建築討論

AIJアジア国際建築交流2014

第10回ISAIA「文化促進建築進歩 Cultural Elements in Architectural Advancement」報告
布野修司 (滋賀県立大学副学長・理事)

 2014年10月14日~17日、中国浙江省杭州(之江飯店)で開催されたアジア建築交流国際シンポジアムISAIA(International Symposium on Architectural Interchanges in Asia)に参加した。1986年に日本建築学会の100周年を記念して開催されたのが第1回(福岡、京都、東京)で、アジアの建築交流を続けようということで日本建築学会が提起し、日本・中国・韓国で2年毎の持ち回り開催を決定した第2回(神戸、1998年)以降、第3回済州島(2000年)、第4回重慶(2002年)、第5回松江(2004年)、第6回大邱(2006年)、第7回北京(2008年)、第8回北九州(2010年)、第9回光州(2012年)と続けられ、今回が第10回である。
 筆者は、この10回のうち、済州島を除く全てに参加してきた。重慶の時には、『建築雑誌』の編集委員長であったことから「アジア特集」を組んで座談会を開催したし、松江開催は出身ということで実行責任者となった。前回光州では代表団の一員として、ISAIAの今後をめぐる議論に参加した。今回の開催地については、青島もしくは烟台ではどうかと聞いていたが、中国建築学会内部の議論の経緯で杭州になったようだ。重慶の時も烏魯木斉(ウルムチ)開催ということだったけれど、四川省に変更になった。中国の場合、各省に置かれた支部が強力だから開催地には困らない。以下に、これまでのISAIAとも比較しながら第10回ISAIAについて報告したい。
 筆者にとって、杭州は極めて親しい都市である。中国都城研究の一環として、2010年、2011年と続けて、五柳巷歴史街区について臨地調査を行った。まさに、この2010年から2011年にかけての1年の間に地区は歴史街区へと修景復元される。実は、その結果を見届けるのも今回の杭州行の目的の一つであった。2011年に世界文化遺産に登録された最近の杭州の街についても報告したい。

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1. 開会式

 大会第一日の開会式(写真01)では、三会長(車書剣1、吉野博、金貢禹)の挨拶に加えて、浙江省土木建築学会理事長、談月明氏の歓迎の挨拶があった。そして続いて、今回開催に当たって多大な尽力があった関連諸団体代表数十名が開催式に招待され、三会長から記念品の贈呈が行われた。中国建築学会は、建設部(日本で言えば国交省)の内部組織であるから、ISAIAは国家的事業の一環である。重慶(第4回)ではホテルと様々な会場とのバスでの移動がパトカー先導で行われたことを思い出すが、この運営力は羨ましいといえば羨ましい。彼我の違いといえばそれまでであるが、頭が痛いのは2016年の日本開催である。毎回、日本開催は資金に苦労してきているのである。
 翳りを見せている中国経済であるが、日本に比べればというより比べるまでもなく、中国建設業界は元気である。レセプションで渡されたプロシーディングやお土産の中にプログラムとともに冊子展示会(写真02,03) 用の冊子が入っており、今回協力単位となった浙江省建築設計研究院、浙江大学建築設計研究院有限公司以下、諸集団の作品がずらりと並んでいる。圧巻である。浙江省の建築界の実力を一覧することができる(写真04,05,06,07)。
写真1 撮影:筆者 写真2 撮影:筆者 写真3 撮影:筆者
写真01                 写真は全て撮影筆者 写真02 写真03
写真4 撮影:筆者 写真5 撮影:筆者 写真6 撮影:筆者
写真7 撮影:筆者 写真04~07  

  • 1 中国建築学会理事長の車書剣氏は病気のため欠席、副理事長兼秘書長の周暢氏が代理を務めた。

2. 基調講演テーマ

 開会式に続く基調講演は各国から三氏が登壇、中国語⇔英語の同時通訳のかたちで進められた。前回光州でのISAIA運営委員会では、中国で都市開発の速度が速すぎて心配だから歴史的街区の保存といったテーマではどうかということであったが、選ばれたテーマは「文化促進建築進歩 Cultural Elements in Architectural Advancement」である。テーマ選定は基本的に開催国に委ねられる。そして、各国がそのテーマに相応しいスピーカーを選定する。これは「21世紀のアジア建築 Asian Architecture in 21st Century」を掲げた第2回以降一貫している。
 「新世紀に向けてのアジア建築の挑戦と役割 Challenges and Roles of Asian Architecture for the New Millennium」(2000)、「建築資源と近代技術 Resource Architecture and Modern Technology」(2002)、「地球環境とアジア建築の拡散 Global Environment and Diversity of Asian Architecture」(2004)・・・とテーマと言ってもキーワードと言ったほうがいいが、振り返れば、基調講演の内容のそれぞれはその時々の時代を映し出してきている。第7回では都市再開発がテーマとなり(「都市再開発と建築創造 Urban Renewal and Architectural Creation」(2008))、第8回で「未来への秩序と知恵についてのアジア的視点 Asian View:Order and Wisdom for the Future」(2010)を問い、前回、そもそも「建築における技術的進歩 Technological Advancements in Architecture」とは何かが問われた上で、今回、建築進歩における「文化的要素」がテーマとされたという流れである。筆者自身は、第6回の大邱の「A+T: アジア建築の新たな価値 Neo-Value in Asian Architecture 」(2006)において、「Towards an Architecture based on Vernacular Values in the Regions: On Paradigm of Asian Studies for Architecture and Urban Planning」と題する基調講演を行わせて頂いた。

