建築討論

新宿・渋谷・池袋の再開発のいま

石榑督和 (明治大学理工学部助教)

 2013年9月東京オリンピックの開催が決定して以降、急激に東京の再開発・開発が加速している。鉄道インフラの整備が進み成田・羽田両空港からのアクセスが飛躍的に向上する大手町・丸の内・有楽町、駅周辺の再開発や区役所・公会堂の建て替えが進む渋谷・池袋、オリンピックの新設会場が集中しマンション開発が進む湾岸地区、山手線新駅の設置やリニア中央新幹線の起点となる品川周辺など、東京は劇的に変化しつつある。
 本稿はそのなかでも、新宿・渋谷・池袋といった鉄道ターミナルを中心としたエリアの再開発のいまを捉えることを目的とするが、まずは現在の東京の再開発・開発を概観することで、新宿・渋谷・池袋の再開発の特徴を確認したい。

1.東京の再開発のいま その駆動力

 現在の東京の再開発・開発の駆動力となっているのは、東京五輪の開催決定で急速に動き始めた鉄道の新設を中心とした交通インフラの整備と、容積率を割り増しする規制緩和である。
 鉄道新設の代表的なものとしては、先日開通した上野東京ライン(東北縦貫線)がJR線の上野よりも北側を走る常磐線など3線を東京駅・品川駅を経由し、東海道線の横浜方面へと接続したこと、京急と京成の両電鉄を介して羽田空港と成田空港を1時間弱で結ぶことになる都心直結線(浅草線短絡新線)の整備事業がある。こうした鉄道網の整備により、羽田・成田両空港からのアクセスが飛躍的に向上する東京駅周辺の大手町・丸の内・有楽町や品川駅周辺では、ますます超高層オフィス開発が進むものと考えられる。
 他方、道路の整備も進んでいる。昨年オープンした虎ノ門ヒルズの下層を通り、新橋まで延伸された環状2号線は、五輪までに選手村や競技場が建設されることとなる湾岸部を通り豊洲まで延伸されることになっている。すでに湾岸部では超高層マンションの開発が相次いでおり、1980年代からの都の懸案であった湾岸地域の開発が五輪開催決定と環状2号線の延伸、さらに築地市場の豊洲移転などを契機として急激に進展する。
 こうした地域の再開発・開発は、交通インフラの整備だけではなく、2002年に施行された都市再生特別措置法に基づく特定都市再生緊急整備地域に指定されていることで、さらに後押しされている。特定都市再生緊急整備地域の特徴は、土地利用規制の緩和に加え、事業者が都市計画を提案できる点にあり、東京では約1,990haを一帯的に指定した東京都心・臨海地域、新宿駅周辺地域(約220ha)、渋谷駅周辺地域(約140ha)、新駅とその周辺の開発が進む品川駅・田町駅周辺地域(約180ha)の4区域が指定されている。こうした地域を中心に、都や国は五輪開催を経済の活性化に役立て、交通インフラの整備と規制緩和を用意し、海外からの投資を呼び込むことで東京を改造し、グローバルな都市間競争において確固たる位置を確立する戦略をたてている。

2.鉄道ターミナルの周辺の再々開発 新宿・渋谷・池袋

 特定都市再生緊急整備地域のうち、東京都心・臨海地域と品川駅・田町駅周辺地域は新しい交通インフラの計画に関連して再開発・開発が進んでいるとすれば、新宿駅周辺地域や渋谷駅周辺地域は戦後に再開発された地域が、半世紀を経て再々開発の対象となっていると捉えることができるだろう。
 歴史的にみれば、戦前の東京市が、政策的に私鉄が都心部へアクセスすることを認めなかったため、西側の郊外に向かって敷設された私鉄各線は「万里の長城」とも呼ばれた山手線の沿線駅を起点とすることになった。現在の東京の都市構造は鉄道ネットワークによって成立しているが、現在も山手線の内側は東京都と国家資本による地下鉄ネットワークによって支えられている。私鉄が山手線沿線の駅をターミナルとしたことで、山手線沿線の駅は国鉄(現JR)、市電、私鉄、その他の交通の結節点となり、駅近傍は東京の都市の核として成長を始めた。新宿、渋谷、大塚、池袋、目黒、五反田といった地区である。
 このなかでも、新宿・渋谷・池袋は、終戦直後からの闇市の成立と、1950年代から60年代にかけての再開発を契機として、現在の副都心と呼ばれる機能を備えるようになった地域である。戦後に焼け残った郊外の後背地が爆発的に成長したことも、新宿・渋谷・池袋の都市化が急激に進んだ大きな要因となっている。
 現在、これら3カ所の駅周辺で計画・事業化されている再開発事業の多くは、戦後復興期から前回のオリンピックまでに再開発されたものの再々開発であると考えてよい。現在の東京においても、新宿・渋谷・池袋は交通上極めて重要な位置を占めていおり、近年の再開発は交通インフラの整備ではなく、規制緩和によって後押しされていると言ってよいだろう。新宿駅周辺と渋谷駅周辺は、既に特定都市再生緊急整備地域に指定されており、池袋駅周辺は現在、都市再生緊急整備地域の指定に向けた取り組みを進めている。
 それでは、これら3つのエリアの主要再開発計画をエリアごとにみていくとともに、それぞれのエリアの戦後の形成過程との関係をみていきたい。


