢えて良しという布野さんと、松村さんの企画だと言うことの中間で、その武器というか、松村さんのことばだと修練というか、どういう切り込みをしていくか、それを教えていく、ないし教えられるか、と言うことなんです。山梨さんが広告会社みたいな話ばっかりといったというのは、学生の課題でも同じなんですね。彼らはある意味ソフト志向なんですよ。けれども、それはムーディなソフトでね、「ALWAYS三丁目の夕日」みたいな。それにはリアリティも何も本当はない。僕は基本的には、布野さんの言うように、建築って本来はもののみならず概念とか人の組織とかもアセンブリーするいい立場にいるとは思うけど、それが出来ていないようなら、松村さんが言われるように建築学科でなくともいい、となるかもしれない。
松村:布野先生の話で出ていなくて大きいのは不動産ですね。従来は互いに敬遠していたせいか、あまりにも業態が違ったせいか、工務店と不動産屋さんはあんまり話があわない。
布野:僕も不動産には縁がないというか、弱いんだけど、久米まりさんというのは不動産に強いんですか。
松村:いや彼女の場合は、DIYによる生活の質の向上ということで、それをサポートするということです。R不動産のTOOL BOXも同じような発想です。
布野:部品とか建材の供給ということでは、石山さんは初期にやってたよね。ダイレクト・ディーリング方式という。
松村:石山さんは表現としてやるわけだけど、サポートするわけです。
布野:でも、システムとしては同じなんじゃないですか。個々の居住者が自己表現するわけですから。
松村:この分野を先端でやってる人は石山スクールが多いんですけどね。ただ、不動産という発想はなかったですよね。瞬間的にバブリーにやるというんじゃなくて、地域を持続的に支えていく不動産のビジネスモデルがある筈ということなんですよね。
八束:大高正人さんや藤本昌也さんが人工土地の方法を啓蒙しようとしていた頃に、それを建築的手法や技術の開発をするだけではなくて、不動産として法的根拠を獲得するまでやらなくてダメだといわれるんですね。それで『ジュリスト』かなんかにも記事を載せていましたね。
松村:布野さんのいらした東洋大学でかつて不動産学科をつくろうとしたけれど。
布野:できなかったんです。名前が悪いと猛反対。リアル・エステート学科でどうだ、と言ったんだけど、わけがわからない、という。ただ、東大の建築学科の卒業生だって、建築教育と関係なく、景気がいいときには銀行行ったり、保険会社へ行ったり、したわけですよね。
松村:そうですけど、それを言い出すと議論にならない。大学では遊んでいればいいということになる。
布野:案外そうかもしれない。
八束:僕は自分の学生から不動産に行く学生が出始めた時に喜んだんですね。設計研究室だから従来はそういうのはいなかったんだけれども、都市の研究を始めてからは結構出てきたんです。シンクタンクとかも行かせたかったんですが、これはなかなか敷居が高かったみたいで。ある時に僕が修論の学外審査を頼まれた東大の設計研究室の学生に、その論文はデザインではなかったんで、何処に就職するのかと聞いたらマッキンゼーだというんですね。それは羨ましいといったの、芝浦クラスの大学だと残念だけどとってもらえないから。そしたら彼の元の指導教員があいつは建築を裏切ったと言うんだよね。意識の差を感じました。
布野:ただ、今日は、産業論になると思っていたんだけどね、建築教育の問題よりは。
八束:ここは学会だから。どんなテーマでも建築教育の問題になっていくと思う。
8.「飛騨高山木匠塾」として、岐阜県高根村で1991年夏に開始。1994年に「木匠塾」に改称、1995年に岐阜県加子母村(現中津川市)に拠点を移す。「川上村木匠塾」など広がりをみせ、「加子母木匠塾」という。東日本大震災の発災以降、番屋建設など復興支援を行う。『群居』47号(1999年3月)は「木匠塾」特集を組んでいる。
反面教師
布野:需要と供給があっていないという産業の編成が問題なんだけど、需要に従っていくんじゃないの。セルフ・リノベーションが方向なら、自然とそうなっていくんじゃないの。
松村:需要と供給という問題じゃなくて、今僕が問題にしているのは、身近な生活を見直した時に何が必要か、ということなんです。コミュニティ・アーキテクトという概念、理念があって、それに向けて指導するというんじゃなくて、建築という概念からは一度脱却しないといけない。誰でもできるよ、としてみる、何が必要なのかやってみてわかる、できないなあ、ではどうするか、どういう技術と修練が必要なのか、あらためて専門性が問われるということなんです。