3. 語言・意境・境界

写真8 写真9
写真08 写真09
 今回、中国からの基調講演者は程泰寧氏(東南大学建築設計理論研究センター主任、中国連合工程公司総建築師)、題して「語言・意境・境界―東方知恵在建築創作中的運用―Language, Atmosphere, Realm: Application of Eastern Wisdom in Architecture Creation 」2であった(写真08.09)。講演は大きく2つに分かれており、前半は、建築理論の再構築をめぐる哲学的考察、後半は、作品群の解説であった。前半の理論編は必ずしも理解できたわけではないが、「西方建築」が一般化し、中国建築の独自性が失われていく要因を言語(哲学)の優位にみた上で、その克服の方向を中国哲学に探ろうという構えのように思えた。「大美不言」「天何言哉」「以形写神」といった言葉が印象に残る。「語言・意境・境界」というのは、建築に置き換えれば、「形式・空間・環境」であり、結論はいささか単純であるが、その三者の調和が大事だということのようであった。形式、形のみでは駄目だ、新奇な形のみを弄んではならない、ということである。
 それに続く作品解説は3つのカテゴリーに分けられ17プロジェクトに及んだ。大幅に時間が延びていささかイライラさせられた。しかも、次から次へと形を弄ぶような作品が続いて、前半と後半が結びつかないのである。建築理論家として知られる程泰寧氏による作品に即したじっくりとした解説を聞きたかったと思う。

  • 2 梗概タイトルは「語言与境界-建築創作中東方知恵的運用」であったが変更された。

4. 建築文化における進歩的要素

写真10 写真11
写真10 写真11
 続いて、日本からは中川武先生が「建築文化における進歩的要素―建築進歩と日本歴史における文化要素との関係―Advanced Elements in Architectural Culture: Relationship between Architectural Advancements and Cultural Elements on History of Japanese Architecture」と題して基調講演(写真10,11)。 これはあっけなく30分もかからずに終わった。後で聞くと、前が長すぎたので時間調整に協力したのだという。建築の発展は技術革新による高さや規模の拡大にあるわけではないと、東京スカイツリー、エッフェル塔、東京タワーのそれぞれの表現の時代的な意味を説明した上で、大江宏の「歴史とデザイン」をめぐる手法(「混在並存」)、そして草庵茶室の歴史的形成を追うという構成であった。エッフェル塔は鉄という新たな素材によって伝統的な美をどう表現するかを追求しており、東京タワーは構造的合理性のみを表現しようとしている、東京スカイツリーには、伝統的日本建築の「てり」「むくり」が生かされている、それぞれ時代の表現となっている、というのはわかりやすい。アブストラクトによれば、建築の進歩は、現在の技術、生活様式、建築文化の上に、帰納、再組織化、抽象の創造的プロセスによって、象徴的に行われる。新たな建築文化が現れるのは、建築そのものの発展である、ということである。事例はわれわれには親しいが中国韓国のオーディアンスには難しかったかもしれない。

5. 地紋

 韓国から承孝相氏(IROJE architects & planners)。今や韓国の大御所、リーディング・アーキテクトと言っていいのだろう。なつかしかった。承氏がまだ無名であったころ親しくつき合ったことがある。1993年から95年にかけての頃だからもう20年以上も前のことである。紹介してくれたのは故・張世洋である。金寿根亡き後、「空間社」を継いだ張世洋とは漢陽大学の朴勇煥先生を通じて知り合った。同郷(釜山)の後輩ということだったと思う。承孝相も釜山の出身である。朴勇煥先生は大先輩だけれど鈴木成文研究室で机を並べた仲だ。張世洋とは何故か気があった。大酒のみで何軒も梯子して、夜中に事務所に帰ってスケッチする、そんなタイプの建築家だった。残念なことに、釜山のアジア大会の競技場の建設中に亡くなった。師である金寿根と同様、過労死と聞いた。そんな張世洋が連れ歩いていたのが承孝相である。可愛がっていたけれど彼が空間社を継ぐことにはならなかった。基調講演の朝、朝食の時に出会って、眼を見つめ「布野だ!」というと「おー!随分御無沙汰」と日本語で答えた。パーティでじっくり話そうと思っていたけれど、彼の姿を見つけることはできなかった。忙しくて早々に引き上げたのだと思う。
 基調講演のタイトルは「地紋 Landscript」。韓国語の発音では「teomunee」。地面に描かれたパターンのことである。「・・・指紋や手相のように、過去の記憶は全ての土地に刻まれている。あらゆる指紋が異なるように、あらゆる土地片も異なる。我が生活の記録と物語は土地の上に書かれる。土地はそうして雄大で高貴な歴史の書物となる。これを地紋と呼ぼう。・・・」と梗概にある。
写真12 写真13
写真12 写真13
写真12 写真13
図1 図2
 伝統的韓屋「独楽堂」の読解から開始された承孝相の講演は、彼の処女作から近作まで一気に早口に説明するものであった(写真12,13)。そうした意味ではこの20年の彼の歩みを知ることができてうれしかった。変わらないなあというのが第一の感想であり、その一貫性が頼もしく思えた。手元に、1993年に出雲建築フォーラムが第3回シンポジウム(「朝鮮文化が日本建築に与えたもの」)に招いた時のレジュメがある。当時は、TSC代表である。T=テーマ、S=サイト、C=同時代である。金寿根をいかに乗り越えるかを語った記録である(図1,2)。
 興味深かったのは、釜山のパジュブック・シティなどマスター・アーキテクトとして街づくりへとその仕事の領域は広がっていたことである。そして、初期住宅作品からの軌跡は、山川山荘から一貫して住居集合のあり方を追い続ける山本理顕さんに似ているなあと思った。最初にあった1990年代初頭、張世洋たちは北朝鮮との非武装地帯DMZの自然をそのまま永久保存しようと議論していたのであるが、そうした趣旨の施設を実現しているのも印象的であった。
 そして、現在ソウルの東北部で行いつつある住宅地(1000戸、19ha)の再開発プロジェクトに大いに刺激を受けた。「カンポンの世界」そしてカンポン改善事業KIPを思い出したが、地形はいじらない、細い路地の体系も変更しない、住民の生活スタイルは変更しないという原則のもとに地区を分割し、それぞれコミュニティ・アーキテクトにその計画を委ねる手法を採るのである。
 講演は、自ら命を絶った盧武鉉第16代大統領の墓地公園計画で締めくくられた。

