座談会:
被災地の今-復興まちづくりの課題と展望
主催:日本建築学会 建築討論委員会
日時:9月12日(金)10:00~12:00
会場:神戸大学
東日本大震災からの復興について、これまでを振りかえると共に、今後発生する課題の解決方法について討論する。振り返りの討論としては、震災から3年半が経過した現在の被災地の状況(復興まちづくりの進捗具合、応急仮設住宅の状況、人口減少等々)について災害直後に、どこまで予想ができていたのか、について考える。また、住宅を再建する場所が完成するまでに8年近くかかるという現実を踏まえ、仮設住宅をどうするのか、使われない土地をどうするのか(海辺の移転跡地、使われない宅地)をどうするのかといった、今後解決すべき課題について討論する。
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コーディネーター ■牧 紀男(京都大学) |
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■姥浦道生(東北大学) |
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■竹内 泰(宮城大学) |
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■室崎益輝(兵庫県立大学) |
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■槻橋 修(神戸大学) |
復興の格差
- 牧:本日は、室崎先生に若い者が噛みつくというか、
女川町:震災遺構と低地利用
撮影:竹内 泰
いろいろお聞きするという形で進めたいと思いますが、まず現状認識と言いますか、各先生に「被災地の今」をどうみているかを順番に話して頂ければと思います。私の問題認識は2つあって、3年半が経過して、仮設住宅での生活が5年を超えて続くことがほぼ確実になったこと、その対策をどう考えるのかということ、もう1点、ようやく議論が進んできましたが、跡地、海沿いの居住禁止区域を今後どう計画するのか、が課題だということです。どうするのか、ということの議論は後ですることとして、これが私の現在の問題認識です。まずは姥浦さんから、現状認識と今後の課題をお願いできますか。
- 姥浦:まちづくりの観点と空間計画の観点の2つにわけていいますと、まず、まちづくりの観点からは、非常に積極的なところと、震災直後と変わらない、厳しい言い方をすると、むしろ後ろ向きなところがあると思います。差が出てきている感じがします。先頭を走っているところは行政に頼らず、土地利用だけでなく、生活再建や生業についても自分たちで様々な取組みをしている。
女川町:造成の進む高台
撮影:竹内 泰
そうしたところの取組みは、日本全体の人口減少や少子高齢化の問題に役に立つんだろうと思います。一方、従来型のまちづくりというか、行政にあれして欲しい、これして欲しいというだけの行政頼みの地区がある。
空間計画についても、うまくいって進んでいるところとそうでないところがある。需要と供給がうまくいっているところ、多少の誤差はあっても必要な住戸と計画がマッチしていて、早いところではもうできて住み始めている。一方、防潮堤も決まらない、どこに住むかも決まらないところがある。行政が決めたのはいいけれど、予想を下回る場合がある。山元町など6割ぐらいしか残らない。石巻にもそういうところがあります。当初、コンパクトなまちをつくろうとしたんだけど、すかすかのまちになっている。防集(防災集団移転促進事業)型の場合にも、単純に防潮堤を建ててコンパクトに住もうという減災型のところでも、需要の変化と見誤りがみられます。
- 牧:割合でいうとどうなりますか? うまくいってるところとそうでないところは。5:5とか、7:3とか。
- 姥浦:いやうまくいってるのが2割とか3割というより、同じ町でもグラデーションがある感じですね。
- 室崎:3:7かなあ。うまくいってるのは、田野畑、東松島、新地、岩沼、花露辺(けろべ)(釜石市)など。花露辺は小さいですけどね。
肌理細やかな仕事をする技術者不足
- 竹内:僕は技術者の役割が気になります。
陸前高田 工事が完了するのは震災から8年後の平成30年度
撮影:牧 紀男
一般の人にとっては、姥浦先生が従来型とおっしゃった復興のプロセスが進んでいるように見えていると思います。そこに携わっている技術者は、契約をベースに事業を進めていますが、どちらかというと大手の企業です。陸前高田、気仙沼や東松島などは、URが主導的に事業を進めています。実際、復興業務としては、カチッと進んでいるようですが、この先大丈夫かということが気になります。震災直後には多様な技術者がさまざまな提案をしましたが、事業が進捗しリアリティを帯びてきている反面、新しい提案などは受け入れられなくなってきています。
実際には住民側から相談したいことはいっぱいあると思います。住宅もそうですが、仮設の商店街などの生業もそうです。しかし、思いを受け、業務をこえて、さっとプランニングする人、図面を書く人がいません。技術者の関わる状況は薄まってきている。一方で、東京では活気が出てきています。肌理細やかな仕事をする技術者が、被災地には不足しています。
- 牧:この問題は後で議論しましょう。
実感なき復興と記憶の街
- 槻橋:震災直後からいろいろな街の復元模型をつくってきました。いろいろなところへ模型を持って出かけて行って話を聞く機会があります。それぞれの地域の雰囲気を感じるんですが、3年半経って、確かに復興プロジェクトは進められてはいるけれど、一般の人々には復興の実感はないんじゃないかと思います。これだけ大規模に町ごと全体が住み直すという経験は、近年なかったことですよね。これからもう一度コミュニティをつくっていくということが問われている。これから始まるのだろうという気がします。被災地もいろいろあるなかで同時に復興が行われていくわけですよね。
「失われた街」模型復元プロジェクト うまくいくところもあれば、うまくいかないところもあるという現実も受け入れていかなければならない。「フクシマ」の問題もあります。それぞれの地域にそれぞれの復興の時間があるんだけども、それぞれが同時に見えてくる。実感をもって復興に向かっているという地域はまだ少ないのではないか、という気がします。もう一度住み直してみないとわからない、ということもあるのだろうと思いますが。
- 牧:もういちど町に住みこんでいくということと、「失われた街」模型復元プロジェクトのワークショップとの関係はどうなるんですか?