3.新宿の再開発のいま[図1]

図1 新宿駅周辺。図はGoogle earthの建物3D表示より。筆者加筆。
図1:新宿駅周辺。図はGoogle earthの建物3D表示より。筆者加筆。

コマ劇跡地の再開発が間もなくオープン 歌舞伎町

 
図2-1:新宿通りの南側から新宿東宝ビルを見る。筆者撮影。 図2-2:新宿東宝ビル。筆者撮影。
図2-1:新宿通りの南側から新宿東宝ビルを見る。筆者撮影。 図2-2:新宿東宝ビル。筆者撮影。
2015年4月、歌舞伎町のコマ劇跡地に、藤田観光のホテルグレイスリーと東宝の映画館が入る「新宿東宝ビル[図2-1・2-2]」がオープンする。地上31階地下1階建てで、高さ130m、延床面積は55,390㎡のビルである。業績悪化と建物の老朽化を理由に、2008年に閉館した新宿コマ劇場と新宿東宝会館の再開発である。
 歌舞伎町は、戦災で焼け野原になったことを契機に、戦後の戦災復興土地区画整理事業によってできたまちである。当時、地元の町会長であった鈴木喜兵衛と、都市計画家石川栄耀を中心に計画され、1950年代半ばまでに現在までの基盤が整備された。当初、計画された歌舞伎劇場は実現しなかったが、まちの名前として残り、後にコマ劇場が建設された。
 新宿東宝ビルのオープンに合わせて、新宿区では新宿通りから同ビルへとつづくセントラルロードの整備工事を行っている[図3-1・3-2]。道路の舗装を直し、両側の歩道を6mから6.25mに広げ、並木を低木に植え替えて、歌舞伎町商店街振興組合による街灯も設置される。戦後に鈴木や石川によって「道義的繁華街」としてつくられた歌舞伎町は、高度成長期以降の治安悪化と、2000年代以降の衰退を経て、新宿東宝ビルのオープンを契機に、今後建物の更新が進む。
 歌舞伎町では、国内最大規模の映画館である新宿ミラノも2014年末で閉館した[図4]。外国人観光客を呼び込むためのリムジンバスの停留所などの開発を望む声もあるが、跡地開発は現在白紙であるという。新宿ミラノが面する旧コマ劇場西側のシネシティ広場の整備も、新宿区によって2015年度から開始される。歌舞伎町として戦後つくられた広場や街路など基盤には大きく手を入れず、補修し、建物の再開発を進めている。
図3-1:整備中の歌舞伎町セントラルロード。筆者撮影 図3-2:整備中の新宿東宝ビル前の街路。筆者撮影。 図4 閉館した新宿ミラノ。手前はシネシティ広場。筆者撮影。
図3-1:整備中の歌舞伎町セントラルロード。筆者撮影。
図3-2:整備中の新宿東宝ビル前の街路。筆者撮影。
図4:閉館した新宿ミラノ。手前はシネシティ広場。筆者撮影。