6. 特別セッション

 初日の午後は、特別セッションとして、A Architecture、B Engineering二部屋に分かれて、それぞれ6人による講演があった。この特別セッションの形式については、特に決められているわけではない。担当国が決めることになるが、会場の制約条件が大きい。パネルディスカッションなど、実質、日中韓で同じテーマについて議論できればいい。
 このセッションは、上述の杭州行のもうひとつの目的のためにエスケープさせて頂いた。スピーカーと演目を掲げさせて頂く。
    Special session: Architecture
  • Zhang Lingling: “Red” in Architectural Creation,Dean and Professor of School of Architecture and Urban Planning, Shenyang Jianzhu University
  • Xu Lei: The Reflections Stimulated by a Preservation Project Design of an Ancient Town in Zhejiang Province,Director of Architectural Design and Theoretical Research Institute of Zhejiang University, Professor of College of Civil Engineering and Architecture, Zhejiang University
  • Nobuaki Furuya: Toward Real Communication age, Through Project Based Learning for Architectural Education,Professor of Waseda University,Vice President of AIJ
  • Akiko Watanabe: Biofied Architecture - Toward new architecture material, energy and information integrate,Associate Professor of Tokyo Denki University
  • Lee, Jae-Hoon: Making a New Sound Environment Based on Smart User Needs, Professor of Dankook University
  • Kim, Donyun: Sharing Urban Knowledge to Create the City Ecosystem of Large and Small Cities,Professor of SungKyunKwan University
  • Special session: Engineering
  • Ding Jieming: Current Situation and Discussion of Structural Design for Super High-Rise Buildings above 250m in China,President and Professor of Tongji Architectural Design (Group) Co., Ltd
  • Yuan Jing: Application of the Diaphragm Wall with Outrigger,PhD, Senior Engineer of Professor Level of Zhejiang Province Institute of Architectural Design and Research
  • Masato Motosaka: Lessons from the 2011 Tohoku Earthquake Focused on Building Damage,Professor of Tohoku University,Director of AIJ
  • Kazuo Iwamura: Sustainable Housing for Human Security,Professor of Tokyo City University,Ex-Vice President of UIA (2008-2011)
  • Moon, Hyeun-Jun: Real-time Model-based Building Energy Management System for Continuous Commissioning,Professor of Dankook University
  • Kim, Chee-Kyeong: StrAuto: Parametric Structural Modelling and Optimization System,Professor of Sunmoon University

7. 論文発表

 第2日(10月16日)は、朝から論文発表である。発表題数306題(建築計画107題、歴史理論32題、都市計画・ランドスケープ・デザイン38題、エンジニアリング24題)、日本76題(うち26題は留学生)、韓国69題であった。基調講演を行った程泰寧主任以下審査委員会が組織され、実際は400題を超える応募があったが100題近くは採用されなかったという。ポスター・セッションは今回設けられなかった。
 ISAIA常連の先生の顔が少なく日本からの参加者はやや少なくなった印象であったが、若い先生の研究室の参加があり、着実にバトンタッチが行われつつある印象をもった。漢字文化圏の日中韓が英語でやり取りするのも妙だと思い続けてきたけれど、今や中国、韓国の研究者の英語の能力は日本を凌駕する勢いである(写真14~20)。
写真14 撮影:筆者 写真15 撮影:筆者 写真16 撮影:筆者
写真17 撮影:筆者 写真18 撮影:筆者 写真19 撮影:筆者
写真20 撮影:筆者 写真14~20

8. エクスカーション

写真21 写真22
写真21 写真22
写真23 写真24
写真23 写真24
 第3日(10月17日)は、恒例のエクスカーションである。杭州市内のツアーA(西湖―雷峰塔―胡雪岩故居―河坊街)と郊外に出かける現代建築ツアーB(中国美術学院象山キャンパス Xiangshan Compus of China Academy of Fine Art(王澍)-西溪湿地博物館 Xixi Wetland Museum(磯崎新))が用意された。
 杭州は、南宋の都、臨安が置かれた古都である。西湖畔に立地するその都市形成の歴史は補遺とするが、中国都城の歴史において、宮城が南に置かれる極めてユニークな古都である。白居易による白堤、蘇軾(東坡)による蘇堤が知られ、景観の見どころは西湖八景と呼ばれる(写真21,22)。雷峰塔は、西湖岸に立つ五層八角の塔で、五代十国時代の呉越国に遡る。1924年に倒壊したものを2002年に再建、その下部には遺構がそのまま残されている。「雷峰夕照」と称されるが、民話「白蛇伝」で、白蛇姫が夫をとり戻すために鎮江の金山寺の僧と戦い、力及ばず僧の法力で閉じ込められてしまった場所としても知られる(写真
写真25 撮影:筆者 写真26 撮影:筆者 写真27 撮影:筆者
写真25 写真26 写真27
23,24)。胡雪岩故居は、鼓楼の東に位置する清末の豪商の邸宅である(写真25~27)。河坊街は、その西北に位置する歴史的繁華街である(写真28~30)。
 参加したのは現代建築ツアーBである。中国最初のブリツカー賞受賞者、王澍(アマチュア・アーキテクチュア・スタジオ)の作品が見たかった3。それに磯崎新の中国での仕事を見るのも初めてで興味があった。
 実は、王澍の「寧波博物館」(写真31~33)は、寧波の街と河姆渡遺跡を訪れた際に見たことがある。石の使い方が荒々しく、デコン風の表現に、中国もようやく力のある建築家が出現しつつあると思った。ただ、大空間を持て余しているようで、そんなに感動するということはなかった。また、杭州の御街の作品群(写真34~40)は実に興味深いタウンアーキテクトの仕事だと評価し、面白いと思っていた。南宋代の御街が発見されたのは2004年であり、王澍はすぐさま学生たちと街並み調査を開始し、現代的再生を提案、実現させた力量は大変なものである。ただ、四阿などの作品はいささか荒くて素人っぽいと感じていたー彼らがアマチュア・アーキテクチュア・スタジオと名乗っていることは最近知ったー。
 「中国美術学院象山キャンパス」(写真41~47)は、期待以上であった。王澍の才能と力量に疑いはない。広大なキャンパスの諸施設を順次任される幸運をまず思った。そして、王澍が基本的にコルビュジエアンだということを理解した。ロンシャンの教会を思わせる窓の開け方がまずわかりやすいが、彼の作品から素材を剥がしていくと浮かび上がる空間の骨格の基礎にはコルビュジエ作品の徹底した解析があるように思えた。単なるマネ?ではない消化のされ方がある。もちろん、石、木、土(磚、瓦)、鉄のハイブリッドな使い方についての格闘が王澍の独自の世界をつくりあげるのに大きく寄与している。
 磯崎新の「西溪湿地博物館」(写真48~52)は、らしい、というか、健在なり、というか、磯崎新の作品系列の中では佳品に思えた。とは言え、知らなければ磯崎新の作品とは思わなかっただろう。あらゆるスタイルがごった煮状態の中では佳品に思えたということである。湿地博物館ということで、毛綱毅曠の釧路湿原博物館を想い起したが、「西溪湿地博物館」の方がスマートであり、吹き抜けを斜路でめぐるプランニングもオーソドックスである。集合住宅やホテル、ショッピングセンターも含んだ「西溪天堂」全体含めて、思ったより施工精度がいい。ただ、湿地を眼前にした展示内容はプアであり、「西溪天堂」に空き店舗も多く、開発プロジェクトとしてはそううまくいっていない印象を受けた。
写真28 撮影:筆者 写真29 撮影:筆者 写真30 撮影:筆者
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写真34 撮影:筆者 写真36 撮影:筆者 写真40 撮影:筆者
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写真48 撮影:筆者 写真49 撮影:筆者 写真52 撮影:筆者
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写真51 撮影:筆者 写真48~52

