建築討論

「東京駅100年の記憶」展への参加を通して

広田直行(日本大学教授)

 2014年12月20日で開業100年を迎える東京駅を記念して、2014年12月13日~2015年3月1日まで、東京ステーションギャラリーで「東京駅100年の記憶」が開催された。この展示企画は、京都工芸繊維大学の松隈洋氏が、一昨年のイタリアビエンナーレ展のために構想した案を、東京ステーションギャラリーの冨田館長に相談して実現に至ったと聞く。
 遡ること9年前、東京駅が2003年に国の重要文化財に指定され、創建当時の姿へと復元されることになり、改修工事のため旧ギャラリーでの最後の展示企画となったのが、「生誕100年 前川国男 建築展」(2005年12月23日~2006年3月5日)である。その実行委員・事務局長が松隈氏であり、鹿児島大学の鰺坂徹氏(当時、三菱地所設計)と私は、専門委員として参加していた。奇しくも、美術館側は前川展と同じ柚花文さんが担当されることになり、その打合せはこの4名に工学院大学の大内田史郎氏(元東日本旅客鉄道株式会社)を加えた5名で2014年6月からスタートした。
 第一次世界大戦勃発の年に竣工した東京駅は、その後の100年間、日本の中央駅として何を見てきたのか? 丸ノ内の建築と都市の変遷をジオラマ作成から概観する。

1.赤の時代から白の時代をへてクリスタルの時代へ

 東京駅を中心とする丸ノ内界隈は、1890年(明治23年)、明治新政府の練兵所跡地を国が三菱に払い下げ、そのほとんどを三菱地所が地権者となり引き継いでいる。東京駅の創建当初は、その一帯が「三菱ヶ原」と呼ばれた原っぱだったという。そこは、明治新政府によって招聘されたイギリス人建築家のジョサイア・コンドルとその弟子の曾禰達蔵(三菱地所)達によって、「一丁倫敦」と呼ばれる赤レンガを基調とする「赤色の街並み」からはじまった(写真1)。
 その後、1923年の関東大震災によって、煉瓦造の建築は多大な被害を受け、徐々に鉄骨造やコンクリート造に代わって行くことになる。吉田鉄郎の設計による白いタイルで覆われたコンクリート造の東京中央郵便局に代表される「白色の街並み」に移って行くことになる。幸いにも東京駅は鉄骨煉瓦造だったために被害はなく、被災者の避難所として使われた記録も残る。しかし、1945年の太平洋戦争東京大空襲により屋根の大部分を消失し、2階建てとして修復された。その後、2005年に復元工事に入るまでの60年間は、三角屋根の東京駅が人々の記憶に残る姿となる。建物の高さが100尺で統一され、東京駅を中心とする調和した街並みの時代である(写真2)。
 1963年の容積率制の導入により、建物高さの100尺制限が撤廃され、敷地面積に対する延べ床面積の割合による規制となった。新規制の導入後、前川国男は、東京海上ビルの設計で、敷地面積の1/3に建物を高層化し、2/3を都市の空地として開放する計画を提案した。しかし、この計画は美観論争に展開し、空地は確保されたままで、高さを130mから100mに抑えられた。その後は、街区一杯に高層化が進み、大規模開発によって都市景観が大きくかえられるきっかけとなってゆく。
 2014年、東京駅周辺の建築群は、100m以上の高層ビルが13棟建っている。下層部を除きほとんどがガラスのカーテンウォールとなっている。近年は、冬の間の街路樹に飾られたイルミネーションと高層ビル群の明かりによって、一層クリスタルな街に変貌し、前川国男が意図した都市の空地は埋め尽くされ、東京駅さえビル群の谷間に消されている(写真3)。
写真1:1914年のジオラマ(赤の時代) 写真2:1964年のジオラマ(白の時代) 写真3:2014年のジオラマ(クリスタルの時代)
写真1:1914年のジオラマ(赤の時代) 写真2:1964年のジオラマ(白の時代) 写真3:2014年のジオラマ(クリスタルの時代)