線路上空に交通ターミナル 新南口

 新宿駅周辺では新宿東宝ビルにつづいて、南口に2016年春に新宿駅新南口ビル(仮称)と交通ターミナルが完成予定である[図5・6]。交通ターミナルは甲州街道沿いに位置し、JRの線路上空に約1.47haの人工地盤を構築することで整備し、鉄道と高速バス、タクシーなどの連携をスムーズにするための都市インフラとなる。地上33階地下2階建ての新宿駅新南口ビル(仮称)は、これに隣接して建設中である。
 これを契機として、高島屋の南側に位置する「千駄ヶ谷5丁目地区」の再開発事業が加速している。千駄ヶ谷5丁目地区内北西部では、日清製粉が所有する本社ビルと三菱地所が所有する9階建ての日本ブランズウィックビル、10階建ての新宿パークビルの3棟を1棟に建替え、2018年の完成を目指し16階建てのオフィス・店舗・公共施設を含むビルを建設する。再開発ビルの下層部には帰宅困難者の受入れスペースを設ける予定。また、この再開発ビルに隣接する農林中金家の光協会ビルは2016年8月末の完成をめざし、2014年4月から建て替え工事に入った(建て替え後は12階建て)。
 この両再開発ビルの間には、約2,200㎡の広場が新設され、さらに新宿駅から高島屋までつづいていたペディストリアンデッキを延伸し、広場へ繋ぐとともに明治通りへも繋げる。これらの南口開発にあわせて高島屋も大規模リニューアルを進める。こうした開発が進むことで、新宿の商業エリアがより南側へと拡大すると考えられる。
図5:手前が交通ターミナル、奥が新宿新南口ビル(仮称)。筆者撮影。 国土交通省関東地方整備局東京国道事務所ホームページより(http://www.ktr.mlit.go.jp/toukoku/saisei/shinjuku/shinjuku.htm)
図5:手前が交通ターミナル、奥が新宿新南口ビル(仮称)。筆者撮影。 図6:交通ターミナル。国土交通省関東地方整備局東京国道事務所ホームページより
http://www.ktr.mlit.go.jp/toukoku/saisei/shinjuku/shinjuku.htm)。


小田急とヨドバシカメラの開発が進む西口広場周辺

図7:新宿駅西口のスバルビルとMY新宿第二ビル。筆者撮影。
図7:新宿駅西口のスバルビルとMY新宿第二ビル。筆者撮影。
図8:新宿駅西口の小田急百貨店と小田急ハルク。筆者撮影。
図8:新宿駅西口の小田急百貨店と小田急ハルク。筆者撮影。
 新宿駅西口ではヨドバシカメラが2010年にMY新宿第二ビルを、小田急が2011年にスバルビルを取得し、大規模な再開発の準備を進めている[図7]。
 ヨドバシカメラの新宿西口本店は現在、拠点が10カ所以上に分散しているが、MY新宿第二ビルの建て替えを皮切りに、マルチメディア館を中心としたエリア一帯の再開発に臨む計画がある。
 また、小田急は新宿駅東西自由通路(JR新宿駅地下1階の北通路を拡幅して、改札を通ること無く東西の行き来を可能にする。幅員約25m、延長100m。2020年開通予定。)の開通を契機に、西口の大規模な更新を目論んでいるとされ、『新宿新聞』(第1930号)によれば、小田急は「区などの行政機関、西口に拠点を置く他事業者との協議のもと、駅前の広場整備とともに、ビルの開発計画をまとめ」、「周辺エリアを巻き込む形で新宿スバルビル、小田急ハルク、小田急百貨店を、順次、高層ビルへと建て替え、下層を商業施設、上層をオフィスとする」計画があるという[図8]。
 戦前の新宿の都市としての重心は、新宿追分(現在の伊勢丹付近)あたりであり、駅よりも東側にあったと言ってよい。それが、1950年代後半から、戦後に発生した闇市を小田急が整理し駅ビルや駅前広場を整備、さらに淀橋浄水場跡地が超高層オフィス街として再開発されたことで、徐々に西側へと移ってきた。1960年代後半には、新宿駅西口地下広場は大規模なフォークゲリラの集会の場となったが、機動隊との衝突により道路交通法が適用され、名称が「西口地下広場」から「西口地下通路」へと変更された。新宿駅西口広場は、昭和を代表する公共空間であった。
 戦後に新宿駅西口の再開発を小田急が牽引したように、今後は小田急が中心となって西口の再々開発が進められると予想されるが、その際に新宿駅西口広場が我々の都市の遺産として評価され、継承されるのか、慎重な議論を期待したい。