  • 3 王澍および最新中国建築事情については本号(WEB版『建築討論』003号)市川紘司「21世紀中国建築論とアイコン建築の終焉について」参照。
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 五柳巷歴史街区の変貌には驚いた。中国の古都ではむしろ修景というより造景というのに近いかもしれないが、写真でその変貌をみて欲しい(写真B1A1~B5A5、Before=2010年、After=2014年)。また、この間の杭州の変貌を見て欲しい(図3,4)。中国の古都、歴史的都市はみなそうであるが、20世紀末から21世紀にかけて、北京オリンピック(2008年)、上海万博(2010年)までの間に激変した。北京のみならず、西安、洛陽、開封、南京、そして杭州、全てそうだ。
 中国都市のこの間の変貌については、かつての日本、第二次世界大戦後から1930年代の日本の変化を思わせる。ただ、五柳巷歴史街区の保存修景の手法は、日本では思いもかけない。伝統的町並みあるいは景観についての考えは日本と中国は異なるように思える。マルコ・ポーロが、世界一の都市と絶賛した杭州(臨安、行在)の現在の建築、都市計画の現在を考える必要がある。中国と日本における違いというより、建築、都市計画に内在する議論があると思う。
 上述に紹介したように杭州の歴史的街区河坊街の保存修景の試みがある。そして、王澍の御街の修景的中心街活性化の試みがある。そして、五柳巷歴史街区の強引な再開発事業がある。こうしたことは、日本も経験し、なお、東日本大震災の復興計画で問われていることである。こうしたことこそ、ISAIAで議論すべきではないか。2年後は仙台で開催したいと吉野博会長が強く主張されたと聞いた。
 前回、光州(韓国)大会で、大韓建築学会から、通常的議論のメディアの設定など、数々の積極的提案があった。それが引き継がれていない。是非、やるべきだと思う。
写真B1 撮影:筆者 写真A1 撮影:筆者 写真B2 撮影:筆者 写真A2 撮影:筆者
写真B1 写真A1 写真B2 写真A2
写真B3 撮影:筆者 写真A3 撮影:筆者 写真B4 撮影:筆者 写真A4 撮影:筆者
写真B3 写真A3 写真B4 写真A4
写真B5 撮影:筆者 写真A5 撮影:筆者
写真B5 写真A5

写真B1 撮影:筆者 写真A1 撮影:筆者
図3 杭州全体 取り壊し 図4 杭州全体 新しく建設
 

杭州補遺(布野修司著『大元都市―中国都城の理念と空間構造、そしてその変遷―』より)

 靖康の変(1127年)によって宋は大きく変転する。金による拉致を逃れていたことから帝位に就いた康王(高宗)は、沿岸諸都市を転々とするが、最終的に落ち着いたのが杭州である(1138年)。以降、南宋と呼ぶが、宋王朝にとって首都は開封であって、杭州はあくまで臨時政府の所在地である。だから、州を府に昇格して臨安府と呼んだ。また、「あんざい行在」とも呼ばれた。マルコ・ポーロ(1254~1324)がキンサイQuinsayというのは行在に由来する。行在とは、天子の御旅所、旅をしてしばし足をとどめている処、という意味である。
 実際、南宋政府は既存の施設を重層的に使うことで出発する。そして、臨時とはいえ、杭州はほぼ150年の間南宋の都であり続けた。その間、新たな都城建設に向かうことはなかった。しかし、杭州の繁華さは空前のものであり、それこそ、マルコ・ポーロが「天上の都市」と称した壮麗無比な大都会となる。結果として、南宋臨安の空間構成は、中原に置かれた中国都城と比べると明らかに異質な都城となる。際立つのは宮城が城内の南に位置することである。臨時であれ、長江流域に中国都城が置かれるのは杭州が初めてである。そして、中原とは異なる都市文化の華が咲くのである。
 杭州は東シナ海に面する浙江湾の最奥部に位置する。浙江湾北岸には上海、南岸には紹興市、寧波市が位置し、湾外には多島からなる船山群島がある。浙江湾に注ぐ銭塘江は三角江をなし、世界でも最大級の海嘯が起こる。長江デルタ地域であるが、山地丘陵がおよそ3分の2を占め、西南の浙西中山丘陵から東北の浙北平原へ向かってゆるやかに傾斜している。
 杭州市余杭区には良渚文化(BC.3300年~BC.2200年頃)の遺跡がある。すなわち、その歴史は新石器時代に遡る。杭州湾南岸から舟山群島にかけての地域(浙江省東部、寧波市、舟山市)に広がっていた新石器文化を河姆渡文化(BC.5000~BC.4500年頃)4というが、河姆渡遺跡(余姚市河姆渡村)から大量の水稲モミが発見され(1973~74年、1977~78年)、これは現在のところ最古の栽培稲の事例とされている。遺跡から干欄式建築(高床式住居)が数多く発見され、高床式建物がBC.5000年に遡ることが明らかになった。
 春秋時代、杭州の地は越に属し、後に呉に属したが、楚が越を滅ぼすと楚に属した(BC.334年)。秦始皇帝の郡県制によって呉越両国の故地には会稽郡が設置され(郡治は呉県(蘇州))、余杭、富春、海塩とともに杭州に銭唐県が設置された5。この銭唐県が杭州の起源となる。当時、銭塘江の渡し場は少し上流の現在の富春県富陽桐廬付近にあった。銭唐県治が置かれたのは、現在の西湖西側に位置する山麓地帯の東部、金沙澗と龍弘澗が流れる比較的人口が集中していた地域である。その後、銭塘江の流路が変わり渡し場が杭州周辺に移ったことで、杭州が銭唐県の中心集落となる。
図a
図a 秦