- 槻橋:失われる前の街の記憶が復興まちづくりの手掛かりになるんじゃないかということですね。震災後間もないころに、新幹線で布野先生にバタッとあって、何で番屋を建てるんじゃなくて模型を作るんだと絡まれたんですが(笑)、復興のための原点が必要だと思ったんです。何もないところから街をつくっていくわけですが、失われた町がどういう街だったかを一般の人は具体的にイメージできる。そこに住んできた実感が大切ではないか。祭りの継承といったことから始めていくのも、ひとつの方法だと思います。
陸前高田市:盛土嵩上げ施工状況
撮影:竹内 泰 |
大船渡市綾里:三陸道延伸状況
撮影:竹内 泰 |
東松島市野蒜:盛土嵩上げ施工状況
撮影:竹内 泰 |
2つの見込み違い:想像以上の人口流出と長すぎる仮設居住
- 牧:来年の1月17日で阪神・淡路大震災から20年、それから今年の10月23日で新潟県中越地震から10年です。災害の後の営みをずっと見てこられた立場から室崎先生はこの3年半をどう見られていますか?
- 室崎:見込み違いが2つあります。ひとつはここまで仮設居住が長引くかということ、もうひとつはここまで人口流失が激しいかということ。阪神だって人口流失はありました。山越でも、山越へ帰ろう、と言ってたんだけど半分ぐらいしか帰らなかった。想像はしていたんだけど、ここまで減るというのは想像以上ですね。このままでいくと、いくつかの村や町が無くなるんじゃないかという状況になっています。そして、仮設から公営に移行するのに非常に時間がかかっている。大変なことが起こっている。
もうひとつ、これも見込み違いなんだけど、うれしい見込み違いで、思ったより素晴らしい復興が行われている、これは感動する話なんですよ。公営住宅のコンセプトとかデザインにはほんとにすばらしい提案がある。これまでにないやりかたが行われている。デザインだけじゃなくて、プロセスも模型をつくって、ワークショップをしてみんなが参加するやりかたでやる。早稲田の古谷さんがやっている田野畑の田の字型のプランとか、集団移転の考え方とかすばらしい。東松島もプロセスがとてもよくて、僕は今注目してるんです。阪神・淡路大震災の復興計画ではみられなかったいいプロジェクトがあちこちでやられている。いい意味での予想外です。時間はかかるけど、いい取り組みがたくさんある。これをうまく後発部隊に引き継いでいくといいんじゃないかと思います。
仕組みの問題:合意形成の要件
- 室崎:姥浦さんが復興計画の光と影というような話をされたけれど、
渡波地区(石巻市):津波により多大な被害を受けた。
建築規制はかかっていないが再建が進行していない
撮影:姥浦道生
後者の場合、なぜ遅れたか、うまくいかないのか、というと僕は、仕組みだと思いますね。行政の意思決定から時間戦略、体制の問題ですね。行政当局は、本当に5年以内にやろうと思って取り組んできたかどうか、目標を決めたらそれに向かっていく筈なんだけど、今では遅れてもいい、という感覚になってるんじゃないか。
例えば、仮設というのは絶対2年以上住まわせてはいけないんです。劣悪な環境に住まわせるのは非人権的なんです。被災者はお金がないから仮設でいいというから、いかにも被災者の見方をするというかたちでずるずる伸ばしてきている。劣悪な場所にいつまでも住んでいいですよ、というのは、僕は犯罪的なことだと思います。タイムラインを決めたらそれに沿ってやらないといけないのに、お金と権限がないという。要するに仕組みですね。非常時の仕組みがなかった。
神戸とどこが違うかという、神戸の場合、計画の手掛かりがあったんです。もと住んでいた場所があるとか、お地蔵さんが残っているとかね。今度の場合、真っ白なキャンバスになっちゃって、なんの手がかりもない。そこに、限られた資源で、限られた時間で計画するのは極めて難しかった。
もうひとつ、僕は当初、合意形成に時間をかけろ、急がば回れだからと言ってきたんだけど、ものすごく怒られた。そんなこといっていたらいつまでも復興はできませんよと。ここでは、合意形成の意味をしっかり考えないといけない。合意形成の過程で、誰が復興の主体なのか、誰が責任を持つべきかが明らかになってくるというのが、ポイントです。合意していれば住民にも責任が生じますよね。今被災地ではプランナー批判がものすごく多いんですよ。あいつがこんなプランつくった、あいつが悪いという。自分たちでつくらないといけないのにうまくいかなかったら人のせいにするわけです。それはプロセスで自分たちが主人公になってないからなんです、押し付けられたという意識ですね。プロセスと合意形成については、考えておいた方がいいですね。普段の合意形成と大災害の復興の場合の合意形成とは違うということもある。
