21世紀中国建築論とアイコン建築の終焉について

市川紘司(東北大学大学院/清華大学建築学院)

1. あらゆるスタイルのごった煮——新世代の中国人建築家

 「最近の中国建築」の動向について解説をくわえることが本稿に与えられたテーマである。まずは1990年代から2000年代までの状況を確認しておこう。経済成長と都市化の高波が生まれ、また北京オリンピックと上海万博という国家的行事をひかえたことで、当時の中国には外国のスター建築家たちが手がける巨大建築プロジェクトが目白押しとなった。ポール・アンドリューによる《国家大劇院》、OMAによる《CCTV本社ビル》、ヘルツォーク&ド・ムーロンによる《中国国家体育場(鳥の巣)》など、特異な形態が目を引くいわゆる「アイコン建築」が数多く計画され、そして実現した。こうした建築群に特徴づけられる当時の中国は「外国人建築家の実験場」などと(しばしば揶揄的に)表現されることもある。
 それでは2010年代以降、すなわち「最近」の中国建築の状況はどうかというと、著名な外国人建築家たちや「設計院」(中国の組織設計事務所)が引きつづき巨大建築を手がける一方で、留学帰りの若い世代を中心として、中国人建築家たちによるドメスティックな活動が活発化してきている点に、大きな変化を見ることができる。よって、本稿がおもに記述するのはこの最近台頭してきた新世代の中国人建築家たちについてのものとなる。20世紀の中国は有名な建築家をほぼ輩出できなかったと言ってよい。しかし近年では、ワン・シュウ(王澍)が「建築界のノーベル賞」ことプリツカー賞を中国人としてはじめて受賞したのを筆頭に、国際的な評価に耐えうる建築家がぽつぽつと登場しはじめている。今年春に筆者が編纂した『中国当代建築——北京オリンピック、上海万博以後』では、このワン・シュウやアガ・カーン賞を受賞したリ・シャオドン(李暁東)など、これまで日本で知られることのなかった新世代の中国建築家たちの作品と思想を集中的に紹介した。
『中国当代建築——北京オリンピック、上海万博以後』
市川紘司 編著『中国当代建築——北京オリンピック, 上海万博以後』(フリックスタジオ, 2014)
 『中国当代建築』で取り上げられた中国人建築家たちの多くに共通するのは「アイコン建築」的な奇抜な形態づくりを避けようとしている点だ。そうではなく、彼らは、機能やプログラムを重視したり、土地土地で異なる地域性や伝統などに関心を向け、それを近代建築の文法と交配させたデザインを創出しようと試みている。ケネス・フランプトン風に言えば「批判的地域主義」的な建築をつくろうとしているわけである。
 建築分野にかぎらず、現在の日本で「中国」と言うと、それを「国家」としてある単一のイメージに集約させてしまうことが多い。しかしこうした発想法は、とくに中国の建築を考えるうえでは避けたほうがよいと筆者は思っている。後述するが、中国現代建築の特徴は、何らかのスタイルが「主流」を形成することなく、むしろスタイルが建築家によってぜんぜん異なる点にあるからだ。もしかりに中国では「批判的地域主義」的な建築が「主流」である、としても、むしろだからこそ、中国の建築は多種多様なのである。中国の国土はきわめて広大である。それゆえに地域間に見られる気候や風土、そしてそうした環境的要因から生成される建築の伝統や都市の性格はずいぶん異なってくる。また、こうした地理的差異にくわえて、時間的差異についても考慮に入れたほうがよい。1949年の中華人民共和国の建国、1966年からの文化大革命、そして1978年からの改革開放と、現代中国には強烈な歴史的切断線が何本も引かれている。こうした切断線を越えるたび、社会から求められる建築の在り方もラディカルに変化してきた。資本主義国家の建築(要するにモダニズム)はありかなしか、伝統建築はありかなしか。中国では、建築に対する思考そのものが「流行」というような曖昧な基準ではなく、社会体制の変化に付随してきわめて具体的に切実に変化してきた。
リ・シャオドン, 籬園図書館, 2011 リ・シャオドン, 籬園図書館, 内観2011
リ・シャオドン, 籬園図書館, 北京, 2011 撮影:筆者