 杭州は常に海嘯の侵害に悩まされてきたが、後漢末には、銭塘江の流量低下で泥砂が堆積し、現在の呉山と宝石山の岬の外に砂州が生じて、西湖の前身となる潟(ラグーン)が形成される。また、郡議曹の華信が潮害を防ぐ堤防を築いた(図a)。華信海塘もしくは銭塘と称されたこの大塘の建設は、潮害を防ぐとともに、西湖(上湖)が淡水湖に変わるきっかけとなる。
 三国時代から南北朝時代にかけて北方からの移住者が農耕技術を伝え、自然条件に恵まれた江南地区は大きく発展していくことになる。杭州地域では、とりわけ紡績、製陶、精錬、造紙などの手工業が発達した。そうした歴史の流れの中で、孫権が呉を建国する(229年)。孫権の下で、呉県(蘇州)に加え、建業、建鄂6の2つの大新興都市が出現する。また、雲陽(江蘇丹陽市)、堂邑(江蘇六合県)、銭唐、富春、永興(杭州市蕭山区)、山陽など、銭唐県を含む江浙地区の各県の人口も増加し急成長を遂げる。東晋南朝期は仏教が興隆し、銭唐県にも多くの仏教寺院が建てられ、霊隠寺7などいくつか現存するものがある。
 隋朝は、銭唐郡を廃止して(開皇9(589)年)杭州を設置する8。これが杭州の名の起源である。その後 余杭郡と改められ、唐代には再び杭州となり、さらに余杭郡に戻されたりするが、 乾元元(758)年以降は杭州の名称が清末まで使用されることとなる。
 隋代には後代の杭州を決定づける大きな基盤がつくられる。煬帝が即位後すぐの大業元(604)年に開始し、大業6(610)年に完成させた大運河の開削である。南北を結ぶ京杭大運河は、東西に流れる海河、黄河、淮河、長江、銭塘江の五大水系を連結させ、大動脈として活用されることとなる。杭州には南北の商舟・旅舟が集まるのみならず、海外の船舶も杭州湾から銭塘江さらに運河を北上し、中原の都へ向かうことになった。杭州は、広州、揚州と並ぶ経済の中心となっていく9
図b 図c
図b 隋 図c 唐

 州治は、当初、現在の余杭区に置かれたが、江南の反乱を鎮めた楊素10は、開皇11(591)年、鳳凰山麓に州治を移し、杭州城を建造させた(図b)。城郭の周長は36里90歩という11。城壁の範囲は、鳳凰山東麓の柳浦から万松嶺路付近の山を越えて西湖に沿って北に向かい、銭塘門昭慶寺付近までを北端とし、東は中河の西側までと想定されている12。武徳元(618)年に唐朝が成立すると、杭州郡が置かれ、国号の「唐」を避けて「銭唐県」は「銭塘県」と改められた13。唐代を通じて杭州州治は隋代と同じ場所にあり,杭州城は隋代城壁をそのまま利用したものである(図c)。
 杭州の都市発展にとって治水そして上水の確保は大きな問題であり続ける。沿海部では地下水に海水が混ざり飲用に適さないため、西湖の淡水を利用することが試みられる。杭州発展の基礎となる六口大井14の開削を行ったのは杭州刺史の李泌である(建中2 (781)年)。この六井は、また、杭州刺史に任命された白居易15が、長慶2(822)年、西湖に2つの堤防16を築いて上湖と下湖にわけ、下湖を街の北東側に無数にある水田のための灌漑用水池としたことはよく知られている(陳橋駅編著(1990))。さらに、刺史崔彦曽は、3つの河道(沙河)の開削を次々と行い(861年)、潮水の侵害防止に加えて、城区の面積拡大をおこなう。3つの河道(沙河)は西から、外沙、中沙、里沙17と呼ばれたが、中沙、里沙はのちに塩橋運河、市河と呼ばれ、清代まで交通運輸の機能を担うことになる。
 唐滅亡後、朱全忠によって呉越王に任じられたのは銭鏐(852~932年)18である。
図d
図d 呉越