合意形成がうまくいってるところは、
玉浦西地区(岩沼市):防災集団移転促進事業により移転・
再建が進んでいる
撮影:姥浦道生
災害前からの関わりということがありますね。災害前のまちづくりとの連続性ですね。田野畑は早稲田が以前から関わってたところだし、
岩沼も、いろいろ批判があるかもしれませんが、石川幹子さんがあそこのご出身だったということがある。ワークショップなんかを積み重ねてた。早い段階から議論をはじめたということも大事ですね。小泉なんか、これもちょっと議論はあるんだけど、避難所で議論を開始してますよね。もうひとつは、行政が大胆に決断し、弾力的な対応をしたところは進んでますね。新地町なんか、集団移転の場合、100坪と言われているのに150坪いいよ、ということでやった。場所も自分たちで見つけてきたらそれでいいよ、ということでやった。東松島もそうですね。きまじめな自治体かいいかげんな自治体かということですね。神戸なんかもいい加減だった。いい加減というか、要するに国の側に立つか、被災者の側に立つかということですね。
大きな項目の2つ目としては、専門家としての役割と責任が大きく問われているということがありますね。専門家の力は大きい。うまくいっているところは専門家が入っていい仕事をしてますね。問題は、まちづくりがわからない人がまちづくりをすることですね。沢山のお金が動いてるんだけど、復興まちづくりに使われていないところもある。お金に使われてはいけないんです。被災者に寄り添うことが大事で、行政に使われてもいけない。阪神大震災の時、僕らは被災地調査をやったけど、フィルム代ぐらいはもらったけれど、自分たちで、ピュアな気持ちでやったんです。
復興バブルとその後
- 牧:ひとあたり現状認識についてお話をいただきましたので、
石巻市雄勝:移設利用された志津川番屋
撮影:竹内 泰
まずは専門家の問題からいきますか? 竹内さん。
- 室崎:竹内さんみたいな人が沢山いればいいんですけどね。僕は、竹内さんの番屋のプロジェクトを高く評価してるんですよ。
- 竹内:気になってるんですが、阪神の事例として、震災バブル後10年ぐらいして、廃業する建築事業者、失業者が沢山出るということを、東日本大震災と照らし合わせて、どうみられていますか?
- 室崎:とても深刻でしょう。神戸の失敗、間違いというのをもう少し伝えるべきでしたね。神戸はうまくやったうまくやったと言われたんだけど、仮設にしても神戸は比較的裕福だったからできたんですよね。東北ではとてもそれはできない。失敗したことは沢山あるんですが、そのうちのひとつが復興バブル、復興特需がもたらす悪影響です。一番の問題は、地元の大工さんの仕事を全部奪いました。短期間に作るんで、プレファブ・メーカーが入ってきてわっと50年分ぐらいつくった。時間をかけてゆっくりまちづくりができれば、地域の産業としてもよかったけれど、育たなかった。
特需がつきれば人は来なくなる。奥尻の場合は、道路建設を域外の業者に絶対渡さなかったんです。3年かけて漁業を復興させるまでゆっくり道路建設をして食べて行ったんです。ですから、一定の復興の時間スパンの中に経済計画とか建設計画を組み込んでいく必要があるんだと思います。
野蒜地区(東松島市):津波により多大な被害を受け、
災害危険区域に指定された。床面の1.5m嵩上げで住宅建築も
可能だが、ほとんど再建者はいない
撮影:姥浦道生
- 竹内:先ほど先生のおっしゃった仕組みの中に組み込むということでしょうか。
- 室崎:うーん。僕もいま答えが無くてね。被災者にしてみれば、一刻も早くもとどおりになりたいわけでしょう。しかし、本来のまちづくりであれば、10年、20年計画でやるべきことですよね。被災者の一刻も早くという思いとわれわれのじっくり時間をかけてという専門家としての思いのジレンマというのをどうやって解決したらいいのかということですよね。僕なんか今見えないですよね。
インドネシアのコアハウスのように最初の5年間は30坪の家で我慢してくれというようなプログラムはなかったのかなとは思います。まちづくりもそうで、一気に全体をつくるというのではなくて中心だけはきちっとつくって、あとは段階的にやっていくというようなプログラムですね。その方がお金の投資がばらついてよかったかなと思います。これは結果論ですけどね。やむをえない事情は沢山あったと思います。
育っている人材!?