 中国の現代建築を考えるうえで念頭に入れておくべきなのは、この国では「モダニズム」を芯からは導入したことがないという点である。要するに、20世紀前半にヨーロッパに留学した中国の建築家がほぼいないのだ。日本近代にはル・コルビュジエやバウハウスに学んだ建築家が曲がりなりにも一定数いたが、中国近代建築の最重要人物である梁思成を筆頭とする中国の建築留学組はアメリカに向かった。当然、その彼らがおもに学んだのはアメリカン・ボザールすなわち古典主義系の建築文法であり、モダニズムではなかったのである。ちなみに近代中国には、西洋の建築を摂取する手段として、留学とは別に上海などの「租界建築」からの経路もあったのだが、こちらでも近代建築という枠組みのなかでは古典主義寄りのアール・デコが主たるものに過ぎず、やはり「モダニズム」を芯から理解するためには不十分な環境であった。結果として、梁思成は1950年代に「伝統復古」の建築様式を提案するに至り、これによって中国社会および政権からきびしく批判され、第一線から退ぞくことになる。こうした中国近代における西洋建築に対しての理解は、古典主義のみならずモダニズムも体よく輸入したことで伝統建築を形態だけでなくその空間性なども踏まえて消化できた日本とは、かなり異なる道筋であったと言える。
 「モダニズム不在」の中国建築。梁思成ら中国近代建築家の始祖からはじまるこの問題は、現在に至るまで根深く影響を残している。槇文彦が『漂うモダニズム』のなかでモダニズムを「一艘の船」と表現したように、それは近代社会における建築家(業界)が共有すべきひとつのルール、規範であった。このルールをその根本の部分で導入して来なかったことは、結果として、近年とみに台頭をはじめた中国の若手建築家たちが「主流」を形成せずに多様なスタイルを各人自由に展開することにつながっていると思われる。すなわち、中国の現代建築家たちの多元的な実践の要因には、広大な国土や切断線の多い歴史という地理的/時間的要因にくわえて、「共有されるべきルール=モダニズム」の不在という中国近代建築史に特有の理由が挙げられるのではないか。
 中国現代建築は根っから、あらゆるスタイルがごった煮となった「ポタージュ」である。「一艘の船」は最初から存在しなかった。ここではあらゆるスタイルが可能だ——クライアントさえ許可すれば。それを建築の自由と呼ぶか、「規範」なき混乱と呼ぶかには、たいして違いはあるまい。
 かようにして、「中国現代建築」のイメージは単一の像を結ぶことがなく、むしろ見れば見るほど模糊としてくるものだ。このことを踏まえて、本稿以下では、まず地理的な区分をもちいて「中国現代建築」の概要を切り取ってみたい。あらかじめ断っておくならば、本稿は状況全体を見とおすパーステペクティブを提供することを主目的としているため、個別の建築家に対する記述はいきおい俯瞰的でカテゴライズするような性質を帯びざるをえない。ゆえに、本稿を読んで中国の現代建築文化に興味を感じた読者は、『中国当代建築』などを使って個別の建築家についてさらに吟味していっていただければと思う。

2. 21世紀中国建築の見取り図

 中国の広大な国土を文化的に分けるとき、まず伝統的にもちいられるのが「北方」と「南方」という分け方である。たとえば、戦闘や政治に長ける北方と、豊かな自然を背景にして文芸に秀でる南方…といった具合だ。事実、歴代の王朝のなかで、とくに強権を発揮したのは基本的に北方民族の王朝であり、南方とくに江南地方はその自然資源の供給源として位置づけられてきた。こうした北方/南方の対立軸は、明清時代における中国建築を例にすると、より顕著になる。紫禁城(故宮)に代表される、巨大スケールの空間を軸線と対称性を手がかりに構成することが北方の宮殿/社寺建築の特徴であるとすれば、比較的小さな空間のなかで不定形の壁や動線を多用して擬似自然を創出することが、江南地方の庭園の特徴である。両者はいずれも「中国伝統建築」を代表する点では共通するし、また実際に斗栱や屋根形状といった木造建築のデザインに敷かれる基本ルールは同一のものではあるのだが、空間の現れかたはまったく対照的と言うべきものとなっている。
 この北方/南方という文化的区分は現在の中国建築界にも見出すことが可能だ。ここでは北京の建築家であるマ・イェンソン(馬岩松)と、江南の浙江省の建築家であるワン・シュウ(王澍)に着目してみよう。