 銭鏐は、隋唐代の杭州城を大きく拡張する(図d)。まず、大順元(890)年に杭州城の西南部を拡張して城周50里余りの「夾城」を築き、竜山門、西関門の2つの城門を設置する19。次に景福2(893)年から、城外北東部にさらに城壁を設け、城周70里という巨大な羅城を築いた(愛宕元(1997))。羅城には、朝天門、南土門、北土門(土址門)、保徳門(宝徳門)、北関門の城門が建設された20。20万の民夫と数万の13都軍士が動員されたとされる。21羅城壁上には百歩毎に敵楼が設けられていた。羅城の平面形が南北に長くまた中央部がくびれているため「腰鼓城」あるいは城垣の西北隅に外形の曲折が多くいため「九曲城」とよばれた。また、鳳凰山東麓の唐代州治の場所に「鳳凰城」と呼ばれる「子城」が建てられ、国治とされた。
 銭塘江の潮害は一貫して問題であり、天宝3(910) 年、東南の銭塘江沿岸部に「海塘」が築かれる。併せて、この「海塘」沿いまで一部羅城の拡張が行われ、竹車門が建設された。この門は南宋以後、候潮門と呼ばれる。また、同時に水門が設けられた。羅城には、西に湧金水門22、城北には北関門のそばに天宗水門と余杭水門、城東は竹車門のそばに保安水門が設けられ、城外東南部の海塘に竜山閘、浙江閘が設置された。また、杭州城内の主要な水運河であった塩橋河に沿って乾道の道路がつくられた。
 杭州は、呉越国の国都として、東府(東都)と呼ばれた越州に対して、西府(西都)と称される。呉越国のもとで杭州は大きく発展し、南京、蘇州、潤州(鎮江)を超える都市となる。手工業はさらに発達し、絹、磁器、茶、木版印刷、工芸品などが主であり、陶磁生産でも杭州の官窯は有名となる。そして、海運と水運の結節点として貿易事業はさらに発展し、日本は遣唐使廃止後も呉越国とは交易を続けている。また、銭氏は仏教に熱心であったため、仏舎利塔、仏教寺院、祈念碑が数多く建てられ、雷峰塔、保淑塔、六和塔などの創建はこの時代である。
 北宋が成立すると杭州には両浙路の路治が設置され23、大観元(1107)年には杭州府に昇格する。元祐4(1089)年には、蘇軾(蘇東坡)(1036~1101年)が杭州知州に任じられ(1089~1091年)、西湖全体の浚渫を行い、浚渫で出た土を盛って蘇堤をつくったことが知られる。銭塘江の海嘯には悩まされ続けるが、北宋時代にも度々海塘は修築されている。
図e
図e 南宋

 北宋は杭州に官営の絹織物工場を建設し(995年)、絹織物の生産を一括管理した。また、呉越時代からの木版印刷業が発展を続け、造紙業とともに栄える。さらに、端拱2(989)年に杭州に海上貿易関係の事務を所管する市舶司が設置されるなど、明州とともに長江デルタ地域を代表する外港となる。チャンパ、ルソン島、高麗、日本、アラビアなどと交易した。生糸、宝石、磁器、茶などが主要商品であった。杭州は北宋代には20万戸を数える江南地区最大の都市となる。
 北宋が金によって開封を追われると(1127年)と、副都であった南京応天府で高宗(趙構(1107~1187年)、位1127~1162年)が即位し、南宋が建てられる。建炎3(1129)年、北宋杭州府の治所を行宮とし、杭州を昇格させて臨安府とした。また、紹興2(1132)年には両浙西路の治所が置かれた。この間、高宗は金軍から逃れるために揚州、建康、杭州、越州などへ遷都を繰り返すが、紹興8(1138)年に杭州を正式に都として定め、行在所と称する。
 杭州城は、呉越国から引き継いだ城壁を基礎として修建された。南西部の城壁を縮小する一方、東南城壁は13丈拡大させ、新しく嘉会門を設けている。また、城壁強化のために版築壁の外側にレンガ壁を築いた(図e)。
 杭州は国都であり、大州の州都、銭塘・仁和両県の県庁所在地であり、これらの役所は全て城壁内に設けられた。銭塘・仁和両県の行政区画は、杭州城内と城外地区および周辺区域を含んでいる。臨安府となった当初は、1つの建物を名前だけ変えて多種の行事に使用され、その後、諸施設の建設が次々に行われていくことになる。
 南宋時代に、杭州の人口は急速に膨れ上がる。靖康の変(1126年)と臨安遷都(1138年)に伴って北部から難民が大量に流入し、居住地に事欠く事態が起こっている。南宋政府は住宅の割当を実施するが、それでも足りず、人々は仏教寺院、城外の低湿地帯や城門周辺、橋の下などへ住み着くようになり、貧民街が形成される。さらに、ムスリムの居住が増え、唯一の清真寺となる鳳凰寺が建設された24。保佑坊、文錦坊、羊堤頭一帯がムスリム居住地区であった。紹興26年(1156)には、外国籍の住民が土着民の数を超過したとされる。また、13世紀の杭州では城壁の外部にかなりの人口が溢れ出ていたという25。人口は、咸淳年間(1265年~1274年)には124万人にまで達し、南宋の杭州は世界で最大級の都市の1つであった。
図f
図f 元

 至元13(1276)年、元軍は臨安を無血開城させる。抵抗する南宋軍は南下し各地を転々とするが、1279年の2月に広州崖山で元軍に滅ぼされる。元は両浙大都督府を設置するが、すぐに廃して臨安行省とし、さらに至元15(1278)年に揚州行省と統合、江淮行省26とする。省都として杭州路(8県1州)27が置かれた。
 マルコ・ポーロは1284年から江浙行省枢密副使として3年間在任し、当時繁栄を極めた杭州「キンザイ」の様子を今に伝えている。ただ、杭州の骨格は南宋において出来上がっており、元朝が加えたものはほとんどない。元朝は軍兵を駐屯させ、周辺勢力を抑止するために修城を禁じている。火災が度々発生し、むしろ失ったものが多い。南宋滅亡の翌年、南宋皇宮は延焼で焼け、特に、至正元(1341)年とその翌年の大火は重大な被害をもたらした28。西湖は管理されず、湖面を占領して小屋を建てるために湖が埋められるなど荒廃する。
 元代末から明代初めの戦乱によって杭州をとりまく状況はさらに悪化する。至正11(1351) 年に反乱をおこした紅巾軍の徐寿輝の部隊は杭州を攻め、元朝の江浙参知政事を殺害する(1352年)。各地の農民が次々に反乱に加わったが、張士誠の部隊は江蘇の平望から立ち上がり(1356年)杭州を占拠した(1359年)。
 張士誠は、杭州を占拠後、防衛強化のため杭州城を再建する。城域は、東は現在の環城東路・江城路、西は現在の南山路・湖浜路、北は現在の環城北路、南は現在の万松嶺路の少し北である。南宋杭州城が東に向かって1.5km拡大され、これにより菜市河は城内に囲い込まれた。保安門は廃止され、東へ拡大した部分には慶春門、清泰門の2門が設置された。南は、宮城が廃止され鳳凰山が城外となり、候潮門の西部分が1kmほど北に縮小し、併せて嘉会門、東便門が廃止された。縮小した城壁に設置された門は以前と同じく和寧門と称される。西南部の城壁は、清平山と金地山の上を通り、銭湖門が設置された。清波門から湧金門の城壁はわずかに西に向かって拡張された。さらに、外城には鳳山水門、艮山水門、保安水門、武林水門、湧金水門の5つの水門が設置された。東へ拡張し、南を縮小したことにより、城内の大部分は平地となる。明清代に城壁はしばしば修築されるが、その城域は近代まで維持されることになる(図f)。さらに、張士誠は20万の労働者を率いて、東城壁の外側に沿って幅約67mの水路をつくって防御に備えている。この南北に長い城河は、運河とともに現存する。また、南宋の新開運河と合わせて京杭大運河の杭州城北地区の河道が確定する。
図g 図h
図g 明 図h 清

