書評002

「物化」された世界として建築を考える

山本理顕『権力の空間/空間の権力』(講談社、2015年)

市川紘司(東京藝術大学助手)

オイコスとポリスを緩衝する「無人地帯」

 本書はハンナ・アーレントに拠って書かれている。「拠って」と言い切ってよいほど、論拠の多くの部分をアーレントに委ねている。アーレントはハイデガーに師事したドイツ出身の政治哲学者であり、ナチスを逃れて亡命したアメリカに渡ったのち、『人間の条件』や『全体主義の起源』などを著した。アーレントの解説は書評者の手にあまるので、ここではその代表的著作であり本書でも中心的に言及される『人間の条件』が、人間の本性を古代ギリシアにまで遡行しながら問いただすものであった、という点だけを確認するにとどめる。ともかく、こうしたアーレントが本論全体の立脚点であり、実際にその著作からの引用や参照が本書には散りばめられている。
 基本的な情報を確認しておこう。本書は、建築家の山本理顕が2014年に岩波書店刊行の雑誌『思想』上で連載した「個人と国家の〈間〉を設計せよ」をまとめた書籍である。さらにさかのぼると、内容の下敷きは、山本が横浜国立大学Y-GSAを退官する最後の2年間に断続的に書いたスタジオブログであるという。山本が教育者としてのキャリアをしめくくる意識で、学生に自身の思想の根幹をつたえようと書かれたものだとすれば、説き伏せるような本書の特徴的な文体は納得がいく。
 さて、本論に入り、最初に出てくるキー概念もアーレントからの引用である。まず検討されるのが「私的なるものと公的なるものとの間にある一種の無人地帯」(p.14)である。これは具体的には、古代ギリシアの都市=ポリスの住宅の内側につくられた「アンドロン」と呼ばれる空間である。
 アンドロンは「食堂でありサロンであり議論をする場所」であり、その床は「小石が敷き詰められていて他の部屋よりも遥かに美しく仕上げられていた」という(p.18)。住宅は家族が暮らす親密なプライベート空間であり、公的領域である「ポリス」の対義語として「オイコス」の領域と言われた。アンドロンは「オイコス」のなかにありながら、むしろ「ポリス」的な性格をそなえる社交の空間であり、男性たちが議論をする場という点では、ポリスに設置された広場(アゴラ)のような存在であったと言えるだろう。
 アンドロンはプライベート領域に貫入されたポリス的領域と言えるが、その室自体はあくまでもオイコスとしての住宅に紐付けされていた。それゆえその存在の仕方は両義的である。住宅と都市、オイコスとポリスという二つの空間に属して存在しながら、と同時に、両空間を分け隔てる緩衝的領域として存在するのが、アンドロンであり、アーレンの言う「私的なるものと公的なるものとの間にある一種の無人地帯」であった。そして山本が読者や若い建築家に「設計せよ」と投げかける「個人と国家の〈間〉」のことである。
 しかし、この「私的なるものと公的なるものとの間にある一種の無人地帯」なる領域は、アーレントへの参照を待たずとも、山本自身が年来論じてきたものである。「閾(しきい)」である。東京大学原広司研究室は1970年代に世界各地の集落調査をおこなったが、山本は学生としてこれに参加し、多数の集落をおとずれた。そして地域を隔てた集落に共通して現れる「ふたつ以上の〈領域〉が互いに交わって並立することはない」という空間構成上の特徴に注目し、この構成を成立させる領域として「閾」なる存在を指摘した。その定義は「ふたつ以上の〈領域〉が同時に成立するとき、互いに干渉しないで、なお〈領域〉相互の接触を可能にするための装置」である(「領域試論」『SD別冊 住居集合論1』鹿島出版会、1974年)。各集落における「閾」の名称や形式はさまざまである。スペインでは「recibidor」、イラクでは「madhef」、ネパールやインドでは「ダルワザ」であった。日本の家では「座敷」がそれに相当するだろう。これらは、姿態は異なれども、住宅内部にありながらも来訪者を出迎える公的領域である点に変わりはない。アンドロン的領域=「閾」は古代ギリシアの都市−住宅だけでなく、世界各地の集落に等しく発見されるのである。
 山本はこの「閾」=「私的なるものと公的なるものとの間にある一種の無人地帯」を非常に重視する。それは家族という一つの共同体が、地域や都市や社会といったより大きな共同体の内部に属していることを端的に示す空間であるからだ。家族が孤立した存在ではなく「共同体内共同体」としてより大きな枠組みに属して存立すること、そのために住宅が「閾」的領域を備えること。こうしたことが、人間の生活にとって肝要であると山本は考える。そしてそれゆえに、現在広く見られる住宅がその外部コンテクスト(都市や地域)から分離して生産される状況に対して批判する。山本は現在の住宅と都市をめぐる問題をこのように指摘している。「住宅は私的空間である。都市は官僚制的に統治された公的空間である。そしてその私的空間と公的空間とは厳密に区画されている。その区画された両者は、相互に他の一方を排斥するように働くのである(…)私的空間の自由は公権力によって極めて注意深く“保護”されているのである。一方の私的空間の自由は公的空間には何の影響をも与えない」「こうした隔離されたような住宅に住むことで私たちは十分に満足なのだろうか。このように官僚制的に統治された都市空間に住むことは快適なのだろうか」(p.8)。
 人間が生活するうえでの自由、あるいは快適性は、本来は住宅内部で完結されるものではなく、住宅の外側にある都市や地域との関係のなかではじめて成立する。そのための不可欠な空間として古今東西に見られるのが、住宅内部に用意された「閾」であり、オイコス(私的領域)とポリス(公的領域)を緩衝する「無人地帯」であった。