マ・イェンソン(MAD)オルドス博物館, 2011 マ・イェンソン(MAD)オルドス博物館, 内観2011
マ・イェンソン(MAD), オルドス博物館, 内モンゴル自治区, 2011 撮影:筆者
ワン・シュウ,中国美術学院象山キャンパス, 2008 ワン・シュウ,中国美術学院象山キャンパス, 2008
ワン・シュウ,中国美術学院象山キャンパス, 浙江省, 2008 撮影:筆者
 両者の建築家としての来歴や態度はじつに対照的である。マ・イェンソンがイエール留学後にザハ・ハディド事務所につとめた留学組であるならば、ワン・シュウは国内の大学で博士課程までを終えている。 《オルドス博物館》に代表されるマ・イェンソンの建築がハディド譲りのうねうねとした曲面を特徴とする未来的なものであるならば、《中国美術学院象山キャンパス》に代表されるワン・シュウの建築は、江南地方の伝統庭園の空間構成を参照にして、ランドスケープとの呼応性を重視する。また、マ・イェンソンが中国全土および国外にまでプロジェクトを幅広く展開しているのに対して、ワン・シュウは(数少ない例外をのぞいて)拠点のある浙江省の外では建築をつくってきていない。ワン・シュウによる一見特異な建築デザインは、同じ職人らと継続的に仕事をつづけ、繰り返し実験をおこなうことでみずから伝統的な材料や構法の改良法を考え、その結果をもとにしたクライアントとのアイデアの共有や説得を図る、というプロセスを経て実現されている。こうした泥臭く堅実な建築の設計プロセスは、ひとつの地域にとどまってつくりつづけることではじめて可能となるものだろう。《寧波歴史博物館》などに見られる、古い材料を乱積みした外壁や、竹材を型枠に打設されたコンクリート壁などはこうした実験の代表的な成果である。
ワン・シュウ, 寧波歴史博物館, 2008 ワン・シュウ,寧波歴史博物館(屋上), 2008
ワン・シュウ, 寧波歴史博物館, 浙江省, 2008<右:屋上> 撮影:筆者
 未来志向のグローバルアーキテクトとしてのマ・イェンソンと、土着の伝統建築を参照しながら手作業をもとに建築をつくるローカルアーキテクトしてのワン・シュウ。北方と南方に拠点をおく二人の建築家のちがいはこのように概括できるだろうか。
 二人の建築家のちがいとしてとくに注目したいのが「都市」に対する考えかただ。マ・イェンソンは、グローバル都市へと急速に成長した北京の建築家らしく、大気汚染などさまざまな問題を孕みながら中国全土で進展する都市化の波に、真正面から応答しようとしている。近年、彼が提唱している「山水都市」なるアイデアは、外部環境との距離を近しくする中国の伝統的な都市居住のスタイル——たとえば建築中央に大きな中庭をとる北京「四合院」——を高層+高密の建築のなかで再実現しようとするものだ。他方で、ワン・シュウは、都市(化)を徹底的に忌避し、自然豊かな村落での生活を理想とする。この考えかたは歴史のなかの「文人」たちそのものであると言える。《中国美術学院象山キャンパス》に見られる山や河に呼応するかのような建築群の構成の仕方や、手描きによるドローイングを設計の主手段にすえる点など、「文人」的建築家としてのワン・シュウのキャラクターは思想面から手法面まで一貫している。
 さて、北方/南方という分けかたにくわえて、中国の地理的区分には「沿岸部」と「内陸部」というものもある。沿岸部と内陸部の「差異」、というよりも「格差」は、中国の近代化が沿岸部に集中する租界から本格的に開始したことに起因するが、「富める地域から先に富むべし」という「改革開放」以後の鄧小平理論により現在も強化されながら残存している。資本が重点的に投下されてきた北京や天津、上海、深センといった沿岸部の大都市と内陸部の中小都市のあいだには、都市インフラの整備レベルなど、いまだ顕著な格差が横たわっている。中国には、先進国としての顔(沿岸)と、発展途上国としての顔(内陸)のふたつがあるのだと言えば分かりやすいだろうか。
 中国で自前のアトリエをかまえるいわゆる「建築家」の大半は沿岸部の大都市にいる。深センの都市実践(URBNUS)、上海のネリ&フーや大舍建築(atelier Deshaus)、北京の標準営造(standardarchitecture)や開放建築(OPEN Architecutre)などだ。上で触れたワン・シュウとマ・イェンソンもそうだし、隈研吾ら日本をふくむ外国人建築家の在中事務所も沿岸部に集中する。
