2014年10月1日に、建築学会建築文化事業委員会主催の建築文化週間2014の一環として、恒例のシンポジウム「建築夜楽校2014」が開かれた。ここ1年以上ずっと様々な問題が指摘され、是非の議論を生んでいた新国立競技場問題について第1夜「新国立競技場の議論から東京を考える」で取り上げることにし、異議申立てを行った槇文彦氏と審査員の一人であった内藤廣氏をはじめ、特にコンペ史の観点から問題点を指摘する青井哲人氏、異議申立てや景観問題の指摘に対して再反論を行う浅子佳英氏、複数のメディアに意見を提起する五十嵐太郎氏を招いて、討議を行った。
そのレポートを書くよう仰せつかったが、すでに筆者は別の場所で2つのレポートを書いている。一つは『地域開発』2015年1月号で、6000字弱でレポート的内容に加え、筆者の意見を提出した。もう一つは『建築雑誌』2015年2月号で、ここでは学会誌として正式なレポートを書く予定である。加えて、『10+1 web site』のPICK-UPコーナーで、当日のシンポジウムの内容が文字起こしされて公開されている(
http://10plus1.jp/monthly/2014/11/pickup-01.php)。シンポジウムに関して詳しくは、これらの内容も参考にされたい。さらに、この問題はリアルタイムに動いており、日々関連する新しい情報が入ってくる。したがって本稿では、できるだけ上記の原稿で触れられていないことを中心に、新国立競技場問題の現在について触れておきたい。
問題のシンポジウム「新国立競技場の議論から東京を考える」では、何が議論されたのか。各論者の大筋の意見を列挙しておく。内藤氏は、審査員の立場から、現実的な時間のなかで、コンペの結果とこれまでの経緯を尊重すべき状況にあることを述べた。槇氏は、時間がないという内藤氏の意見への反対を表明し、ザハ・ハディド案の技術的問題を指摘した上で、機能を単純化した穏やかな規模の建築にするべきことを強調した。浅子氏は、槇氏に再反論し、ハディド案が将来的に評価されないとは限らない点などから、同業者である建築家がコンペで決まった案に反対すべきでないことを主張した。青井氏は、問題系を俯瞰しつつ、複数の主体の意思決定が重層的に絡み合うなかで、建築家の役割が明確にならないことこそが問題の根源であることを指摘した。五十嵐氏は、表層的なデザインでなく、施設のプログラム、政治的な意思決定、オリンピックのあり方まで踏み込んで議論できれば、戦後初の民主的オリンピックになると述べた。
よって、ここでは意見の対立が解消されたものではないが、新国立競技場問題とは何かということが、より鮮明に浮かび上がったといえよう。青井氏の指摘は、その中核を占めるかもしれない。すなわち、建築家とは何か?その役割と責任を日本は曖昧にしてきたからこそ、このような問題が生まれてしまったということである。
磯崎新氏は、11月に新国立競技場問題に言及したが、コメントの焦点はこの建築家問題でもあった。コンペで選んだのは、ザハ・ハディド「案」ではなくザハ・ハディドという「建築家」であったと考えるべきで、問題があったプログラムを改めて、再度本人に設計させるべきという意見である。多少敷衍すれば、建築家に十分な決定権を与えよ、優れた建築家は政治的判断も含めたデザイン的解答を出せる、という意見だとも言えるだろうと、筆者は考える。
なお、新宿区の東京オペラシティアートギャラリーでは「ザハ・ハディド」展が開催されたが(2014年10月18日から12月23日)、そこでは建築作品はもちろんプロダクトから都市計画までハディド氏の多くの作品が展示されており、建築家としてのザハ・ハディド氏の姿をかなり正確に知ることができた。ハディド案への批判をするにせよ、この展覧会は必見の内容だったと思われる。多数のプロジェクトの最後に新国立競技場が位置しているが、おそらく展覧会を順に見ていけば、このプロジェクトだけがハディド氏らしくないデザインにおさまっていると感じる人も多かったであろう。その原因をよく考える必要がある。問題の大半はハディド氏の側ではなく、コンペを主催した日本側のどこかにあるだろうことが、見えてくるからである。
2014年12月8日、イギリスの建築系ウェブマガジン『Dezeen』誌は、この問題に対するハディド氏の見解を掲載した(
http://www.dezeen.com/2014/12/08/zaha-hadid-tokyo-2020-olympic-stadium-criticism-japanese-architects/)。日本人建築家がこのプロジェクトを批判していることが、彼らにとって「恥ずかしい」ことである、というのがハディド氏の集約された意見のようである。しかし記事を読んで強く感じるのは、個人的な人間関係に起因する彼女の悲しみである。その原因は、批判に賛同する署名のなかに、ハディド氏の日本の友人が多くいたことのようである。ただし署名がなされた後、この問題に対して積極的な発言を行っていない建築関係者も多数いることは、ハディド氏に届いていないように思われる。つまり、賛成、反対という明確な立場を取ることが容易ではない問題であることを、多くの日本人建築関係者が認識していることは、記事を読む限り、あまり本人には伝わっていないように思われる。現時点では十分な情報をもとに、ハディド氏が反論しているとは思えない。よって、この記事を日本からの批判への反論と読むより、現在のハディド氏の心境を知ることが出来る記事として、受け取るべきだと思われる。
いずれにせよ現在のところ、新国立競技場問題でもっとも奇妙に思われるのは、コンペの勝者であるハディド氏抜きに、議論が日本のなかだけで進行しているところである。日本語と英語という言語の壁はあるとしても、コンペに勝利した建築家には関係がないとばかりに、それ以外の人々に発言が向けられてきたように思われる。筆者は2014年10月の時点で、この問題に関するできる限りの言説などを集めたつもりであったが、ハディド氏本人に直接届けようとしたものはほとんどなかった。もしもコンペの勝利者が日本在住の日本人建築家であれば、同じような議論が展開されていたであろうか。現状では、そのような疑問がつねに残る。
したがって、現時点でこの問題に対して筆者がまだ足りないと感じることは、日本国内の議論を世界へと発信することの努力である。国際設計競技を行い、外国人が最優秀賞を取っているにもかかわらず、現時点では詳細な議論が日本語以外でなされているようには思えない(筆者が確認したいくつかの英語の記事では、日本でのこの問題に対する出来事が、相当に簡略化されてしか紹介されていなかった)。そして、海外の人々の意見も、議論に取り込まれるべきであろう。この問題は、やはり建築界だけの問題ではなく、東京オリンピックのメインスタジアムという大きな問題であるのだから、ホスト国としての責任も含め、もう少し世界に開けた議論をするべきではないだろうか。そして、最優秀賞を取得したハディド氏本人に、多様な意見があることを届けるべきことであるように思われる。そのことによって建築家が生み出すことができる新しい解決方法も、ありえるのではないかと筆者は考える。