図9:思い出横丁。筆者撮影。。
図9:思い出横丁。筆者撮影。
 話しはずれるが、こうした再開発が進む地域のなかにあって、駅に隣接して戦後の闇市を起源とする思い出横丁が存在することにもふれておきたい[図9]。思い出横丁はこれまで幾度と無く再開発の計画が持ち上がったが、土地建物の権利関係の複雑さから、ことごとく立ち消えてきた。今後も新宿の遺産として残ることを期待する。








4.渋谷の再開発のいま[図10]

図10:渋谷駅周辺。図はGoogle earthの建物3D表示より。筆者加筆。
図10:渋谷駅周辺。図はGoogle earthの建物3D表示より。筆者加筆。

駅周辺4街区の再開発

 
図11:渋谷駅周辺4街区の再開発計画模型。筆者撮影。 図12:それぞれの街区はデッキで繋がれている。首都高の下にデッキがみえる。筆者撮影。
図11:渋谷駅周辺4街区の再開発計画模型。筆者撮影。 図12:それぞれの街区はデッキで繋がれている。首都高の下にデッキがみえる。筆者撮影。
 渋谷駅周辺は2005年に都市再生緊急整備地域、2012年に特定都市再生緊急整備地域に指定されている。さらに駅周辺4街区では、都市再生特別地区の指定による容積率の緩和を背景に、オフィス機能を中心として大規模な再開発が進んでいる[図11]。
 渋谷駅中心地区デザイン会議の座長を務める建築家の内藤廣の提案で、デザインアーキテクト制が採用され、それぞれ渋谷駅街区では日建設計、隈研吾建築都市設計事務所、SANAAの3者が、現東急プラザ渋谷を中心とする道玄坂1丁目駅前地区(道玄坂街区)では手塚建築研究所が、東急東横線地上駅跡を開発する渋谷駅南街区ではCAtが務め、渋谷駅桜丘口地区(桜丘街区)では古谷誠章が担う予定となっている。これら4つの街区は地上2〜4階レベルでデッキによって平面的に繋がれ、加えてアーバン・コアと名付けたエスカレーターなどを収めた縦動線を各所に配置することで、立体的にも繋がることとなる[図12]。
 渋谷駅街区は東横、中央棟、西棟の3棟で構成され、延床面積は約27万㎡である。なかでも東横は地下7階地上46階建てで、高さは約230mと、180mの渋谷ヒカリエを上回る。東横の工事は2014年8月1日着手され、2019年中の完成を目指している。渋谷駅街区では、ハチ公広場も整備し直されることとなる。
図13:2015年3月末で閉館する東急プラザ渋谷。筆者撮影
図13:2015年3月末で閉館する東急プラザ渋谷。筆者撮影
 道玄坂1丁目駅前地区(道玄坂街区)の再開発に向けて、2015年3月末、東急プラザ渋谷が49年の歴史に幕を下ろした[図13]。道玄坂街区は、一階にバスターミナルを備え、2018年完成予定。渋谷駅街区とはデッキで繋がることとなる。
 渋谷駅南街区は地上34階建て、高層部にオフィス、中層部にホテル、低層部には商業施設を持つ複合ビルとして、2018年度中の開業を目指している。街区に沿って流れる渋谷川に面して約600mの遊歩道を整備し、河川敷地を利用した広場を2カ所設けることが注目される[図14]。渋谷川を表として整備することで、明治通りと渋谷川の間の建物の今後の建ち方が変化するものと予想される。
 ヒカリエの建設を嚆矢とする渋谷駅周辺の再開発が始まった時点での建物を確認すると、一昨年に取り壊しが始まった東急百貨店東横店東館(旧東横百貨店)は1934年に開業、東急百貨店東横店西館(旧東急会館)は4階までは1937年着工の建物、5階以上は1954年竣工の改築事業によって増築されたもので、新宿や池袋の駅ビルと比較するとかなり古い建物であった[図15-1・15-2]。ヒカリエの前身である東急文化会館も1956年竣工である。
 さらに渋谷駅街区の再開発がスムーズに進んだ背景には土地所有が単純であったことがあげられる。新宿や池袋では、駅ビル用地を私鉄、JR、地下鉄などの複数の主体が所有しているのに対し、渋谷駅周辺では大半を東急が所有し、JRの所有地が一部に存在するだけである★1。これが、東急が主導権を握り、渋谷の開発をスムーズに進められた理由である。