ネリ&フー, ウォーターハウス, 2010 ネリ&フー, ウォーターハウス, 2010
ネリ&フー, ウォーターハウス, 上海, 2010 撮影:筆者
 多くの中国の建築家たちは、拠点をかまえる沿岸部の都市で主要な仕事をしながら、内陸にも足しげくかよって大量のプロジェクトをまわす。彼らの大多数は外国で留学なり仕事なりをしてきた建築家であり、中国の多様なる地域的特徴に気を配りながら洗練した作品を生み出してきている。興味深い建築をいくつか挙げてみよう。ネリ&フーの《ウォーター・ハウス》は上海の南外灘(バンド)に建つホテルだ。これは戦前に旧日本軍本部として使用された建築のリノベーションプロジェクトである。もともとの建築が有するコンクリートの荒々しい質感をあえて残し、それとあらたに付加した装飾的要素や構造補強材との対比を強烈に際立たせようとするデザインは、非常に洗練されたものと言ってよい。また、都市実践による《土楼公社》は、広州郊外につくられたアパートメントである。福建省から広東省のあたりには、大きな中庭と版築構法によるぶ厚い外壁を特徴とする「土楼」と呼ばれる土着建築があるのだが、《土楼公社》ではこの「土楼」の建築形式が援用されている。外部に対してきわめて閉鎖的な「土楼」の形式は、もともとは客家が血縁共同体の親密圏を維持するためにつくり上げたものだ。これを都市実践は、孤立する都市居住者があらたなひとつの「単位」として再生することを可能にする建築形式として再定義し、援用している。
都市実践, 土楼公社, 2008
都市実践, 土楼公社, 2008 提供:URBANUS都市実践
都市実践, 土楼公社, 2008
都市実践, 土楼公社, 広東省, 2008 提供:URBANUS都市実践
 沿岸部とは対照的に内陸部で活躍する建築家は少ない。そんななかでリュウ・ジャークン(劉家琨)はめずらしい存在である。リュウ・ジャークンは、独立以前の設計院勤務時代にはウイグルやモンゴルで仕事をし、独立後は四川省成都に拠点をおく、筋金入りの「内陸部の建築家」である。成都市郊外の《鹿野苑石仏芸術博物館》はこの建築家の代表作と言うべき建築だが、生い茂る竹林と長いブリッジからなるもったいぶったアプローチ、石材による荒い化粧材や間接照明の多用など、当地の豊かな自然環境や未発達の施工技術を踏まえながら設計された秀作である。上述したとおり、近年の中国人建築家は「批判的地域主義」的な問題意識がつよいのだが、そのなかでもリュウ・ジャークンは、実際の作風がいわゆる「批判的地域主義的建築家」として括られるルイス・バラガンや安藤忠雄に接近している。
 リュウ・ジャークンの作品には文化施設が多く、またかつては小説の創作もおこなっていたことから、「内省的」とも言うべきキャラクターの建築家であった。しかし、2008年の四川大地震後には、山積みとなったガレキから「再生レンガ」を制作する方法を考案したり、みずからクライアントと資金を探し出して小さな記念建造物の建設を持ちかけるなど、単なる「デザイン」に終わらないプロジェクト型の建築も手がけている。内陸部には困窮する小都市や村落が少なくなく、こうした地域には上下水道の整備や医療施設の不足などの種々の基本的な「社会問題」が見られる。地震後のリュウ・ジャークンの活動はこうした社会問題に直接的に関与し、その状況を改善しようとするものと言えるだろう。そのほかにも、ジュ・ジンシャン(朱竟翔)やシャ・インジュン(謝英俊)、ルーラル・アーバン・フレームワークなどを代表として、貧困層や被災地における建築をもちいた「社会奉仕」的活動をテーマにする建築家もこの10年のあいだに増えている——こうした建築家の大半は当の大陸ではなく香港や台湾の出身ではあるが。いずれにしても、都市部で展開される超巨大な開発ではなく、そうした開発によって進行される都市化の根本に横たわる問題にコミットしようとするこれらの建築家の実践は、波風立ちそうな発言を極力控えながら活動する日和見でノンポリな大半の中国人建築家に比べると(外国人研究者としては)注目のしがいがあったりする。
リュウ・ジャークン,鹿野苑石仏芸術博物館, 2001
リュウ・ジャークン,鹿野苑石仏芸術博物館(内観), 2001.