近代住宅はなにを失敗したか

 山本は「閾」をもたない現在の住環境を批判するが、本書ではその起源にまでさかのぼる。1851年、ロンドンでは最初の万国博覧会が開催されたが、ここに労働者住宅のモデルハウスが出展された。このモデルハウスこそ「閾」なき近代住宅の起源と言うべきプロジェクトであった。このロンドン万博は、ジョセフ・パクストンの《クリスタル・パレス》が建設されたことでもよく知られている。ガラスとスチールという近代的な素材を大々的にもちいる近代建築のデザイン様式を予告した《クリスタル・パレス》と同じ時期・場所で、近代的な住宅の方向性もまた決定づけられたことになる。
 ロンドン万博の労働者住宅は建築家ヘンリー・ロバーツによって設計されたものだが、その設計提案上の特徴のうちで本論にとり重要となるのは、その提案の主たる部分を動線計画と平面計画に割く、機能主義的に考察された「標準的家族のための閉じたパッケージ」(p.64)であった点である。「労働者」という、クライアント=資本家とは一致しない「抽象化された人々」のための抽象的な住宅モデルであるため、具体的な使われ方や生活は想定されないし、立地する都市や地域も決められていない。それゆえ、そうした外部環境との緩衝領域である「閾」も当然、計画されない。「閾」の外見上の「現れ」は各集落の特徴ある情景をかたちづくる大事な要素であったが、「労働者」は「無教養」であるがゆえに地域ごとに異なるそうした「現れ」を気にする素質も有さないと判断されたわけである。
 イギリスにおける労働者住宅のプロトタイプは、フランスでも実現する。最初期の事例が《ミュルーズの労働者都市》である。《ミュルーズ》は1855年に第一次計画が実現したが、ここで労働者は家族ごとに住戸をひとつずつ割り当てられたものの、住戸内には「閾」は設置されず、家族間のコミュニケーションは不自由なものであった。
 労働者同士の関係が希薄化するこうした住環境は、偶然生まれたものではなく、計画者=産業資本家の明確な意図によってつくられていたと山本は指摘する。その背景にあったと考えられるのが、労働者による蜂起である1848年の「二月革命」に対する恐怖である。山本はこのように述べる。「二月革命を目の当たりにした産業資本家たちは建築空間のその政治性を見抜いたのである。労働者たちを集まらせてはならない。労働者たちが集まる空間を作ってはならない。労働者たちが共にいる時間を作ってはならない。それが労働者都市の住宅計画であった」(p.76)。
 ただ、19世紀半ばのフランスには、《ミュルーズ》とは対照的な、労働者を強固な共同生活のなかに組み込もうとするプロジェクトもあった。ルイ・ナポレオンによる労働者のための公共集合住宅《シテ・ナポレオン》(1851年)、あるいは社会主義的ユートピアを構想したシャルル・フーリエの影響を受けたジャン=バティスト・ゴダンの《ファミリステール》(1860-1871年)などがそれに当たる。これらには住民が集まって余暇を過ごすためのアトリウムや中庭が住戸に隣接してつくられており、労働者とその家族を「共同体内共同体」として存在させようと意図する空間構成が見られた。しかしその空間上の操作がむしろ「監視空間、社会主義的空間というレッテル」(p.92)を貼られてしまい、求心力を失ってしまったという。結果、主流になったのが、各労働者家族が積極的に社交することを阻害する、「閉じたパッケージ」として機能的・経済的に生産される「閾」なきモデルハウスであった。
 よく知られているとおり、近代という時代が進むにつれて、建築は都市との有機的で緊密なつながりを徐々に弱めていく。ル・コルビュジエのピロティ、ミース・ファン・デル・ローエの基壇。建築は、都市や地域という既存の社会組織体から距離をとり、ひとつの「オブジェクト」として自律していくことで、(古代ギリシアを含む)歴史的都市のなかで見られた「都市的創成物」の相貌を失った。「閾」を喪失し、都市の孤独者となった労働者のための住宅建築も同様の流れのなかにあったと言えるだろう。
 こうして形成された近代住宅の主流は現在にも延長される。本書第四章では、日本の都営住宅における基本設計料(の異常な低水準)をめぐる問題をとおして、住宅の定型化・標準化が批判的に論じられる。標準化された計画にもとづき、なかば「大量生産」される住宅には、建築とその外部領域(都市・地域)を緩衝する「閾」が備わるはずはない。住宅は地域から遊離し、住民は確固たる根をもたない「抽象的な存在」となり、その個性が剥ぎ取られてしまう。ロンドン万博のモデルハウスから都営住宅まで、山本にとって問題の根幹は同一であり、すなわち「標準化」なのである。「標準化は20世紀の建築の最大の特徴であった(…)建築を用途によって類型化し、それを標準化することは国民の標準化(規律・訓練)が目的だったのである」(p.165)。「閾」をもたない標準化された住宅により、生活者は外部環境との交流の契機を失い、それによって人間自身も標準化された「抽象的な存在」に成り下がってしまう、というのである。