八束:多分目指している方向性は松村さんと随分違いそうだけど、今言われたことには異議ない。
布野:言っていることに違和感はないですよ。誰もが建築家である、建築家でありうる、というのはずっと言ってきてますし、今度、京都大学のtraverse編集委員会の仲間たちで出した『建築学のすすめ』(昭和堂)も「全てが建築である」「誰もが建築家である」というのがキャッチコピーです。特権意識をもったアーキテクトは批判してきたつもりです。『裸の建築家―タウン・アーキテクト論序説』もそういう意識で書いた。
C.アレグザンダーの「パタン・ランゲージ」も建築を一般に開く方法ですよね。僕は卒論はC.アレグザンダーなんです。ただ、アレグザンダーのパターンは、かなり、西欧的というか、普遍的なものとして位置づけているのは注意した方がいいと思う。
八束:僕は、その点は少しアンヴィバレントです。熊本アートポリスで小さな公共ホールを住民参加でやったんです。結果は、住民の皆さんは満足だったし、僕も少しもいやではなかったけれども、九割方の作業はやはりアーキテクトがやらないといけない。住民は図面は読めないし、総合的な判断は難しい。部分、部分では議論するし、要求も出すんですが、基本はこちらの作業です。僕はホールの床は小規模なのでフラットにしたかったんですが、コーラスやっている指導者の方がどうしても勾配つけてくれというのでそういう風にしたし、太鼓をやるひとが 倉庫が欲しいということでつくったりしましたが、そういう部分、部分、場面、場面ではいいんですが、やはり職能としての建築家が必要だとは思う。だからと言って、作家でございます、私の作品ですというのだけでは通用しない。その役割はどんどん縮小しているという現実は見据えていかなくてはいけないということはその通りだと思う。
布野:カリスマDIY女子というのはどうなんですか。
八束:やはりタレントとしての動きだし、裏返しの作品主義ですよね。先日の山本理顕さんの出版記念会(『権力の空間 空間の権力』)で、伊東豊雄さんが、建築家の作品じゃないんだよ、というようなことを言ったら、山本理顕さんが不満そうだったけど、僕は、両方ともちょっと違う。
布野:「建築」がなんで「作品」がなんでということを言わないとわからないわけですが、僕は集団の作品ということでいいと思う。
松村:僕は、こういう議論はもう成立しないと思う。一般の人にとって、作品なんてわからないし、知らないわけでしょう。建築家が入ってくると「建築」だ「作品」だと言い出すわけで、それはもう無効なんです、というところから出発しないといけない。
八束:だけど、誰かまとめていく役割がいるでしょ。ボトムアップで全部できるかというと違うだろうと思うし。
松村:そこがポイント。不動産の取引に強い専門家もいるし、図面の読める奴もいる。全体を動かしていくときに、一体どんな専門機能がいるのかということになる。なにか組立てのようなものが要る。
八束:ある種マスタープランに替わるようなものが要るんでしょうね。
布野:その議論は、アドヴォケーターが要る、イネイブラーが要る、コーディネーターが要るという流れになっていくんじゃないですか。その作品というかどうかは別として、というか、だから、集団的な作品というんだけど。
松村:いろんなイメージがあって、小さな広告代理店が要るんじゃないかとか、各町に。電通とか博報堂じゃなくてね。結局、建築教育というのは、建築士という資格制度に縛られているわけで、それで業務独占しているということがあるから、なかなか手放さないし、手放せないんですね。持っていながら、何ができるかということですね。仕事は減っていくわけですから。
八束:その通りなんだけど、学生に設計課題を出すと、広告代理店みたいなことをいうんですよね。ここでいう広告代理店とは似て非なる話なんですが、口当たりのいいことしか言わない。コミュニティ、コミュニティというんだけど、君たち実体験として老人のこととかほんとにわかってんのというと、相当怪しい。人生経験がないということかもしれませんが。頭出しでどうやるか、というのも相当難しい。