- 牧:神戸の時は室崎先生他、神戸の復興で活躍された先生は40代ですよね。今日集まったのは40代で、東北には元気なのはもっといますよね。
- 室崎:復興はこれからですから。40代、50代の人がこれから10年、20年やっていくわけです。言い忘れましたが、そういう意味では、人材はいますよ。こんなに人材が育っているのかというぐらいいますよ。びっくりするくらい。最初は、東北の先生はどう動いているのかよくわからなかった。今は、はっきり見えますよ。いっぱい人材が生まれてると思います。
阪神・淡路大震災の時は、僕は丁度50だったから、よかったんですよ。上の先生はほとんど仕事をしなかった。だからある段階からイニシアチブがとれたんですよ。60、70の先生は何もしなかったんです。それは大きいですよ。そこで、世代交代が自然とできた。担い手も交代することでまちも新しくなる、そういうことが大事なんです。
- 竹内:神戸では、当時若い先生がイニシアチブをとられたわけですが、それを震災教育というか、後継者育成にどうつながれていったことをお聞きしたいです。なんでこういう質問をするかというと、われわれも人材育成の使命があると思うからです。ところが、若者が目の前のリアリティに押しつぶされ建築ができなくなってるんじゃないか、実務の量や可能性はひろがっているかもしれませんが、彼らは委縮しているような気もします。私の周りだけかもしれませんが。
- 室崎:神戸の時も私たちより下の世代へのバトンタッチはうまくゆかなかった。私とか河田さんといった世代がすべてを牛耳ってしまった。結果として、若い世代にチャンスを与えなかった。上の世代が仕事をしなかったといったけど、そのために我々の世代に提案の機会が与えられた。しかし、その時の世代がずっと居座り続けた。だから今の50代から60代にかけての人が活躍するチャンスがあまりなかった。
ところで、さらにその下の世代の牧さんの世代は僕らと一緒に震災の調査をしたんです。神戸大でいうと紅谷さんとか越山さんとかね。新しい力が震災の中から育った。壊れた建物を調べたのがよかったんですね。学生たちが、どこが壊れるのか、何故壊れるのか、建物を見て回ったことは重要ですね。そして、その後、復興のまちづくり協議会みたいなところに学生が入った。現場で学んだんです。学生が修羅場を経験して、その中から優秀な人がでてきたんだと思う。
悪い面は、すぐ下の世代に対してわれわれが居座った。今でも居座っているんですが、よくなかった。いい面は、さらにその下を使って育てたというか、学生を使ったんです。それで現場で育った。槻橋さんのような模型をつくるという発想はなかったけど、被災の程度に応じて色塗りをする作業で育ったんだと思います。
今は許されないかもしれませんけれど、当時は学生を被災地に連れて行って、そこで調査したりすることで単位が出せたんです。授業が現場だったんです。遠慮なく学生に現場に出てもらえたんです。結果として、とてもいい教育ができたと思います。教室の中で、「防災とは何か」と聞いているより、被災者の話を聞いている方が余程いい。カリキュラムの柔軟性がないとできない。
現場が人を育てる
- 姥浦:普通の研究者のレヴェルをどうあげるか?
南三陸町田の浦:学生たちの建設した交流施設
撮影:竹内 泰
というようなことを考えていまして・・・偉そうかもしれませんが、要は、自分が今までいかにレヴェルが低かったか、と思うんです。防災について自分が一体何を知っていたのか、一から勉強したんですね。もう少し勉強すればいいと思いますが、次の時に起こるのは東北じゃないところの可能性が高いですよね。ですから、東北じゃないところの人にこのリアリティをどう伝えていくかが大事じゃないかと思うんですが、どう思われますか?
- 室崎:いや、僕は現場が人を育てると思ってるんですよ。もともと防災やってたのは僕ぐらいのもので、防災の専門家は神戸の時にはそういなかったんです。災害の調査や復興の実践を通して、防災や復興がわかる専門家が増えた。現場で考える、現場と関わることによって育っていったんですよ。だから、現場に関わろうという気持ちになるかどうかが問題なんです。扉を開けない限り、はじまらない。評論家的な立場にたつとわからないんです。
姥浦さんなんか素晴らしいと思いますよ。どうしてかというと、都市計画を学んできて、いま復興計画を現場で考えてるでしょう。防災の専門家だとかえって見えないことがある。僕は純粋の防災の専門家なんか役に立たないと思う。都市計画の専門、福祉の専門、教育の専門・・・専門をしっかり学んできた人が現場と関わることが重要です。都市計画もわかりません、建築もわかりません、という人が現場にいても役に立たない。
いろんな分野の専門家が議論するためのプラットフォームみたいなものができるかどうかが鍵でしょうね。東北の場合、一生懸命やってる人はやってるんだけど、それをただ見てる人がいる。プラットフォームがないというか、分野や立場を超えて議論する場がやや欠けている気もするんです。僕から見てですよ。
プラットフォームの欠如
- 牧:阪神淡路の時は、調査を一緒にやりながら、先生方も侃々諤々やってましたけどね。
- 姥浦:そういう調査のプラットフォームが東北にはないです。調査は別にやられているわけですから、われわれは個別に地域に入るしかなかった。アーキエイドArchiAidとかいくつかプラットフォーム的なものはありますけど。情報交換というのは非常に少ない気がします。建築学会の支部がそういう役割を果たしていることになりますが、細々と勉強会を続けてる感じでしょうか。本部だと、住まい・まちづくり支援建築会議ですね。
- 室崎:阪神の時は、瓢箪から駒かもしれませんが、調査を一緒にしたのがよかったですね。建築学会と都市計画学会が一緒になって、各大学の主だった先生が参加した。調査して、議論したんですね。大喧嘩もしましたよ、なんで調査をやるんだということも含めてね。でもそれで気心もしれて、復興のプラットフォームができたんですね。
それと、小林郁雄という神戸のまちづくりコンサルをまとめていた優れた人材がいた。彼がコンサルを束ねた。私たちの建築学会が研究者を束ねた。そういうつながりがあってうまくいった。東北は広いし、関わる県が違う。県が違うといろいろ違うでしょう。
- 姥浦:それと、いろいろやることも広い。土木からランドスケープからなにからいろいろやらないといけなかった。