 この張士誠によって改変された杭州を占拠したのが朱元璋である29。杭州路は杭州府に改められ、浙江行省30が置かれて杭州府は省都となる(至正26(1366)年)。洪武9(1376)年、明朝は中書省を廃止し三司31を設け、浙江行省は浙江布政使司となり、杭州府は浙江布政使司の治所となる。
 明代には、上述のように大きな改変はないが、倭寇対策を迫られている。14世紀中葉以降、倭冦が浙江の明州、台州、温州、そして福建など沿海部を襲うようになるが(上田信(2005))。16世紀に入って倭冦の侵略は深刻化し、嘉靖34(1555)年には杭州も被害を受けたことから、浙江総督胡宗憲32が清波門の南の城壁に帯湖楼、東南の城壁に定南楼、鳳山門の西城壁に襟江楼、艮山門の東城壁に望海(跨海楼)を設けるのである。明代の城壁の改修は、これ以外には門の撤廃と門名の改称に留まる(図g)。明代には、西湖の大規模な浚渫工事が行われ、併せて楊公堤が建設される。さらに、湖中に清喜閣や湖心亭などがつくられるなど、西湖は景勝地として蘇る。
 清朝が成立すると、順治2(1645)年に清軍は杭州を占領し、順治5年(1648)年より、杭州城の西部に満城(旗営)の建設を開始する。城域は、東は現在の青年路、恵興路、岳王路、南は開元路、西は湖浜路、北は慶春路によって囲われる範囲である。建設のために1万人近くの漢族が強制的に移住させられている。満城城壁には延齢門、迎紫門、平海門、拱宸門、承乾門の5つの門と将軍橋の東、束縛橋の西、塩橋の北に3つの水門が設けられた。満城と杭州城は全く分離され、杭州城内から西湖へ行くためには迂回して、湧金門から出入りしなければならなかった(図h)。
 清朝前期、康熙帝と乾隆帝33は杭州に合わせて11回南巡している。杭州城内の絹織物業は繁栄し、官営の絹織物工場は満城の南の湧金門一帯に建設されていた。民間の絹織もかなり発展しており、別に絹織専門区が形成され、杭州は「絹綢府」と呼ばれた。
図i
図i 民国

 しかし、清末に至ると杭州は大きく転換する。アヘン戦争に乗じて挙兵した洪秀全の太平天国軍は江南大営攻略として杭州を攻め落すが、この戦火で寺院楼閣が多く破壊された(曽我部静男(1940))。また、日清戦争後の下関条約によって北部郊外の拱宸橋付近に日本租界34がつくられた。1907年には鉄道が敷かれ、清泰門内に駅が建設された。鉄路は城壁を貫き、かなりの長さの城壁が撤去された。1909年に鉄道が杭州まで開通し、杭州城駅が完成している。
 辛亥革命によって中華民国が成立すると、杭州府は廃止され、銭塘・仁和両県を合わせて杭県とし、県政府治は井亭橋(解放路と浣沙路)に置かれた35。また浙江省の省会の所在地とされ、省政府は梅花碑に設置された。
 1913年に杭州城壁と城門の取り壊しが始まる。満城の城壁がまず取り除かれ、跡地には新市場と称される商業区が開発される。西湖の周りには、新新、蝶来、金城、西湖の四大飯店や、湖濱、環湖など旅館、楼外楼、聚豊元、知味観などの菜館と功徳林など素菜館があり、また付近には、新新百貨店、張小泉剪刀店など大型商店があり、杭州で有名な繁華街となる(杭州市档案局編(2004))。銭塘門、湧金門、清波門の3門とその区間の城壁が取り壊され、湖浜路、南山路がつくられ、また湖浜公園がつくられ、西湖と市街地が一体となる。また、その後すぐに、鳳山門、候潮門、望江門、武林門、艮山門の5門が排除された。新中国建立時期、慶春門と東北城壁と西城壁の北側、これらは1950年代後半になって排除され、環城東路、環城北路と環城西路の延伸部分となった。現在は鳳山水門が残るのみである(図i)。
 1927年、南京国民政府は、銭塘道を廃止、浙江省は杭県の城区と西湖地域に杭州市を設置する。その市域は、東南は銭塘江に沿って竜山閘口まで、西南は雲栖、西は天竺、北は拱宸橋までである。市区面積は910平方公里、人口は380,031人であった。上城、下城、中城、西湖、江干、会堡、塘、湖墅など8区からなり、市政府は聖塘路(西湖)に置かれた。