それともうひとつ、松村さんに質問ですが、初期のフラーやイームズ、プル―ヴェを研究されていた頃は、媒介していたのは技術あるいはそのシステムでしょう。必ずしも狭い意味でのデザインではなくて。だから彼らの仕事は、英語で言えばworkだけれども、作品というと違和感が残る。モニュメントメーカーではなかった。レイナー・バンハム流にいうと、彼らは「第二機械時代」の旗手だったわけで。その意義みたいなものは「箱から地域」へというパラダイム変換で失われてしまうのでしょうか?僕が先ほどデザイン工学部みたいな話をした時にイメージにあったのはブルース・マウというブックデザイナーでありライターでもある人がカナダでフラー主義者たちとやった“Massive Change”という展覧会のカタログなんです。そこでは「この本はデザインの世界についてではなく世界のデザインについてである」と書いてあって、都市から交通、軍事から金融までの世界の変革しつつある様々なテクノロジーのことを書いている。素晴らしい本で、僕はこれぞ拡大された建築生産というか世界の生産の問題を論じている本だと思いました。
もうちょっと卑近なレヴェルにおろすと、僕も建築士の資格に縛られた教育はナンセンスだと言うのにも100%共感するのだけれども、松村さんのような形で企画とかソフトと言ってしまうと、さきほど提起したみたいに産業レヴェルというか大きな構造には行かないような気がするのですよ。各町に小さな代理店が要るとおっしゃるけれども、タウン誌レヴェルの知恵ではどうにもならないこともあるでしょうし、「箱から地域」へというと規模が広がったように聞こえるけれども、箱はそこに技術やシステムのパラダイムを変換すると大きなスケールに広がり得ますよね、フラーなんかが考えたのはそれでしょうし。けれども、手作り的な地域と言うのは、結局ひとつひとつの実践の良否に依存していくとしたら、そう広がりを確保出来ないのではないかと思うのですけれども。
松村:例えば3Dプリンターのような技術。それはフラーたちが技術を構想した時代にはなかったもので、普通のプリンターも或いはパソコンもそうですが、今は圧倒的にパーソナル化している。個人による情報の生産と発信もそうです。フラーの時代なら大映画監督による国民的映画が一方向で流されただけだけど、今や一般の方々がどんどん情報生産して発信している。職人技能を評価するような目で見た時には、その程度の素人仕事で良いのかという感じもあるでしょうが、僕はある種生産技術の民主化とも言える現代の状況に相応しいシゴトのあり方を考えたいと思っているのです。それは20世紀的な意味での「産業」ではないかもしれません。関連して、先の山本理顕さんの話で思い出しましたが、ハンナ・アレントの人間の活動の3類型で言えば、「Labor(労働)」ではもちろんなくて「Work(作品)」でもなく「Action(活動)」を主な対象として考える時代かなと思っています。
布野:「建築」「建築家」「作品」といった概念とそれを支える思考の枠組みが問題ということで終始してきたような気もしますが、若い世代の感想を聞いてみましょうか。003号に中国の建築事情を書いてくれた市川浩司さんがいらっしゃっているんですが、どうですか。
市川:東京芸術大学で助手をしている市川と申します。松村先生のお話を聞いて、非常に共感する部分がありました。場の産業、ストックの時代、コミュニティ・アーキテクトといったことは、おそらくいまの若い世代の建築家が広く共有するコンテクストだろうと思います。浜松で活躍されている403architecture[dajiba]や東京の木造アパートの改修に注目するモクチン企画(連勇太朗)などは、そうしたコンテクストを拾う建築家として、今とても注目されていますね。ですから、歴史観として、松村先生のお話は非常に理解できました。「建築家の再定義が必要である」というようなお話をされていたと思いますが、実際にはもう未来や可能性の話ではなく、すでに現在実践されていることがらでもあって、着実に再定義は進んでいるのだと思います。ただ、あまりに共感できてしまったので、逆に若干の違和感というのもあったりします。「建築を学ぶ」というとき、マスを占める産業やコミュニティなどと離れて存在することも必要じゃないかと思うのですね。「大文字の建築」とはいいませんが。現在注目される建築家の仕事というのは、旧来的にはあまり「建築」的なものとは言えないような広がりを持つようになってきています。そういう仕事に対してコンサバティブな批評を下すことも必要だと思いますし、若い人間としては、そういう批評を上の世代の先生方にこそ求めたい気持ちがあります。
八束:必要なのは反面教師ということね。
市川:そうですね。東大の先生にとても共感できることを言われてしまうとちょっとやりにくいとうか。
八束:敵なら敵らしくしてほしいと。ものわかりのいい敵は戦いにくいよということかな。
市川:そうですね。
八束:宇野さんどうですか。
住宅産業―最大の岐路
