社会性をもって語られることの多い403architecture[dajiba]について、物を見て評せ、というのが今回の依頼である。建築評価のあり方は、その受容の様式によって限定される。とくにプライベートな建物は、施主の厚意で拝見するものなので、その限定は強い。多くは実見することがかなわぬのだから、それらは体験を欠いた「作品」として誌面で受容されるのが専らである。併せて設計者はコンセプトについて述べるが、作品性の理解に長いコンテクストの説明が必要だとすれば、建築以外の分野で「作品」として流通しているものと比較して、建築作品の有り様はやはり特異である。これが「プロジェクト」だと言われれば、なるほど事業の説明かと合点もゆくのだが、それに付き合う忍耐はすでに強い関心の傾きの持ち主に限られるだろう。
というわけで実際に浜松を訪れる前には、やはり誌面に目を通す。403architecture[dajiba]の活動については、「マテリアルの流動」というキーワードが知られる。「流動」の語が喚起するイメージは、「流通」に対して本来はるかに豊かだ。しかしながら ―― と誌面から抱いた率直な疑問は ―― 果たして「流動」の語を与えられた事態はどこまで具体的なのか、あるいはレトリックなのか。約言すれば、彼らの取り組みは、アドホックな=一回きりの古材の転用といかなる点で異なるのか。
実際に、今回、いくつかのプロジェクトを訪問しながら、参加者たちから出た様々な質問の底に共通して響いていたのは、それが設計者の仕事として、持続的に成立しうるものなのか、という疑問であったように思う。材料の取得はどのように行われたのか、それらを一時ストックし、加工する場は確保されているのか、DIY的な作業において、その作業量・時間は工費にどの程度反映されているのか、等々。ごく素朴な疑問である。
たとえば天井野縁を床材へと転用した《渥美の床》(写真1)では、そのために刻まれて床に敷き詰められた木材が、その後どこかに流動していくようにも思えない。その踏み心地はたしかにとても心地よいのだが、その表面をサンダーで均す作業には、どれだけの作業を要したのか、等々。
そうした諸々の問いへの応答として座談会のなかで辻氏は、「コンテクスト」という言葉に、プロジェクトの様々な諸条件を織り込んでいく。設計に際する「与条件」といえば、それはプロジェクト毎の一回性のニュアンスを帯びるが、汎コンテクスト主義ともいうべき氏の態度には、設計の前提となる諸々の要因との継続的な関係性にコミットしていく姿勢がある。流動という言葉も、文脈という言葉も、持続を示唆する。とはいえ、すべてはコンテクストであるとするのも、コンテクストとはそもそも何なのかをわからなくする。前述の様々な質問も、色々なコンテクストを下支えする仕組みはどのようなものか、という問いに他ならないし、作品性とは、その生い立ちから離れても成立しうるものに他ならないからだ。いくつものコンテクストがその上に併存し交錯することを許す下部構造(制度、インフラ)と、それらのコンテクストから具体化される上部構造(作品)との関係がどのように作品化されているかに関心がある。
まずは古材の移動と転用に係る「マテリアルの流動」に対して、それらフローはどこに留まり姿を変えるのかというストックの場が常に問題になる。当然のことながら、マテリアルはそこらへんに漂っているものではない。現場に解体・未解体の状態で残されているか、解体され別所の倉庫・資材置き場に保管されているかだ。それらを加工する場所も必要になる。
403architecture[dajiba]にとってそのような場のひとつとなったのが、三展ビルと同じ東海道沿いにある立体駐車場万年橋パークビル8階のフリースペースhachikaiである(写真2)。駐車場としての利用率も高くないため所有者の厚意によって利活用に供されているスペースだそうで、奥には小劇場が設営され、劇団が練習を行い、なぜか囲炉裏があり、傍らには資材が積まれ、大工仕事が行われている。この場そのものがコラージュ的な、異質なコンテクストの同時併存を許す不思議な空間だ。《三展の格子》の制作が行われたのは、このガレージである。ガレージ・ロックのような403architecture[dajiba]の雰囲気に実に合う。
今回見学することができた403architecture[dajiba]の仕事は、いずれもこのような償却を果たした鉄筋コンクリート造のビルの一隅に立つ。鍵屋ビルも三展ビルも、いわゆる共同建築。渥美ビルは一階部分を店舗とし、上階はマンション。いずれも鉄筋コンクリート構造である。こうしたビルのリノベーションそのものに新規性があるわけではないのだが、彼らはまずは内装を剥ぎ塗装を削って、これらのコンクリートのスケルトンを露わにした上で、相対的に独立した木造のインフィルを設置する。既存構造物(スケルトン、あるいはハブラーケンのいうサポート)とインフィルとの距離感において、いわゆるリノヴェーションとは異なる感性をみせる。《三展の格子》から、《三展の天井》、《鍵屋の階段》に至るまで、基本的には既存のコンクリート梁の構造体に荷重を預ける形で吊られている。《三展の天井》(写真3)はコンクリート・スラブに金属製のフレームを組み吊り、その下に木製の格子天井を組み上げ、壁とも切り離す。《鍵屋の階段》(写真4)では、既存の梁にもたせることで吊り下げられた上部構造と、床から立ち上がる下部構造とのあいだに切断がある。このような構造的な依存と形態的な分離とともに、既存躯体のコンクリートと、インフィルの木材との対比による異化作用ももたらされる。そして、もはや古材にもこだわっているわけでもない。
とはいえ、正直に今回の個人的体験を吟味するなら、作品として充実していたのは《渥美の床》であった。個室という隔絶したフレーム。同室内での天井から床への移動。水平に横たわっていた材を刻んで垂直に置き直して敷き詰められた床―― 材の切断もこの部屋で行われたのだろうか。そして足の裏に伝わる触覚性。一室ながら完結した(という評価軸はもはや反動的だろうか)、ひとつの世界を形成しているように思えた。
いずれにせよ彼らが提示したイメージとしての「流動」は、既存の構造のあいだに漂う。であるなら次の関心は、いずれ彼らが新築で建設するときの、スケルトン/サポートとインフィルとの関係性に、これまでの仕事からの展開がどのように織り込まれていくのかに移っていく。さらには、これまでの仕事では、都市構造的なコンテクストは、あらかじめこれらのスケルトン/サポートが受け止めていた。つまり、それらの作品性は、あらかじめ鉄筋コンクリートの柱梁という可視化されたフレームの存在に文字通り依拠していた。とすると、彼らが構造の建設へと向うときに提示する構造にはどのような形式が選択され(とはいえ予算に左右されるが)、内部空間の設えとどのような距離・対比を構成するのだろうか。そして都市構造に対してどのような構えをもつのだろうか。
戸田 穣(とだ・じょう)
1976年大阪府生まれ。金沢工業大学専任講師。東京大学教養学部教養学科卒業、同大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了。博士(工学)。建築史。共著にBibliotheques d'architecture、訳書にクロード・パラン『斜めにのびる建築』ほか。