リュウ・ジャークン,再生レンガの実験
リュウ・ジャークン,鹿野苑石仏芸術博物館, 四川省, 2001 撮影:筆者
 
リュウ・ジャークンによる再生レンガの実験(香港深セン建築都市ビエンナーレ2012の展示) 撮影:筆者
常民建築(シャ・インジュン),四川省楊柳村再建プロジェクト,2009
リュウ・ジャークン,再生レンガの実験
常民建築(シャ・インジュン),四川省楊柳村再建プロジェクト,四川省,2009 提供:常民建築
 

3. 断絶する建築家の系譜

 以上のように、北方/南方と沿岸/内陸という地理的な区分を用いて概観してみると、中国人建築家たちの実践の多様性が強調されることになる。他方で、時間軸=歴史的な区分から考えてみると、今度は逆にバリエーションが乏しくなることが興味深い。
 1960〜70年代のあいだに生じた文化大革命によって、中国の文化は「中華人民共和国建国期(1949〜1960年代前半)」と「改革開放期(1978年〜)」でかなりの程度切断されている。建築のデザインについて言えば、前者では蜜月関係にあったソ連から輸入された社会主義・民族様式が特権的に推奨された一方で、後者では「近代化」を金科玉条にして近代的で凡庸なビルディングの大量建設がすすめられた。さらに文革では大学機能がストップし、当時すでにエスタブリッシュしていた建築家は反動的などという理由で活動を抹殺されたため、建築家の老世代から若世代への思想的・手法的継承の糸は途切れてしまった。したがって、極論すれば、現在の中国建築・建築家にまつわるあらゆる文化は1978年にリスタートしたものであると言える。その歴史の堆積は40年にも満たない。いま活躍する建築家の世代は1950年代中盤生まれを最年長として、1960・70年代年代生まれが中堅〜若手としてつづく構図となっている。
 この「世代間継承」の有無は、日本と中国の現代建築が相違するもっとも大きな論点のひとつであると筆者は考えている。日本では近代建築が輸入された明治から現在に至るまで、建築家の思想上、手法上の継承が連綿とつづいてきている。先行世代の手法をアップデートしたり、あるいは批判的に転覆させたり、日本の建築家は先行世代や同世代の建築家との相関関係のなかで歴史的に位置づけ(られ)てきた。ひるがえって中国現代建築を見てみると、日本に見られるような数世代にまたがる「建築家系譜図」を描くことは現状不可能である。たとえば、チャン・ヨンホ(張永和)は文革終焉後すぐに大学教育を受け、1990年代中盤にデビューした改革開放後の第一世代の建築家であり、日本で言えば妹島和世や隈研吾らと同年代の建築家であるが、彼の「門下生」として活躍する建築家すらまだ出てきていない。ちなみにチャン・ヨンホは、1950年代に天安門前の観礼台や革命歴史博物館(現・国家博物館)を設計した張開斎の子息であるが、父が設計院の内側でソ連式の建築を設計していたのに対して、息子はアメリカ留学後に組織に所属することなく個人として活動をスタートさせており、やはり建築に対する考えかたの断絶は顕著である。
 現在の中国の建築家は留学組がほとんどである。学部を中国で終えてから外国で修士号を取得し、数年働いて帰国して独立する、というのがたいていのコースだ。留学先はアメリカがとくに多いが、ヨーロッパや日本へ向かった建築家もおり、いずれにしても大学はほとんど重ならない。学部卒なので、中国の大学で教わった建築家からの影響も大したものではない。上記で検討した地理的な広大さとならび、こうした教育的バックグラウンドの多様性もまた、現在の中国人建築家たちの多元的な実践に寄与するところは大きいだろう。「モダニズム」という「規範」が希薄で、かつ先行世代とのあいだに断絶があるこの国で、建築家たちは、留学先の建築や建築家からそれぞれ自前で規範を見つけ出し、それにもとづいて実践を展開しているのだ。あるいはこれは、日本近代建築黎明期において、建築家の思想や手法をその留学先からイギリス派/フランス派/ドイツ派などとグルーピングできたことと近いかもしれない。