宇野:今の話の流れで話した方がいいかもしれませんが、せっかくだからタイトルもありますし、松村さんに質問したいと思います。日大の学生がプレファブつくってみようと思って、60年代の話ですけどね、企業を起こして、大企業になるわけですよね。言わば、ヴェンチャー企業が半世紀で大産業になるわけですね。日本しかないじゃないですか、住宅産業がこれほどになったのは。ガラパゴスのようになったんだけど、なんで日本だけ住宅産業が成立して巨大になっていったのか、そこが解明されていない。そこが分かれば次の手がうてるんじゃないか。
最近ショックを受けたのは、関西系で住宅をつくってきたゼネコンさんですね。マンション系で財を成した方が東京の一等地にものすごい邸宅を構えておられたんだけど、いつのまにか土地が分割されて、某プレファブメーカーがそこにプレファブ住宅を建てているんです。ちょっと前だと、建築家が手塩にかけた「作品」をつくったような土地なんだけど、そういうところにプレファブが建ち始めている。一方で中山間地で、限界集落のようなところでもプレファブ住宅が建つ。皆さんはプレファブメーカーの方が信頼できるということなんですね。それを需要と呼ぶかどうかは別として、われわれはそういう社会を作ってきたんですね。それを松村さんがどういう風にみているかというのが一つ目の質問。
2つ目は、ハウスメーカーというけど、実態はディベロッパーさんで、スーパーゼネコンを凌ぐ売上をあげる企業が出てきている。住宅地をつくって、学校つくったり、病院をつくったり、商業施設をつくって売る、ようするに街ごと売っているわけですよね。その方が 収益性が高い。そうしたディベロッパーはアジアにも展開しようとしている。それを松村さんがどう見ているかですね。
それと僕ならどうするかですが、既にやられてることではあるんですが、プレファブ住宅は老朽化もしているし、空家にもなっている、メーカーさんはそのデータを持っている、いわゆるビッグ・データですね。それを情報産業として扱う視点がない。せいぜい建替え需要のための営業に使っているようなことですよね。僕が経営者だったら情報産業として育てるというようなことを考えますね。そのあたりをどう考えているかですね。
松村:最初のなぜ日本独特の住宅産業が成立したかについては、大きく言うと経済成長ですね。積水ハウスにしても、大和ハウスにしても、パナホームにしても、初期の頃の人の話を聞くと、誰もこんな産業になるとは夢想だにしていなかったんですよ。5年ぐらい経ったらおぉーということになったんです。1963年には新築フローは60万戸強ですよ、それがオイルショック直前の1973年には190万戸ですよ。10年で3倍になった。とても既存の大工、工務店では対応出来なかった。こなせない需要があった。
布野:この対論シリーズの流れを考えて発言するんですが、すなわち、第2回の「マイホーム神話とコミュニティ幻想-建築と社会学の間」(ゲスト:山本理奈)(https://www.aij.or.jp/jpn/touron/4gou/tairon2.html)で議論した家族形態あるいは生活様式と空間の編成の問題を意識してるんですが、日本の社会のあり方、家族のあり方、生活様式が画一化されていったから、プレファブ住宅が成立したということはないですか。
松村:それはもちろんあるでしょうが、工務店のつくった木造住宅でも公団住宅でもマンションでも、あの時代のものならすべて同じようにそうでしょう。異なる視点で大野勝彦さんが言っていたのは、日本は大企業社会だ、ということですね。大企業の社員は大企業の商品を好む。だからこんなに売れる。それも一理ある。それと世界に通用しないモデルといわれるのは、注文住宅だということです、主力が。他の国の住宅産業は建売なんですね。だからディベロッパーなんです。注文住宅の場合、一戸ずつ注文をとってくる。そんなビジネスでこの巨大さは異常ですね。どういうひとたちがそれを担っているかというと営業なんです。僕は長らく大事なのは技術屋だと思っていたけど、営業の人たちの話を聞いていると、すごいんです、もうお客さんの人生のことを全部聞いてあげているんです。濃密な人生の物語を聞いてあげてるんです。でも、その情報は共有されていない。個人のノウハウに留まっているんですね。社内で何かになっていない、というのは問題だと思っています。