社会の「物化」としての建築

 冒頭で述べたとおり、本書はアーレントに徹底的に寄り添って書かれている。しかし、「私的なるものと公的なるものとの間にある一種の無人地帯」という本書のキー概念が「閾」に置換可能であるように、山本はただアーレントの概念を持ち出し、そこから演繹的に建築論を展開したわけではない。「閾」は、山本が原研究室時代におこなった世界各地の集落調査をとおして、異なる気候風土に共通して見られる建築空間(とその現れ)として、帰納的にみちびかれた領域概念であった。そしてそれは、その後の山本自身による建築設計業のなかで実験され、デベロップされていったものでもあろう。アーレントの存在は、あくまでも山本の建築家としての歩みを再構成するフレームであり、その考えを古代ギリシアまで遡行させる思想的補助線であると理解したほうがよい。
 「私的なるものと公的なるものとの間にある一種の無人地帯」とならんで本書中の重要概念となるのが「物化」であるが、これもまた、山本の建築家としての思想ともともと強く共鳴するものであった。
 「物化」とはなにか。活動や言論や思考といった具体的な形状を持たないことがらが、なんらかの現実的な「現れ」を有すること。それがアーレントの言う「物化」だという。この観点からすれば、建築は、それが社会生活上不可欠な存在であるがゆえ、社会的な制度や考えかたの「物化」にかならず参与していると想定されるだろう。山本はこのように述べている。「社会的要請に従って建築があるわけではない。社会的要請が建築として実現することによって、いかにもそれが社会的要請であるかのように見えるのである。建築として実現される(されてしまう)ことによって、いかにもその要請(命令)に客観性があるかのように見えるのである」(p.10)。だからこそ、建築家は建築のそうした権力性を自覚し、「社会の要請(命令)によって私的に消費されるような建築」(p.143)を垂れ流してはならないと警告するのだが、このような山本の考えもまた本書ではじめて表明されたものではない。現実の家族形態にふさわしい住宅平面のダイアグラムを検討した『住居論』(住まいの図書館出版局、1993年)や、外部と完全に隔絶した中央広場を設置することで各住戸がコミュニティへの積極的な参加をうながす集合住宅《熊本県営保田窪第一団地》(1991年)にすでに表明されていた考えかたである。「家族の住むところが住宅なのではなく、住宅に住んでいる集団を家族と呼ぶ」ように思考する山本を、社会学者の上野千鶴子は「空間帝国主義」と批判的に称したことがある(鈴木成文+上野千鶴子+山本理顕『「51C」家族を容れるハコの戦後と現在』平凡社p.49)。
 本書第五章で論じられる「地域社会圏」構想には、社会を「物化」する存在として建築をとらえる「空間帝国主義」的思想が端的に反映されている。この構想では、いきいきとした地域社会を構築するために、コミュニティとの緩衝領域である「閾」を持った開放的な住宅を設計するところから、自前のインフラや住民の相互扶助をベースにした生活保障システムを持つことまでを提案している。それは建築空間の構想であると同時に、高度な自治を保持する新たな地域社会の構想でもある。「地域社会圏」は「「地域ごとの権力」を保持するための空間である」(p.244)と山本は述べる。ロンドン万博に示された住宅モデルから都営住宅にいたるまでの「閉じたパッケージ」が不自由な社会生活像を「物化」しているのだとすれば、その抵抗のための構想が「地域社会圏」である。