- 室崎:最大な問題は範囲が広い、ということですね。
学生の力
- 槻橋:現場が教育の場、というのはその通りだと思います。もともと模型のプロジェクトも、学生をどうやって被災者に連れていくかということがあったんです。私は、直前まで仙台にいて、神戸に来て、学生たちの支援へのモチベーションをどうするか、東北というのはすごく遠いわけです。東京から通うのとはちょっと違う。通い続けるモチベーションというか、理由ですね。僕や僕のゼミ生が行くだけだったら、何とか理由はつくれるんですけど、震災直後に、全国の学生と一緒に何かやれることはないかと思ったんです。というのも、アーキエイドの準備をしていて、アーキエイドというのは仙台メディアテークでやっていた卒業設計の「日本一決定戦」で育ったネットワークが母胎でした。仙台に全国から学生さんがわっとやってきてくれる、そういうイヴェントに育っていましたから、その全国の学生の力を被災地に結集できないか、ということですね。全国から卒業設計の模型をわっと送ってくれる、そのすさまじいパワーを被災地の支援に生かせないかと考える中で、復元模型の共同制作に思い至りました。
そういうなかで、いくつか高台移転をお手伝いすることが始まったんですが、学生の方が先生よりも、住民が自発的に復興計画をつくっていくきっかけとしてはいいんですよね。住民の皆さんは、学生と一緒に悩んで提案することで、自分たちがつくっているという実感を得る。その意味で学生は触媒としてすごくいい。学生を沢山連れていく仕組みがもっと社会の方で準備できればいいなと思います。
- 室崎:後の話から言うとね、昭和九(1934)年に函館大火というのがあったんです。その復興計画に技術者が足りないんです。その時に、北海道庁がどうしたかというと、北海道大学の建築の学生を雇いました。学生の身分のままで、安い給料で。復興計画を任せた。足りない技術者を補うということもあるけれど、それに加えて学生を使う意味が3つある。ひとつはね、学生は既成の概念にとらわれない、ということです。2つ目は、学生の方が被災者に近いところで話ができる。被災者の思いを汲み取ることができる。被災者の声を嗅ぎ取る力は学生の方にある。3つ目は、情熱というか、エネルギーがありますよね。ただ、学生だけだとうまくいかない。先生の経験を生かしたサポートがいる。学生の力をどう生かすか、うまくプログラムする必要はあるんですけどね。
- 牧:酒田大火ですか、室崎先生が防災を専門にされたきっかけは? みんな先生方は酒田で一緒だったとおっしゃるんですが。中林先生とか。
- 室崎:そうですね。熊谷良雄さんや中林一樹さん、平井邦彦さんなどと一緒に、火災の調査や復興の作業を手伝った。みんな、復興計画は初めてだった。
- 牧:仲良しですよね。今でもお三方と。
- 室崎:防災や復興に関わる人数が少なかったんですよ。人数が多かったら、ライバルとか、派閥ができる。しかし、酒田の復興計画は成功だったか失敗だったかよくわからない。3日で復興計画つくったんだから立派かもしれない。トップダウンで、復興計画は上からやるということでしたね。
建築家の横暴:地域を読む力
- 姥浦:建築について言うと、
釜石市平田:みんなの家
撮影:竹内 泰
俺のデザインだという人とこの街に合うデザインという人と分かれますね。地域性というか、ヴァナキュラーなものが何かということが分かっているひとが生き残っている。というか最終的に受け入れられているのは後者じゃないかと思います。90年代以降、まちづくりにしてもそういう流れできているのかなあ、という感じがしています。ただ、田圃を埋めて、山を切ってという、手掛かりがないところでどうするか、ということがありますよね。手掛かりがあるところは、区画整理やるにしても、ここはこうした方がいいよ、ということは言えるんですけど。その後のコミュニティどうするのか?ということになりますよね。1970年代のニュータウンと同じなのかもしれませんが、もう少しは連続性がある。どういうところを目指せばいいのか。
- 室崎:阪神の時はね、安藤忠雄さんは頑張って仕事をしましたけど、他の建築家はあまり仕事をしなかったんです。バブルの残り火があった時代ですから、他に仕事があって復興の仕事には関わらなかったのか、復興計画は難しいから関わらなかったのか、建築家が参入しなかったんです。今回の場合、アーキエイドのように、建築家が沢山関わった。それはいい面も悪い面もあった。とてもいい提案がなされたのはすぐれた建築家が入ったからです。 すぐれた建築家は地域の思いを読み取る力があるからです。一方、横暴な押し付けもあった。普段からそういう仕事をしているのか、と思ったんですが、被災者の思いを汲み取るんじゃなくて、自分の思いを形で押し付けるんですよ。被災地の思いをよく聞いて、オーダーメードの服をつくる、 ただ服をつくるんじゃなくてカッコイイ服をつくるのが建築家なのに。まちづくりにしてもそうです。少し、自分の考えを無理やり押し付けすぎたんじゃないか。コンパクト・シティの理想はいいんだけれど、被災者の思いを聞く必要があったんです。
気の毒だったと思うのは、厳しい条件ですね。滅茶苦茶埋め立てたとか、山を切り崩すとか、そんなの本来のあり方と違うわけですよ。とんでもない車を与えられて、これを運転しろ、と言われているみたいだ。もともと車が悪いんだからいい運転なんかできる筈がないんです。もともとバーッと埋め立てるとか山を切り崩すという発想が間違いなんです。僕は最近、十津川によくいくんですが、アルセッドの三井所さんが斜面をうまく利用した公営住宅を設計してますね。東北のように削ってしまうと戸当たり3000万かかる。十津川のように地形をうまく利用すると300万。地形をうまく読むことが大事なんですよね。地形などの手掛かりがないと、設計のしようがなかったかもしれない。何れにしても、大都会のプレファブ団地のようなものをバーッと並べるのか、と疑問に思うものが多い。
田野畑で曲家を採用したように、雄勝だったらスレートの屋根が欲しい、しかし、そうした発想が、どこかですっとんでしまっちゃってる。
釜石市:みんなの家
撮影:竹内 泰 |
陸前高田市:みんなの家
撮影:竹内 泰 |
気仙沼市大谷:みんなの家
撮影:竹内 泰 |
バラバラで一緒:画一性と多様性