★1:新宿・渋谷・池袋駅近傍の土地所有の変遷については、石榑督和『闇市の発生と土地所有からみる戦後東京の副都心ターミナル近傍の形成過程に関する研究』
(明治大学博士学位論文、2014)を参照。
     
図14:渋谷川沿いの遊歩道整備。渋谷文化プロジェクトホームページより(http://www.shibuyabunka.com/special/201402/part1.html)。
図14:渋谷川沿いの遊歩道整備。渋谷文化プロジェクトホームページより(http://www.shibuyabunka.com/special/201402/part1.html)。
図15-1:渋谷スクランブル交差点から渋谷駅をみる。筆者撮影。
図15-1:渋谷スクランブル交差点から渋谷駅をみる。筆者撮影。
図15-2:ヒカリエから渋谷駅をみる。筆者撮影。
図15-2:ヒカリエから渋谷駅をみる。筆者撮影。

区役所・公会堂の建て替え[図16]

図16:渋谷駅周辺。図はGoogle earthの建物3D表示より。筆者加筆。
図16:渋谷駅周辺。図はGoogle earthの建物3D表示より。筆者加筆。

図17:渋谷区新庁舎及び新公会堂整備計画。渋谷区ホームページより(https://www.city.shibuya.tokyo.jp/kusei/cityhall/plan01.html)。
図17:渋谷区新庁舎及び新公会堂整備計画。
渋谷区ホームページより(https://www.city.shibuya.tokyo.jp/kusei/cityhall/plan01.html)。
 1950年代半ばまで、渋谷の商業地区は駅前と道玄坂界隈に限られていた。これが拡大するきっかけとなったのが、前回の東京オリンピックの際に建設された代々木競技場をはじめとした、渋谷公会堂、渋谷区庁舎、NHK放送センターなどの施設である。今後、こうした施設も建替えられようとしている。
 1964年竣工で耐震性に問題を抱える渋谷区庁舎は、隣接する渋谷公会堂と一体で建替えを行なう(2018年竣工予定)[図17]。建替えに際しては、敷地面積12,418㎡のうち、4,565㎡を70年間の定期借地として民間事業者に提供し、民間事業者は権利金の代りに新庁舎と新公会堂を建設して区に譲渡する。こうすることで区の財源負担をゼロにする枠組みとなっている。計画は未定であるが、NHK放送センターの建て替え構想も浮上している。






公園通り宇田川町の地区計画

 渋谷駅周辺の4地区の再開発が進行するなか、駅ビルに買い物客が囲われないかとの心配から、西武、パルコ、東急ハンズなど大型商業施設が林立する駅北西部の「公園通り・宇田川町周辺地区(約6.7ha)」が地区計画づくりに乗出している。
 ここは、1964年のオリンピックの際に先の区役所などが整備されたことにより、公園通りを中心に商業地区として発展したエリアである。1970年代、西武資本のパルコが中心となり、「魅力的な街」へと変えるためまちづくりを始め、通りに名前を付けることで街に新しいイメージをつくることに成功し、いわゆるパルコ文化を育んだ場所である。
 渋谷公園通商店街振興組合では、2014年5月に渋谷区に地区計画の提案書を提出している。その提案は、まず「歩きやすく、回遊性のある、坂の街」を実現するため、神宮通りの車道幅員を狭め、歩道幅員を拡幅すること。そして、客待ちタクシーの縦列駐車を阻止し、同時にパーキングメーターを廃止。観光バスの乗降場を設置するなどとしたもので、建物の建て替え時にはセットバックをはかり歩行空間を創出するなどの地区整備計画も盛り込んだ提案である。これを受けて渋谷区では2014年6月から年末にかけ「地区計画」の都市計画決定に向けた意見交換会を開催し、地区計画の目標、施設の整備方針を固めている。

宮下公園の商業開発

図18:宮下公園整備計画。渋谷区ホームページより(http://www.city.shibuya.tokyo.jp/news/oshirase/miyasita_kettei.html)。
図18:宮下公園整備計画。渋谷区ホームページより
http://www.city.shibuya.tokyo.jp/news/oshirase/miyasita_kettei.html)。
 先日、公募型プロポーザルとして募集されていた宮下公園の整備事業の民間事業者に、三井不動産が選出された。2020年の東京オリンピックを見据えた公園として整備することを目論んだプロポーザルであったが、公開された計画案は3階建ての商業施設や宿泊施設を導入したもので、商業施設の屋上に植物棚が設けられ、その中にスポーツ施設や多目的広場が配置される計画である[図18]。
 宮下公園は、戦中期の疎開空地を背景に、戦災復興土地区画整理事業によって整備された公園である。公園を商業およびホテルを含むビルへと開発するこの事業の公共性については、今一度、議論が必要なのではないかと思えてしまう。
 また、こうした開発の動きにも動じず、宮下公園に隣接するのんべい横丁は渋谷の遺産として残り続けてほしいとも思う。のんべい横丁は、闇市の露店を起源とする飲屋街である。