大和ハウスは10兆円企業を目指してるというんですね。そのなると、住宅に軸足を最早おいていられない。ユニクロもやってるし、洋服の青山さんもやっている。倉庫業もやれば、ホームセンターもやっている。その背景には土地を持っている人を押えているという事情がある。情報を持ってる。これは大和ハウスの例ですが、いままでみんな同じ住宅メーカーだったけれど、これからはそれぞれ持ち味に応じて方向が異なってくると思います。もう「住宅メーカー」という言葉では表現できない業界になるでしょう。
海外はどのメーカーもやっていますけど、なかなかうまくいかない。職人も施主も連れていけないからですね。ワンパッケージでできている産業なのに一部のシステムをもっていってもうまくいかない。客も含めたパッケージシステムなんです。客、職人、住宅メーカーがワンセットなんです。
布野:いや、そういう話になるのかなあ、と思っていたんです。宇野先生のいい質問でした。東日本大震災のあった年かな、海外在住の日本人、要するに商社マンとか、企業の海外駐在員向けの『カンパサ-ルKanpasar』という情報誌で大和ハウス工業の海外事業部の責任者の恵藤英郎と対談をしたことがあるんです9(写真⑨)。「住まいの輸出に答えなし 押しつけよりもアジアモデルを探れ」というタイトルになったから内容はそんなところですが、実際に話しになったのは難しさの方ですね。僕も中国に出ようとして失敗したこととか、インドネシアにベルギーだったかな、プレファブ工場建てて失敗したこととは知っていたから、理解はしたんですが、日本で建たなくなったんだから海外へ出て行くのは当然でしょう、というトーンでした。今の話を聞くと勉強不足でした。しかし、半年もたたないうちにテレビでヴェトナムで住宅売るCM派手にやるんでびっくりしたんですけどね。また、記事を読んでインドで住宅産業おこそうという建築家もやってきましたよ。
宇野:住宅産業は自動車産業をモデルにしてきたと思うんですよね。インドだとTataが安い適正技術の自動車をつくって強いですよね。日本からはスズキが出て行って同様のことをやっている。オーバースペックなんですよ日本の産業は、適正な技術でいけばやれるかもしれない。情報産業になるかもしれないし、新たな住宅メーカーになるのかもしれないし、ガラパゴス化しているから種はあるんじゃないか。その種を育てていく、新たな組み立てを試みて検証していくことを研究者はやるべきなんじゃないか。それがアーキテクチャーじゃないか。住宅メーカーが新しい方向を模索しているのだとすれば、その方向を構造として指し示すべきじゃないか。今日アイウォッチが発売されたわけですが、どれだけ売れるかわからないけど、当たれば莫大な動きに繋がるわけですから。そうすると、アーキテクトとか作品といったものも相対的に位置づけられていくんじゃないか。
八束:今の話の延長ですが、さっきの産業の規模の話、個々のタレントの数だけでは産業にはならない、タレントがあっちにもこっちにもいたらカリスマにならない、といったわけですが、産業を育成していくとすれば、産業のシステムを設計しないといけない。それを誰がやるかですね。昔は通産省がやったんですよね、車の話が出たけど。これはですから必ずしもボトムアップの話じゃないですよね。
布野:大野勝彦さんが生きていたら、そういうことを考え続けたんだと思いますけどね。
八束:フラーもね。
松村:今の話になりますが、大手住宅メーカーは給与ベースが高いんですよ。工務店の木造のほうがいいという議論がありますが、大手住宅メーカーと同じ程度の給与ベースではない。それでは、大手住宅メーカーは今後もこの水準を維持できますか、という問題がある。住宅産業はいま大きな岐路に立っているんです、どこも。一瞬成立したんですが、これからこの給与ベースで雇用を維持できますかというと「?」がつくでしょう。大和ハウスは、雇用を維持していくある経営判断をしたわけでしょうし、積水ハウスはまた別の経営判断をしている、ということなんです。ストック対応では、住友不動産は「新築そっくりさん」というのをやっていますし、積水ハウスリフォームとか皆さんいろいろやってるんです。結構な規模やっているんです。だからストック対応が産業になってないわけではないんです。しかし、ストックを対象にした場合には、まちに、暮らしと仕事の未来を埋め込むところまでやれるのになあ、そういう余地があるのになあ、ということなんです。そういうクリエイティビティがないと、建築学科出てリフォーム工事ばっかりやらされてたって面白くないでしょう、ということなんですよ。
9.住まいの輸出に答えなし 押しつけよりもアジアモデルを探れ,対談:布野修司vs恵藤英郎,NNA『カンパサ-ルKanpasar』,第3号,201104
(文責:布野修司)