- 槻橋:僕も、唐桑半島で高台移転のお手伝いをしているんですが、唐桑御殿と呼ばれる家が高台に分散して立ち、地形と家並みが混ざり合ったような美しい地域です。高台移転でも地形を生かした計画をと、当初は話し合っていましたが、現実にはなかなか難しい。集団移転なので50軒、60軒が同時に意思決定をしないといけないんですよね。「防集」の規定では住民自らが決定しないといけない。地域内でいろんな人に気をつかいながら、反対が出ないように意見を集約していく過程で、真四角で100坪、個性がないように平等に、となって行ってしまう。地域の人々にとって最優先課題であるコミュニティを維持していくためには不満が出ないようにしないといけないわけです。田野畑に古谷先生とお邪魔した際にも、微地形に合わせて計画された移転地にはいくつか真四角でない区画があり、なんで四角にしなかったんだ、と漁師さんたちはいうんですね。うまく住みこなすことで変形敷地の良さも実感できるはずですが、計画段階では僕たちがいいなと思うことがなかなか理解されない。根深い問題があると思います。
- 室崎:おっしゃる通りだと思います。みんなが地形が大事だとか、風土に適した住宅がいいというセンスをもっているわけではないわけです。ですからコミュニケーションが重要なんです。じっくり話して理解してもらう必要があるわけです。それぞれ多様なわけで、個々の事情がある。それぞれの事情に入ってまとめていくわけです。コーポラティブ・ハウスをまとめた経験があるんですが、画一的なやりかたではない方がかえってまとまる。やはり時間がかかるんです。みんなバラバラの方がいいんです。
槻橋さんの「失われた街」、そして「記憶の街」、次に「未来の街」でしたっけ。
- 槻橋:いや、未来の街はないんですが。
- 室崎:あれ、そうでしたか。失われた街を確認する。そして、次に「記憶の街」で、一緒に住んできた街の記憶を確認する。そのうえで、「未来の街」を模型で議論するんですよ。アメリカの復興では、みんな自分の家の模型をもってきて議論するんですよ。サンタ・クルズの例ですけどね。徳島に行った田口先生が、模型での復興を中越沖地震の柏崎でやったんですけどね。模型だとここは引っ込めとか、実感として理解できるわけです。図面ではわからないけどね。
プロセスを通じてみんなで高まっていくことが重要で、そうした中でまとまるんですよ。僕はやってなくて口だけなんで、失礼なことを言ったかもしれませんが。地域の良さにみんな気がついていないことが多いんですよ。
- 牧:ニュータウン論なんですけどね。昭和8年の復興の時は、下見張りの・・・きれいな街になってますよね。そういうやりかたはどうしてできていかないのか、と思うんですが?
- 室崎:僕は、もともと高台移転は大嫌いなんです。嵩上げにも反対なんです。もとの場所に住むのが基本だと思ってます。といって、今の失敗を横目で眺めているつもりはありません。困難に直面している中、今どうするか、今何ができるかなんですね。よりよくしていくことが重要。これから10年どうやっていくかですね。これからでもいい町ができる、どうよくしていくかそのプロセスが大事なんです。
- 牧: 高台移転なんだけど、みんな愛着をもってますよね。
- 室崎:唐丹本郷とか綾里とか、過去の復興でいい街ができていってるのにね。昭和8年の本郷なんかそれまで300坪のところに住んでいたのに、高台移転のために50坪でいいということで合意した。そのかわり全員が上がれたわけですよね。結果として石垣を積んで密集集落になった。ものすごく奇麗ですよね。どこで被災者が納得してくれるかですよね。
これからが本番!? 街に住み込むプロセス
- 槻橋:3年半経って、建築とか街づくりは、これからが本番ということじゃないでしょうか。一概に失敗とか成功とかは言えないんじゃないでしょうか。高台にニュータウンのような街ができたとしても、そこに住みこなしていくプロセスがあるわけです。どういうコミュニティを紡いでいくかが問題なんです。そこにも計画があり、デザインがあると思うんです。そう考えると、復興と常時のまちづくりとのつながりが見えてくると思うんです。集中的にやる技術も見直していかないといけないと思いますが、東北にまちづくりを続けていくカルチャーが根づいていくことが重要だと思うんです。
コンパクト・シティという理念にしても、東北には合わないんじゃないかということがわかるとしたら、それを東京や横浜なんかの大都会や他の地域でも検証していくことにつなげていく必要もあると思います。
- 室崎:槻橋さんは、今の時点で失敗とか成功は言えない、というんだけど、僕は、失敗は失敗だと言わないといけないと思う。曖昧にしてはいけない。古い考えの復興計画がよくなかったということは言うべきですね。ただ、悪い街ができてもいい。もともと、われわれの仕事は、間違って作ってしまった街の真ん中の老朽密集住宅街をよくしていくことですから。非常時の計画から日常時の計画に移行していくプロセスの中で、非常時の失敗もクリアしていくということだと思います。あとは槻橋さんと意見は一緒なんです、これからがまさに本番だと思います。
- 姥浦:先ほど私がニュータウンといったのは、まさにそこで、ニュータウンより楽でしょう、という意味なんです。ただ、今の入居当初のニュータウンが、昔のニュータウンより遥かに高齢者のニュータウンであることですよね。10年後、20年後には空き家だらけになることが見えている中で、どう考えるかですね。
- 牧:アカン街ヤト、愛着がなくなっていきますよね。
- 室崎:だから、いいとこをみつけていかないといけない。それと建築だけではだめですね。生活をどうするか、産業をどうするか、ですね。若い人がみんな出て行って、年寄りだけが残るということではいい街なんかできないですよ。この街がどう生きていくか全体像を示すことができなかったから、若い人は痺れをきらして出て行くんです。計画の全体像を早く出して、各論をゆっくりつくっていく、ということが必要だったんですね。
若い人に魅力がある街をどうつくるか、ということが、だから問題なんですね。正直、僕が関わっているところでも暗いですよ。つい、それだったらみんなして都会に出たらどうですか、なんていいそうになるくらいなんです。漁業を担っている中心は、80歳ですよ。後継者がいなくなるとわれわれは美味しい魚が食べられなくなるわけでしょう。深刻ですよ。
小さな解答が一杯!? 孵化過程
- 牧:ちょっと暗くなりかけていますので、そろそろ、これから10年、明るくなるような展望をどうですか。竹内さん。エエ話ないですか?