5.池袋の再開発のいま[図19]

図19:池袋駅周辺。図はGoogle earthの建物3D表示より。筆者加筆。
図19:池袋駅周辺。図はGoogle earthの建物3D表示より。筆者加筆。

豊島区庁舎移転と民間開発による公会堂の建て替え

図20:豊島区庁舎。筆者撮影。。 図2-2:新宿東宝ビル。筆者撮影。
図20:豊島区庁舎。筆者撮影。 図21:右が豊島公会堂、左が豊島区庁舎。筆者撮影。
 池袋では渋谷区と同様、1961年竣工の豊島区庁舎、1950年竣工の豊島公会堂の更新に関わる事業が進んでいる[図20・21]。豊島区庁舎は、としまエコミューゼタウン(南池袋2丁目A地区再開発)の一部として移転し、今年5月7日に供用を開始する[図22-1・22-2]。としまエコミューゼタウンは地下3階地上49階建ての建物で、低層部に豊島区役所(3〜9階)と店舗(1〜2階)が入り、上層部は分譲マンションとなっている。
図22-1:としまエコミューゼタウン全景。筆者撮影。 図22-2:としまエコミューゼタウン低層部立面。筆者撮影。。
図22-1:としまエコミューゼタウン全景。
筆者撮影。
図22-2:としまエコミューゼタウン低層部立面。筆者撮影。
 廃校となった旧日出小学校の跡地(整備地の約 60%)と、区民所有の土地(地権者 115 名)を再開発事業によって新庁舎として整備するもので、区有財産を最大限に活用し、市街地再開発事業として整備することで、建設費については一般財源に依存しない資金計画を建てている。具体的には新庁舎建設事業を市街地再開発事業として国や都から助成を受ける。さらに現在の本庁舎敷地、公開堂・分庁舎敷地、区民センター敷地に定期借地権50年を設定し、一体で開発する民間事業者を公募、民間事業者に定期借地の25年分を一括前払いさせることで、資金を調達する。これによって、豊島区の財政負担を0円とする枠組みである。また、現在の本庁舎敷地、公開堂・分庁舎敷地、区民センター敷地の再開発事業者選定の条件として、公会堂(約 3,000 ㎡)を民間業者の資金で整備することも条件となっている。

西武池袋駅の改修と本社ビルの建替え

 池袋駅では渋谷駅ほどではないが、大規模な改造計画が進みつつある。
 その一つが、西武グループが2014年6月に公表した、西武池袋駅の大規模改造計画である[図23]。明治通りに面するエントランス、一階、地下一階のコンコースの計5,074㎡を改装する計画である[図24]。大規模な改造であることは確かであるが、あくまで建物単体の改造である。
 また、西武は池袋駅南側に位置する西武鉄道旧本社ビルの建替えを計画し、2015年7月に着工、2019年3月に竣工するとしている[図25]。西武鉄道旧本社ビルの建替えでは、地上18階地下2階建て、延床面積は5万㎡のビルが建設される。同ビルは西武線の線路を跨ぐ形で建設され、池袋駅周辺の震災対策として、建物および周辺に一時待機場所や一時滞在施設として活用できるスペースを設置するとしている。さらにこのビルは、豊島区が計画する池袋駅東西デッキの南デッキに接続する。南デッキは、西武鉄道旧本社ビル前から西武百貨店池袋本店の西側を通り、西口のメトロポリタンプラザビルへと繋がる計画となっている。
 豊島区は、池袋駅東西デッキの基本構想素案をまとめ、東西デッキの南デッキと北デッキのうち、南デッキについては2014年末にJR東日本、西武鉄道のそれぞれと事業協力の覚え書きを締結し、区が公共通路として先行整備することを公表している。2020年に着工、後期は4年を想定。これにともない、西武は池袋駅南口を整備して、南デッキと西武池袋駅の接続を検討するとしている。
図23:現在の西武池袋駅。筆者撮影。 図24:現在の西武池袋駅エントランス。筆者撮影。 図25:左の仮囲いの内側が西武鉄道級本社ビル跡地。筆者撮影。
図23:現在の西武池袋駅。筆者撮影。 図24:現在の西武池袋駅エントランス。筆者撮影。 図25:左の仮囲いの内側が西武鉄道級本社ビル跡地。筆者撮影。