 以上のように文革/改革開放以後の中国人建築家に世代的な厚みがないことはたしかなのだが、微妙な相違は見つけられる。チャン・ヨンホは自身の建築を「非常建築」などと呼び、大量生産される悪質なビルディング(=「正常建築」)と建築家による建築のちがいを先鋭化し、そうした差異を助長する諸制度・慣習を批判しようと試みた。要するにチャン・ヨンホの意識のなかには社会で再生産される建築に対する批評性・批判精神のようなものがあったのだが、こうした問題意識は1970年代生まれ以降の若手世代にはあまり継承されているようには見えない。むしろ若い建築家は規制の枠組みのなかで建築を「良く」つくることに耽溺しているところがある、とさえ言える。台湾や香港の建築家が急速な都市化と経済成長からこぼれ落ちた部分にコミットすることで批判的な建築をつくろうとしているのを考えれば、大陸の建築家はどこかウェルメイドな建築にこだわり過ぎているように見えるのである。こうした事態の理由には、チャン・ヨンホが指摘するように、かつて批判の対象であった設計院による建築(デザインふくむ)の質も向上してきたことで、若い世代の建築家にとって仮想敵が見えづらくなり、自らの実践に集中するほかなくなったという中国建築・都市をめぐる状況全体の変化が挙げられるだろう。いずれにしても、中国の建築家が数多く台頭する現在においても、たとえば日本の「メタボリズム」のような大きな建築のムーブメントが起きないのは、彼らのこうした非政治的性格によるところが大きいと言える——繰り返しになるが、であるからこそ中国の建築(家)は「自由」なのではあるが。

4. 「アイコン建築」は終わるか——習近平講話から考える

 「最近の中国建築」の概要をあらためて記そう。北方と南方、沿岸と内陸に区分される地理的広大さ、そして教育的バックグラウンドの分散によって、近年台頭する中国の若い建築家たちの実践は「主流」を形成することなく多様化している。そしてこの多元的状況を歴史的に考えてみると、その要因として、社会と建築の近代化を命題としながらも20世紀初頭の「モダニズム」に直接触れてこなかったことによる「規範」の不在が透けて見えてくる。そんななかで共通するのは——ザハからの影響が色濃いマ・イェンソンを例外とすれば——土地ごとに異なる地域性や伝統に着目する傾向であり、これはおよそ10年ほど前から顕著になった外国人建築家と設計院がつくり出す「アイコン建築」と対照的な建築への志向として見立てることができる。
 CCTV本社ビルに代表される「アイコン建築の楽園」としての中国建築はいま転換期にあると言うべきか。本稿の締めくくりとしてこのことについて考えてみたい。
 10月15日、北京では「文芸工作座談会」なる会合がひらかれたのだが、ここに国家主席の習近平が出席しておよそ2時間の講話をおこなった。全国規模の特別な会合でもない文芸座談会に国のリーダーが出席し、長尺の意見を発表することはきわめて異例ということだが、その「講話」の内容をざっくりとまとめると以下のようになる。すなわち、「改革開放」以来の中国では各種方面の文芸活動が盛りがっているが、コピー作品などもあったりで粗製濫造の側面もなくはない、そこでいま一度「民族の精神的支え」としての文芸の本質を捉えなおし、復興する偉大な中華民族とこの時代に恥じない文芸を再創造すべきではないか——。周知のごとく、現在の中国は、軍事的・経済的な力の強化を推しすすめて「大国」化する一方で、文化コンテンツの成果が少ない。この講話からは今後は文化産業にも力を入れようという意図が垣間見られる。経済成長が鈍化している現在だからこその文化産業への注目とも言えるだろう。また同時に、文芸の「正しい」方向性を示そうとしている点で、習近平政権になってから強化されている「言論規制」の一端として位置づけることも可能ではないかと思う。
 建築業界的にも習近平講話が与えるだろう今後の影響を考える必要がある。というのも、この講話をつたえる報道記事の末尾に「北京市で今後“大ズボン”のような奇怪な形状の建築が現れることはおそらくないだろう。習大大(習近平)が述べているように、奇々怪々な建築はつくってはならない」と記載されていたからだ。