2.展示に向けた丸ノ内界隈1/500ジオラマのスタディ

写真4-1:現地調査の様子 写真4-2:現地調査の様子
写真4:現地調査の様子
 丸ノ内界隈の模型制作にあたり、思いの外に苦労したのが図面の入手である。現存する建物は、入居する全ての企業の承諾が必要となり、印鑑証明つきで「模型制作以外の使用はしない」との誓約書まで提出した。図面の存在は確認できても借用できないケースがほとんどで、現存し雑誌等でみつけられない建物は、現地で写真を撮影し、写真から模型作成用の図面をCAD化する作業からはじめることとなった。お堀廻りの街区も(写真4)のように、現地調査を行って模型にする作業工程で進められた。何事も予定通りには進まないもので、この作業は結果的に、学生にとって対応力を養う大きな学習機会となったことに後から気づかされることになる。
 1914年を担当することになった鹿児島大学の学生と、1964年担当の京都工芸繊維大学、2014年担当の日本大学生産工学部の学生達は、ネット上でフォルダを共有し、図面や情報の共有化を図っていた。
 並行して検討を進めたのが1/500模型のディテールである。どこまでつくりこむかによってリアリティが大きく異なる。まず、紙模型で表現を検討し、本番の木による制作に移ることになった。この検討結果によって、当初、本番はヒノキ材によって制作する予定であったが、材料の大きさや厚さにより、主材料にはシナの単板を、部分材料にヒノキ材を使うことになった。夏休み期間中にこれらのスタディを終え、後期からいよいよ本番模型の制作に突入した。
 1914年と1964年は、模型内部にLED電球を仕込んで、夜景も表現することになったが、2014年は高層棟の模型強度確保のため、LEDを点灯させることは断念することになった(写真5)。
写真5-1:スチレンボードによるスタディ模型とディティールの検討 写真5-2:スチレンボードによるスタディ模型とディティールの検討 写真5-3:スチレンボードによるスタディ模型とディティールの検討
写真5:スチレンボードによるスタディ模型とディティールの検討

3. 丸ノ内の記憶 1914年・1964年・2014年のジオラマが並んで

 会場となる東京ステーションギャラリーの一室に、3時代の模型がはじめて並んだ日、搬入作業を終えた学生も教員も美術館職員も、皆が模型の前に立ちすくんでいた。「100年でこんなにも変わったのか? もう、50年前には戻れない。」と、思いの外驚かされたのだろう。1914年、更地に東京駅が建ち、50年後丸ノ内の界隈は、100尺のスカイラインに統一された景観ができあがっていた。そしてその50年後、その景観をどう評価するのか。折しも、国立競技場の解体業者が決定された頃であり、建築を残すことの大切さと難しさを改めて考えさせられた時間であった(写真6・7)。
 これまでに、東京駅は何度となく消失の危機にあったことはよく知られるところである。未曾有の天災にも、戦争にも辛うじて生き残った。しかし、その廻りの建物は、政治によって、経済効果という価値観によって、制度によって、意とも簡単に壊されてきた。人間によって簡単に壊され、景観が失われて行くことを知らされた。
写真6:打合せ中に話題になった東京駅と新国立競技場案の立面図比較 写真7:2014年12月7日の3大学学生達の設営風景 写真7:2014年12月7日の3大学学生達の設営風景
写真6:打合せ中に話題になった東京駅と新国立競技場案の
立面図比較
写真7:2014年12月7日の3大学学生達の設営風景
写真7:2014年12月7日の3大学学生達の設営風景 写真7:2014年12月7日の3大学学生達の設営風景 写真5-3:スチレンボードによるスタディ模型とディティールの検討