池袋駅西口の再々開発

図26:『池袋駅西口地区まちづくりニュース』No.26, 2014年10月より転載。
図26:『池袋駅西口地区まちづくりニュース』No.26, 2014年10月より転載。
図27:東武百貨店。筆者撮影。
図27:東武百貨店。筆者撮影。
 池袋では東口だけでなく、西口でも大規模な再開発計画が進行している。池袋駅西口地区まちづくり協議会が2014年9月に、駅前街区整備の基本構想案を公表している[図26]。その構想は、4つの街区と駅前道路、西口公園などを含む約3.7haに、オフィス、商業、住宅、宿泊施設を含む高層ビル2棟を建設し、あわせて地下広場、バスターミナル、タクシープール、広場などの整備を盛り込んだものである。この池袋駅西口地区まちづくり協議会には、2013年末から三菱地所が協力者として参画している。
 この構想実現のカギとなるのが都市再生緊急整備地域の指定である。現在の基準容積率は800〜900%だが、宅地が地区の三割程度しかないため、事業採算性状容積率1000%以上が望まれている。豊島区は、2008年に池袋副都心グランドビジョンをまとめ、都市再生緊急整備地域の指定を目指したていたが、民間開発計画の少なさから指定が見送られていた。豊島区では都と協議を重ね、同整備地域の指定に向けて取り組みを進めている。
 さらに今年に入り、池袋駅西口地区まちづくり協議会の協議に、東武百貨店の親会社で地権者の東武鉄道が参加する意向を示した[図27]。東武はこれまで、協議会に加入していたが、協議には実質的には参加していなかったため、駅前街区整備の基本構想案でもエリア(約3.7ha)から外れていた。東武百貨店が加われば、エリアが約5haに拡大する。東武鉄道は昨年、特定目的会社に譲渡して証券化していた東武百貨店池袋店の土地と建物を約1030億円で買い戻しており、これによって建物の改修の自由度が増している。建て替えの検討を含めた大きなプロジェクトとして、具体化し始めていると考えてよいだろう。
 再開発事業では、戦後の闇市を経験することで増えた地権者をまとめかれるかが、カギとなるだろう。特に東武百貨店と池袋西口公園間のエリアの権利関係が複雑化している。









6.東京の再開発の未来

 以上のように「新宿・渋谷・池袋の再開発のいま」を、戦後復興期から高度成長期までの同地の形成過程との関係からみてきた。渋谷ではこうした関係が顕著に確認され、池袋や新宿は今後より相関していくと考えられる。
 最後にこうした視点から東京の再開発の未来について、少しだけ考えてみたい。
 冒頭で確認した通り、グローバルな資本が積極的に動く基盤としての交通インフラ整備と規制緩和を駆動力として、東京の現在の再開発は加速している。いま、都市空間のほとんどが資本の論理で生成している。しかし、遊休地が広がり、東京五輪の競技場建設に触発されてマンション開発が進む湾岸エリアと、既成市街地が広がる山手線沿線に、一様な規制緩和と開発を進めてよいのだろうか。
 東京五輪の会場計画は、既成施設の利用を目指すヘリテージゾーンと、新設会場が集中する東京ベイゾーンに分け、東京の未来を描いている。都市再開発の未来も、一様に規制緩和を進めて開発を誘導するのではなく、既成の都市空間を評価、選択しながら再開発を進めるエリアと、資本投下を積極的に誘導する湾岸部というように切り分ける必要があるのではないか。東京のターミナル駅前がこれまでに持ち得た、多様性を少しでも失わないためにも。


石榑督和(いしぐれ・まさかず)
明治大学理工学部助教。
1986年岐阜県生まれ。明治大学卒業、同大学大学院修了。博士(工学)。専門は都市史・建築史。共著に『盛り場はヤミ市から生まれた』ほか。

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