OMA, CCTV本社ビル, 2012
OMA, CCTV本社ビル, 北京, 2012 撮影:筆者
ここで指摘されている「大ズボン(大褲衩)」というのは、OMA設計のあの《CCTV本社ビル》のニックネームである。つまり、習近平は、《CCTV本社ビル》に代表される奇々怪々な建築物、すなわち「アイコン建築」は北京にはもう要らないと述べたわけだ。
 「改革開放」以後の中国では、政府高官が建築のデザインに対して口出しをすることはほとんどなかった。都市開発が盛り上がった1990年代の北京では、「古都の相貌を回復せよ」という当時の市長による発言をもとに、《北京西駅》などに見られる近代建築の躯体に伝統屋根を接ぎ木した奇妙なデザインが流行したのだが、これは例外的な事例である。それゆえ、国家主席クラスの人間が建築を名指しにして意向を示した今回の「習近平講話」は、やはり異例と言うべきであろう。
 ちなみに、こうした「口出し」は毛沢東時代、つまり1949年の建国から文化大革命の期間にはよくあった。毛沢東は建築芸術への関心が薄かったため、全体主義的独裁者として同列に語られることの多いヒトラーやムッソリーニとは対照的に建築の意匠や様式について格別なコミットはしなかったのだが、それでも毛沢東時代は建国直後ということもあって、国家から具体的な方針がいくつか出されている。
北京市建築設計研究院他, 北京西駅, 1995
北京市建築設計研究院他, 北京西駅, 北京, 1995 撮影:筆者
そうした方針のうちでとくに効力を発揮したのが「機能性、経済性、そして可能な条件があるときには美観に気をつけよ」という1955年の方針だ。これは中国語では「実用、経済、在可能条件下注意美観」と14文字になることから「14文字の建築方針」などと呼ばれる。このスローガンは結果的に、建築家・梁思成による「復古様式」としての「中国的社会主義建築」の提案を機能・経済性の側面から抹殺し、文革における簡易な版築構法によるデザイン性ゼロのハコモノ建築を導くことになった。
 実際のところ、習近平講話は今後の中国建築にどのような影響を及ぼすのだろうか? 共産党政権の新国家が成立した直後の熱狂があった毛沢東時代と現在では状況がずいぶん異なるので、習近平講話が「14文字の建築方針」のような絶大な効力を発揮するとは考えづらい。しかしながら、中央集権の中国には依然としてトップの意見が速やかに確実に実効される特質が根づよく残されている。「奇々怪々の建築は要らない」とした習近平講話の意図は、一定程度かつきわめて具体的なかたちで反映されることは予想できる。実際、筆者が中国の建築家らに聞いたところでは、ハディド的なうねうねとした「奇々怪々」(と受け取られがち)のデザインを得意とするマ・イェンソンが北京にてすすめていたビッグプロジェクトがストップさせられたり、最近公開されたフランスの建築家ジャン・ヌーヴェルによる《中国国家美術館》のデザインにも修正指示が出されたという。
 習近平政権の中国ではさまざまな方面で「贅沢禁止」が掲げられてきた。槍玉に挙げられたのはあちこちで建設されてきた過剰に巨大で豪華な地方庁舎などである。「奇々怪々な建築は要らない」という今回の発言も、アイコン建築が「普通の」ビルディングよりも基本的にコストがかかることを鑑みれば、「贅沢禁止」の流れの一部に位置づけられそうである。「北京市は」という断りがあるものの、今回の講話の影響が全国に波及する可能性は十分考えられる。外国人建築家を積極的に起用することで知られる大手デベロッパー「中国SOHO」が、講話発表後に上海での最新プロジェクトをお披露目した席でも、「このデザインは奇々怪々なのではないか」と批判的な質問が飛び出たようである(ちなみに設計者はザハ・ハディド!)。