  • 4 河姆渡文化は、太湖周辺から杭州湾北部に分布した馬家浜文化(ばかほうぶんか)とほぼ同時期にあたり、異なった文化が互いに影響しあいながら共存していたと見られる。河姆渡遺跡には近くを流れる姚江が2回大きな洪水を起こして流路を変えた跡や、洪水で塩水が田を浸した跡などがあり、こうした災害から遺跡が放棄されたと考えられている。
  • 5 銭唐と同時に、さらに県級建制の余杭、富春、海塩の三県5が設立された。それぞれ、現在の杭州市余杭区余杭鎮一帯、浙江富陽市・桐廬県一帯、浙江海寧市・海塩県一帯にあたる。
  • 6 孫権時代、呉の首都は揚州丹陽郡の建業(南京市)、建鄂(武漢市武昌)であった。
  • 7 東晋の咸和元年(326)、インドから来た高僧慧理によって、現在の西湖の西側飛来峰の麓に建立される。この他、法境寺、玉泉寺、広化寺などがこの時期に建立され、現存する。
  • 8 州とは一級地方の行政組織の名称であり、「杭」が「州」の名であった。このとき、銭唐、余杭、富春、塩官の4県を管轄していた。
  • 9 貞観年間(627年~649年)には人口が15万人であったが、開元(713~741年)には58万人を数えたとされる。
  • 10 楊素(~606)は現在の陝西省渭南市出身の将軍であり、北周の時代に汴州刺史などを務めた。
  • 11「乾道臨安志」巻二(愛宕元(1997))。
  • 12 史料が不詳でその具体的な範囲についてはさらなる考証が待たれる(杭州市档案局編(2004)『杭州歴史文化図説』人民出版社)。
  • 13 貞観元年(627)、唐朝は全国を10の「道」にわけ、杭州は江南道に属し、開元21年(733)に15の「道」にわけられた時には江南東道に属した。また、乾元元年(758)に江南東道は浙江東道・西道に二分され、杭州は浙江西道に属した。
  • 14 この六井は、相国井(現:浣紗路,井亭橋西側)、西井もしくは華成井(現:郵電路と呉山路の交差点付近)、金牛井(現:湧金門付近)、方井,俗称は四眼井(現:平海路と延安路の交差点付近)、白亀井(現:竜翔橋より少し西)、小方井、俗称は六眼井(現:小車橋付近)である。入水口、地下溝管、水井(池)の三つの部分によって組成していた。
  • 15 白楽天(772-846)は唐代後半を代表する詩人・政治家。杭州・蘇州刺史を歴任し、杭州では3年の任期(822-824)を務めた。
  • 16 白堤と呼ばれ、北側のものが白公堤、南側が白沙堤。水位の調節が可能なように水門が設けられていた。
  • 17 隋時代の運河の杭城区間=清湖河の東に位置し、それぞれのちに市河、塩橋運河(現 中河)、茆山河と称される。茆山河は南宋時代に人口増加による用地の必要性によってなくなる。その位置は現在の新華路から馬市街の辺りである。
  • 18 銭鏐は、唐末の黄巣の乱の混乱の中で、当時杭州で董昌がまとめていた軍団に加わり、浙東観察使であった劉漢宏との戦いで功績を上げ、光啓3(887)年杭州刺史に任命されていた。また、景福2年(893)には鎮海軍節度使にも任命され、その後乾寧年間(894~898年)に董昌を破り、さらに淮南の楊行密らと抗争して蘇州・常州を確保、乾寧3(896)年には鎮海・鎮東両軍節度使となり、杭州、越州を含む両浙13州を支配していた。在位期間中は銭塘・江海塘の修理や太湖に堰や閘を建設し洪水防止と灌漑整備を行い、支配地域での農業生産力の向上に尽力した。
  • 19『呉越備志』巻1武肅王条(杭州市档案局編(2004))。
  • 20 朝天門(現在の鼓楼遺址)、南土門(現在の淳祐橋の西)、北土門または土址門(現在の菜市橋西の東青巷口)、保徳門または宝徳門(現在の艮山門外の環城東路北端)、北関門(不詳)。同上掲載。
  • 21『呉越備志』巻1武肅王条。『通鑑』『咸淳臨安志』。
  • 22 閘は水位の違う部分を調節する閘門。特に杭州では塩分などの混入した海水と、真水との混濁を避けるためにも閘が重要な役割を果たした。
  • 23 後梁の龍徳2年(922)に銭塘県から銭江県が分割され、両県の治所はともに杭州の城郭内にあった。銭塘、仁和、余杭、富陽、塩官、於潜、新城、臨安、昌化の9県。
  • 24 唐代に建立され、元代にペルシャ人阿老丁により再建された。中国東南沿海地帯の4大イスラーム寺院の1つ。建物外観が鳳凰の姿に似ていることから「鳳鳳寺」と名付けられた。礼拝堂「無梁殿」はメッカの方向に建てられており、神殿中央の壁には、1451年(明景泰2年)に刻まれた、アラビア文字のクルアーンの章句がはめ込まれている。
  • 25 銭塘江沿の城南郊廂(区)と運河両岸の城北郊外の廂は、15の市鎮を形成した人口密集地であった。
  • 26 至元28年(1291)、江淮行省の長江北岸地域が河南行省に移管され、両淮地区が管轄範囲から外されたため行省名称も江浙行省と改称された。
  • 27 その後、省会が杭州と揚州の間を数度にわたって移転したが、1289年(至元26年)以降は杭州に定まった。
  • 28 杭州城で火事が起き、東南から西北へ延焼、総計では官民房屋、役所、寺観、15755間、10797戸、38116人が火傷、74人が焼死した。1342年再び大火が起き、民舍は合計4万間余りが延焼したとされる。『元史』上説。
  • 29 朱元璋は、常遇春を杭州に派遣、3か月かけて張士誠を破る。
  • 30 浙江等処行中書省の略。
  • 31 承宣布政使司(掌民政,財政)、按察使司(掌司法)、都指揮使司(掌軍事)。布政使司は府・州を統治する。
  • 32 胡宗憲(?-1565)は明の武将で、1538年に科挙に合格、1553年に御使となる。
  • 33 康熙帝(1654-1722)は清の第4代皇帝(在位1661-1722)、乾隆帝(1711-1799)は清の第6代皇帝(在位1735-1796)。彼らの時代に清は最も繁栄した。
  • 34 範囲は、西は運河、東は陸家条河、南は拱宸橋、北は瓦窯頭であったとされる。
  • 35 1914年、袁世凱のときに清代の嘉湖道管轄区域に銭塘道が設置され20県あった。1927年に廃止されている。


布野修司(ふの・しゅうじ)
1949年島根県生まれ。東京大学工学部建築学科卒業、同大学大学院博士課程中退、同大学工学部助手、東洋大学工学部助教授、京都大学工学部建築学科助教授を歴任。2005年より滋賀県立大学教授。1982年から2000年まで同人雑誌「群居」編集長。1991年日本建築学会賞(論文)、2006年日本都市計画学会論文賞、2013年日本建築学会著作賞受賞ほか。主著(共著含む)に『近代世界システムと植民都市』、『ムガル都市』、『グリッド都市』 ほか。

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