- 竹内:ちょっと一旦パスします。
- 室崎:跡地をどう使うかについては、コンペをやったらどうですか? ぼろぼろの仮設をどう活用するかとか。歯抜けの街をどういうふうにすれば魅力的にできるかとか。若者が住みやすくなる街はどんな街かとか。コンペをしていいものがあれば、実際やってみる。山元町についてはいい宿題もらったと思います。困った、困ったというだけで、どうにもならないんでしょう。
- 槻橋:僕が関わっている唐桑に限りませんけど、三陸は豊かな自然をもっているわけで、まず小さくてもいい、マイクロビジネスというか、そういうのでやっていいんだ、ということが大事じゃないでしょうか。気仙沼にしても若い人たちが戻って住むぞ、という人たちがいるんです。小さな動きでも復興の機運をつくっていっている。一から街とか村をつくっていくわけですから、いきなり全てをつくるというわけにはいかない。外からやってくる人と一緒になってやるという場合もある。石巻2.0にしても、いろんな面白い動きがでてきてますね。大きな解答ではなくて、小さな解答が一杯でてくるというのがいいんじゃないか。そういうインキュベーションの段階にあるんじゃないか。
- 室崎:私も、そう思います。こういうことができる、という夢を与えることが必要。それは建築家の仕事だと思いますよ。
人と人の出会いと繋がり
- 姥浦:
石巻市:こどもたちのイベント
撮影:竹内 泰
石巻は、私も少し関わらせていただいていますが、新しいまちづくりの方向もでてきているんじゃないか、と思います。これまでの神戸以降提起されてきた住民主体のまちづくりのステージをちょっと越えた動きも見えるんじゃないか。外の人も新しい人も巻き込むやり方がある。それと、今までのような量を増やす、人を維持するというのとは違う。質的に自分たちらしさをどう出していくかが問題になる。そういう価値観の転換が日本全体でも必要ですね。人口減少していくわけですから。
- 牧:仮設をどうするか、跡地をどうするか、ということがやはり気になるんですが。
- 姥浦:空地をどうするか、どう活用するかというのは、量の発想ですね。空地は空地でいいじゃないか、もともと山だったところを切り開いて造ったんですから。もともと都市だったところは山になってもいいんですよね。人口が減っていくんですから。産業活動も減るとすれば、面積は減ってもいいんですよね。戻していけばいいんです。一番問題になるのは、土地の所有権の問題だと思います。価値がないところの所有権をどうするかですね。
- 竹内:実際、多くの人びとが交流した事実は、いいことだったと思います。それまで地元の人びとが経験したことのない圧倒的な交流があったと思います。それをどこまで維持できるかということになるのかもしれませんが、交流経験によってまちのリテラシーが上がっているのではないか、と思います。その経験に期待したい。
- 姥浦:交流したことは楽しいんですね。
- 竹内:マスコミは、地元の人びとのインタビューをして、忘れないでほしい、といった情緒的な点をことさらフォーカスしますが、多くの人びとと出会ったことが、変わるきっかけ、新しい動きのきっかけとなっているので、それはそれで十分じゃないのか、と思うのです。
- 室崎:神戸でも何が一番良かったか、というと、人と人とのつながり、絆といいますね。人と人がつながったということはすごい財産ですよね。それをどう空間に落とし込むかがわれわれの仕事ですね。
応募者がいなくてできる空地なんですけど、僕は公有地にしろといっているんです。ぺんぺん草が生えるようだったら、入会地にしてコミュニティの財産にする、財産として使ってください、みんなで考えてください、とすればいい。そこで人と人の繋がりが生きていくんじゃないか。知恵もでてきて、新しい使い方も出てくるんじゃないか。行政がただ持ってるんじゃなくてね。
- 姥浦:私も、空地、空家はコミュニティに渡すのがいいんじゃないかと思います。私が死んだらコミュニティで使ってください、というような仕組みができないか、と思うんです。
- 槻橋:それはいいですね! 臓器移植のドナー制度ではないですが、まちなかの空き地・空き家対策の考え方として、眼を見開かれるような気がします。シュリンクしていく街の土地をもういちどコモンに返すプロセスがあれば展望も開ける。
- 室崎:若い人が来たいと言ったら、ここを使いなさい、といったこともできる。未利用地をコミュニティに委ねるというのはとても大事なことです。
- 姥浦:シュリンク具合が問題で7割ぐらいだとなんとかなるかもしれないけれど、9割となるとアウトかもしれない。
仮設の解消ⅰ
- 牧:
釜石市平田:仮設住宅
撮影:竹内 泰