 また、習近平講話からは、文芸における「ナショナリズム」を強調する仕草が垣間見えることは興味深い。先述したとおり、2000年代の中国建築にはアイコン建築の多数建設という「外国人建築家の実験場」としての特徴がつよくあった。よって、「アイコン建築不要論」はそのまま「外国人建築家不要論」に接続されうる。実際、設計院の大手がつくる建築は質量ともに充実してきており、すぐれたデザインは外国人に頼まなければ無理、というようなかつての状況は失われつつある——「奇々怪々な建築」の劣化コピーを再生産してきたのもまた設計院ではあるが。今後は、伝統や民族性を慮った建築を中国人建築家自身がつくることが「正しい」とされるのかもしれない。中国現代建築史では国家や政治家の発言が時代の転換を示すために象徴的にあつかわれるため、おそらく今回の習近平発言もまた、建築史の教科書のなかで重要な位置を占めることになるだろう。2000年代には外国人建築家ばかりが「奇々怪々な建築」をつくっていたが、2010年代に入ると今度は、中国の建築家が自国の伝統文化に目覚め復興した——、たとえばこのような歴史を強調するために。
 このように考えてみると、中国人の建築家は、習近平講話からネガティブな影響を被らないように思えてくる。むしろ彼らの活動を後押しさえするのかもしれない。彼らの主要な関心は、「アイコン建築」とは異なる道をさぐり、地域性や伝統を踏まえた建築に向けられていたからだ。というよりも、身も蓋もないことを言えば、彼らの仕事はそもそも社会のなかのニッチなフィールドで小規模に展開されているものに過ぎないから、大都市で大規模プロジェクトを手がけるようなマ・イェンソンほど有名にならないかぎり影響は出ないだろう、とも言える。
 都市の土地を国家が所要していることが理由で、中国では建築プロジェクトは市政府や、市政府と関係が良好なデベロッパーを経由して建築家に降りてくる。そのため中国では相対的に建築家の「独立性」が低い(=クライアントの意向に左右されやすい)。ゆえに、あらゆる建築家にとって、今後数年間「デザイン上の工夫」がしづらい状況がおとずれることは間違いないだろう。1950年代の「14文字の建築方針」が単なる「デザインの徹底否定」へと帰結したように、今回の講話があらゆるデザインを制限・拒否する流れを生むことはありうるのだ。実際、中国ネットを見てみても、少々デザイン上の工夫があるものは即「奇々怪々の建築」と見なすような反応がある。結局、建築のかたちにのみ注目してしまえば、「アイコン建築」だろうと中国人建築家による地域性を意識した建築だろうと、それが普通のビルディングとちがうという点は変わらないのだろう。
 その意味で、筆者が「習近平講話以後」の中国建築に期待したいのは、建築の形態やデザインについて議論が活発化されるのと同時に、建築が生みだされる背景やプロセスなどについてまで議論が展開されることである。成長曲線が鈍化したとはいえいまだ絶賛成長中の中国では、日本とは異なり、建築プロジェクトが膨大にある。筆者から見ても中国で活躍する建築家はじつに忙しそうである。その結果として、各建築家はみずからの実践に手一杯で、お互いの仕事を批判的に深く検討し合うような議論がメディア上に現れることはきわめて少ない。これは中国につよくある個人主義の文化だったり、うえで述べたような「モダニズム」という規範の不在やムーブメントの不在だったりに起因することでもあるだろう。しかし、国家のリーダーが建築の方向性に口出しをする、という久しくなかった「事件」がいま起きたわけである。これが一種の「劇薬」となり、いま中国でつくられるべき建築とは何なのか、どのようにつくられるべきなのか、といった「大きな議論」が切実な問題意識をともなってなされるようになると、中国現代建築はいっそう面白くなると思うのだが。


市川紘司(いちかわ・こうじ)
1985年東京都生まれ。東北大学大学院工学研究科都市・建築学専攻博士後期課程在籍。2013年から中国政府留学生として清華大学に留学。専門は中国近現代建築史。著作:『中国当代建築——北京オリンピック、上海万博以後』(編著, フリックスタジオ, 2014)、『中国的建築処世術』(共著, 彰国社, 2014)、『窓から建築を考える』(共編著, 彰国社, 2014)など。

Copyright© Architectural Institute of Japan. All Rights Reserved.