建築空間の権力論

 率直に言って、本書はなかなか取っ付きにくい本ではある。細切れにされた一文一文に、読者を説き伏せようとする迫真の文調。そして、アーレントを絶対的なバックボーンとして展開される論理。最近の建築書がもつキャラクターとは遠く離れた「硬い」印象のある本である。しかしながら、本書の論点は現在においてきわめて重要と言うべきものである。建築を設計することとは、ただ空間を美しく快適にデザインするばかりではない。むしろ、生活や利用の仕方を規定し、それによって人の行動や思想を方向づける行為である。建築は、人間の社会生活上必要不可欠であるため、おのずから政治的な存在である。本書はそうした建築空間が根源的に有する政治・権力性をアーレントを参照しながら論じた。
 どのような建築がいま社会や地域から求められているのか。2011年の東日本大震災以後、こうした「建築の社会性」なる問題が議論の俎上にのぼることが増えたが、建築を社会との関係で考えるという、その考えかたそのものは、そもそも「建築」が「社会」の外側にあることを前提としている。山本の考えは、その両者を「物化」という概念により、そもそも緊密に連動する存在として見立てるものであった。
 社会や地域から求められる建築を提供することが「建築の社会性」を恢復する、という甘い期待は山本の議論にはない。社会そのものに大きな変革をもたらす、ある種の啓蒙や教育を実行する社会的装置としての建築の側面がここでは強調されている。飯島洋一は『「らしい建築」批判』(青土社、2015年)のなかで、モダニズム運動のなかに見られた建築の社会に対する革命的・政治的働きかけを肯定的に描いたが、山本の思想はまさにそうした近代的なスタンスを継承するものと言えるだろう。
 建築は生活者や利用者の内面の在りかたを規定したり、内面にコミットせずとも物理的にアクティビティを制限し、特定の方向に方向づけることも可能だ。建築は「規律訓練」と「環境管理」という、二種類の権力にくみすることが可能な社会的装置である。そしてだからこそ、建築家はより人間生活にふさわしい建築のプログラムやダイアグラムを構想しようと目指すわけである。建築がもつ暴力性と可能性は裏表の関係にある。

 山本は「社会の要請(命令)によって私的に消費されるような建築」ではなく「世界に貢献するような建築」(p.143)をこそ建築家は目指す必要があると述べる。ここで対比される「社会」と「世界」とは、アーレントの用語を参照して用いられたものであり、前者が「私的利益のための空間」であるのに対して、後者は「そこに住む人たちによって共有される空間」とされる。建築そのものが社会の「物化」された存在であるから、その設計行為には本質的に大きな責任、あるいは暴力的性格がともなう。それゆえ、山本は建築家に、特定の権力・権益に寄り添わない自律した「専門家」としての正当な判断を求めるのだ。

市川紘司(いちかわ・こうじ)

1985年東京都生まれ。中国近現代建築史。2013-2015年中国政府奨学生(高級進修生)として清華大学建築学院に留学。現在、東京藝術大学美術学部建築科教育研究助手、東北大学大学院工学研究科都市建築学専攻博士後期課程。編著書に『中国当代建築——北京オリンピック、上海万博以後』(フリックスタジオ)など。