仮設住宅での生活が5年を超えそうというのはやはり大きな問題だと思うんです。なかなか解消できない。神戸と東北が全く違うのは、区画整理とか防災集団移転の面的な整備ができないと仮設から出られないんです。神戸の場合は、面的整備事業の対象地域の人の方が少数で、個別に再建が進めることができたので、区画整理が終わらなくても公営住宅が完成すれば仮設を解消することができたのです。しかし、東北の場合は、仮設住宅に住んでいる人は、基本的に面的整備事業の地区の人なんです。だから、大規模な土地造成が終わらないと、動けない。5年超えますよね。仮設に5年以上住むというのは今回初めてだと思うんです。現場の事務所で使われる規格建築タイプの仮設に5年以上に住むのはとても無理ですから、居住環境の改善も必要だと思います。
- 室崎:僕は、雲仙の場合もそうでしたけど、壊しやすい公営住宅つくればいいと思う。踊り場のデザインの問題ですね。「フクシマ」もそうで、「フクシマ」も踊り場がすごく長くなる。踊り場では、仮の住まいではなく、しっかりした住まいを提供すべきですね。
釜石市平田:仮設住宅
撮影:竹内 泰
いい仮設は手当をしてしっかり住めるようにする。悪い仮設は壊して仮設を新たにつくらないといけない。
- 牧:あんまり知られていないんですけど、神戸の場合、仮設の集約はやっていないんです。仮設の集約も未経験なんです。東日本大震災では、仮設商店街の移動もおこなわれて、盛り土をするために仮設商店街を壊すというようなこともやってるんですね。
- 槻橋:仮設を中心に見て回っているわけではありませんが、様々ですよね。小さな仮設団地ですと、もともとある程度のコミュニティが存在するんだけど、大規模な仮設団地になると、都会と同じような関係ですよね。もちろん、そこにある程度コミュニティが生まれていくわけですけど、街に引っ越したような感覚になる。雄勝の場合、石巻に住み始めるとなかなか戻る気にならないんじゃないか。仮設居住を経て戻るかどうかはなかなか難しい問題だと思うんです。「フクシマ」の場合、帰還政策をとるというのですが、戻るに戻れないという事情も起こってきている。
気仙沼市鹿折:移動される仮設商店街
撮影:竹内 泰
津波被災地の場合も、仮設期というのがある変換期になっていくと思います。いい悪いではなくて。大槌なんかは、40ヶ所ぐらいの小さな仮設団地ができてますが、それぞれ集まって話し合う機会もなくなってしまっている。その環境で子供たちが育っていくわけです。
- 牧:不可逆なので、簡単に戻れない。新たなコミュニティもできている、とすると、仮設の集約をやらざるを得ないのではないか。もう3年経って今後、どういった問題が発生するのかについても予想ができるわけですから、いま手を打つべきだと思うんです。事業用仮設住宅を上手く使うとか、高性能の応急仮設住宅の2戸を一戸にしてそこに集約するとか、空き公営住宅を使うとか、8年という時間を見据えて恒久住宅に移るまでどうするのか、ということについて早急に対策を打つ必要があると思います。
- 室崎:それに加えて、僕はやはり踊り場を増やすべきだと思いますね。選択肢を増やす。1,000万あげるからそれぞれ土地を見つけてください、といったこともやるべきじゃないか、と思う。コミュニティがしっかりしているところは隣の人と一緒にマンションを借りるということもあるかもしれない。一旦キャンセルをした人を見ると、子育てが終わるまでは戻れないということはあるでしょうから、30年後でも10年後でも戻ってきていい、というふうにする。戻ってくる場所だけは残しておいたらいい。「フクシマ」も一緒ですね。
- 牧:
和歌山県の漁業集落
地域の生き残りのために事前復興計画が必要
撮影:牧 紀男
東日本大震災の復興における現在の課題がよく分かりました。東日本大震災の復興はまだまだこれからも続いていくのですが、個人的には、今後予想される西日本大震災(南海トラフ地震)にどう備えるのか、という面で多くの学びがありました。当然のことですが、災害前からしっかりと地域に関わっている・関係を持っている人が強いなと思いました。阪神・淡路大震災の経験を持っているぞ、という触れ込みで関西の人が東北に行きましたがなかなか受け入れてもらえなかった。その一方、やはり関東の人は東北と関わりが強い(関西では東北出身の学生もほとんどいません)、復興で重要な役割を果たしている。
今、事前復興計画の「談合」をやろうとしています。これは阪神・淡路大震災の被害調査・復興支援の事前復興版ですが、今から誰がどこに関わるのかを決めて、関わっていこうという試みです。人口減少、少子高齢化は紀伊半島・四国は、東北と比べてもずっと深刻です。そういった地域を地震・津波が襲う。地域の生き残りということが問題となってくると思います。今後、東北で活躍した人の経験を如何にして西に居るモノが学び、活かしていくのかということが重要になります。美味しいお魚とお酒、それから受け入れ体制を準備しておきますので、東北の復興が一段落したら、復興に関わられた専門家の人が大挙して押しかけていただければと思います。今日は、「フクシマ」の問題についてあまり議論ができませんでしたが、別の機会でしっかりと議論する必要があると考えております。本日はどうもありがとうございました。
(記録・文責 布野修司)
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