4.公共地下道とサンクンガーデン

 2014年の丸ノ内界隈は、ビルの高層化と共に、その足下にも大きな変化がみられる。東京駅と皇居をつなぐ「行幸地下通路」を中心に、各ビルは地下1階でつながれている。公共地下道によって、東京駅と大手町・日比谷・有楽町・二重橋など多くの地下鉄駅がつなげられ、駅とビルの関係がみえてくる。また、各ビルの足下にはサンクンガーデンが設けられ、公共地下通路から各駅につながるアプローチ空間となっている(図1)。
 地下パーキングへのアプローチ空間      → 18ヵ所
 地下通路・地下鉄・JRへのアプローチ空間  → 40ヵ所
 地下店舗へのアプローチ空間         → 14ヵ所
 サンクンガーデン              →  5ヵ所
このように多くの地下に続く空間が整備されているものの、前川国男が望んでいた「風通しの良い都市空間」「緑豊かな都市空間」「都市の中の広場」などはほとんど見当たらず、ウッドデッキのポケットパークが一ヵ所あっただけである(写真8)。
 これらの地下へ続く空間の特徴は、ガラスの装置となっていることで、少しでも光を入れようとする意図は伺える(写真9)。
図1 公共地下道とサンクンガーデンの位置関係
図1:公共地下道とサンクンガーデンの位置関係
写真8:ウッドデッキのポケットパーク 写真9:ガラスで覆われた地下へのアプローチ空間いろいろ 写真9:ガラスで覆われた地下へのアプローチ空間いろいろ
写真8:ウッドデッキのポケットパーク 写真9:ガラスで覆われた地下へのアプローチ空間いろいろ
写真9:ガラスで覆われた地下へのアプローチ空間いろいろ 写真9:ガラスで覆われた地下へのアプローチ空間いろいろ 写真9:ガラスで覆われた地下へのアプローチ空間いろいろ
写真9:ガラスで覆われた地下へのアプローチ空間いろいろ 写真9:ガラスで覆われた地下へのアプローチ空間いろいろ 写真9:ガラスで覆われた地下へのアプローチ空間いろいろ
写真9:ガラスで覆われた地下へのアプローチ空間いろいろ

5.東京駅周辺防災隣組の設立

 丸の内地区の多くのビルは、オフィスや店舗で有り、夜間人口がほとんど無い。大手町・丸ノ内・有楽町・内幸町の勤務者人口が約24万人に対して、住民票による居住者人口は19人である。このため、地縁的組織や活動も無く、交通拠点となっている東京駅周辺は災害時の帰宅困難者対策が危惧されていた。現在、参加企業は67社となり、丸の内周辺は9つの地域に分割され隣組が組織化され、防災備蓄品の確保と共に人的サポート体制ができている。2012年には「東京駅周辺防災隣組ルールブック」を発行し、目にみえない高層化都市の内的一面と言える。この組織は、東日本大震災の際、東京駅構内で一夜を過ごした多くの帰宅困難者に対して、毛布や飲料水を配給するなどのサポートにあたった。関東大震災の時、東京駅が被災者の避難所として使われた記憶がよみがえる。

6.次の50年に向けて

写真10:東京ステーションギャラリー会議室にて打上げの様子
写真10:東京ステーションギャラリー会議室にて打上げの様子
 1963年の容積率制導入によって、また、2002年の「都市再生特別措置法」によって、丸ノ内界隈の建築は、東京駅と明治生命館を除いて、全てが新しく建て代わった。このような、経済的・政治的判断で人々が築いた歴史と活動の記憶を一瞬にして破壊する行為を止めることはできないのか。「個人的には保存賛成。会社の一員としては保存反対」こんな無節操な大人の考え方が、建築と都市を壊して行く。もう一度、2014年のジオラマ模型を見て頂きたい。ビルのスキ間からかすかにみえる東京駅。緑もなく、風通しも悪そうで、空もみえず、日陰の街がそこに存在する。何が大切か議論して方向性を決める場が必要である。建築学会のWEB版『建築討論』がそんな場となることを願う(写真10)。





広田直行(ひろた・なおゆき)
日本大学教授
1959年北海道生まれ。日本大学卒業,同大学大学院修了。博士(工学)。共著に『一目でわかる建築計画』ほか。

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