日本近代建築の百年 1914~2014
主催:日本建築学会 建築討論委員会
日時:2014年4月11日(金)17:30〜19:30
会場:日本建築学会 会議室
第1次世界大戦勃発から100年、ヨーロッパではこの百年を振返る機運がある中、今年のヴェネツィア・ビエンナーレでは、レム・コールハースのディレクションの下、各国はそれぞれの近代建築の百年を振返る展示を求められた。日本館の展示に太田佳代子氏とともに取り組む中谷礼仁さんの報告を皮切りに、日本近代建築の100年を振返ってみたい。日本の建築家を取り巻く問題、日本の建築メディアのあり方をめぐる問題が議論の基底にはある。折しもロシアのクリミア併合という世界史的な事態が発生、建築の枠に必ずしも囚われることなく話は展開するであろう(公開座談会への呼びかけ文より)。
出席
■青井 哲人(明治大学、『建築雑誌』前編集長)
■中谷 礼仁(早稲田大学、『建築雑誌』元編集長)
■松山 巌(作家・評論家)
司会
■布野 修司(建築討論委員会委員長/滋賀県立大学副学長)
- 布野:公開座談会ということで、ちょっと変わった試みかもしれませんが、たくさんお出で頂いてありがとうございます。あんまりご案内していなかったので、ちょっとびっくりしています。40名の参加申し込みだそうです。WEB版『建築討論』がどのようなものか、まだ、委員長の私もわかっていなくて、手探りで、手作りで進めていこうと思っている次第です。来週には創刊号がアップできると思います。紙媒体の雑誌を考えて頂ければいいと思います。今日は「座談会」ということですが、次回は「インタビュー」とか、「依頼原稿」もあると思います。背伸びしてもしょうがないので、徐々に形になっていけばいいと思っています。
今日は、たまたま、中谷礼仁さんがヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展(「In the Real World 現実のはなし~日本建築の倉から~」)に、太田佳代子コミッショナーの下でディレクターとして関わっていらっしゃることを耳にしていましたので、その企画の意図をお聞きして、話のきっかけにしようと思った次第です。総合ディレクターは、レム・コールハースということで、第一次世界大戦勃発の1914年から今年2014年までの百年をそれぞれの国、地域で振返って突き合わせ、問い直そうという企画と聞いています。これを機会に、大きく日本の近代建築100年を振返ってみようと思った次第です。
ということで、まず、中谷さんから口火を切っていただければ思います。青井哲人さんは、少し遅れられるようですので、前半については紙上参加してもらおうと思っています。
[青井:当日は最後の20分ほどしか参加できませんでした。それまでの部分については、見出しで切れた各パートの終わりに、原稿を読んで思ったことをコメントすることにしました。]
主題としての1970年代
第14回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展 「In the Real World 現実のはなし~日本建築の倉から」
- 布野:70年代の建築家たちに徹底してインタビューしたその中身を展示しようということですか?
- 中谷:まずは一木努コレクションⅱ。100点以上もっていきます。
- 布野:「建築の忘れがたみ」ですね。
- 中谷:
それから建築家の作品以外に、歴史家や都市観察者の作業を扱っています。日本近代建築史は稲垣栄三(1926~2001)さんの『日本の近代建築-その成立過程』(1959)のように質の高い仕事がありますが、それ以降、それを大きく塗り替える仕事は70年代まで無かったんじゃないかと思います。そしてこの時期に作られた史観がいまでも主流ではないか。そのパラダイムをも検討したい、その検討なくして、新しいパラダイムを上塗りしてもすべるだけだと思いました。その意味で長谷川堯さんの撮影した大正期表現派の写真が出ます。それから、徹底的な悉皆調査を行った「建築探偵団」が出ます。トマソンⅲ観測センターが出ます。それから遺留品研究所ⅳの真壁智治さんによるフロッタージュ作品もでます。1968年と2008年の作業を見せることで40年の東京の表皮の変貌を伝えようとしています。それに、布野さんがお持ちだった戦後の様々な運動体のガリ版刷りの冊子や『群居』(1983年創刊~50号、2000年終刊)も出ます。それから、早逝したクリス・フォセットⅴの未発表英文原稿も出ます。高山建築学校ⅵの初期資料も出ます。フィールドワークを集落保存に結びつけた相沢韶男さんの大内宿の資料も展示させていただきます。
建築作品は、大野勝彦(1944~2012)さんの「セキスイハイムM1」ⅶ、坂本一成さんの「散田の家」「水無瀬の町家」、室伏次郎さんの「自邸」、毛綱モン太(毛綱 毅曠)(1941~2001)さんの「反住器」、
鯨井勇さんの「プーライエ」,海老原鋭二さんの「からす城」、原広司さんの「自邸」、安藤忠雄さんの「住吉の長屋」、伊東豊雄さんの「中野本町の家」と彼の転換点となる商品化住宅の「ドミノ・システム」、山本理顕さんの初期住宅の中から特に「山川山荘」、そして石山修武さんの「開拓者の家」を頂点とした一連のシリンダー計画、それら試みの70年代から展開して、より社会性をました建築のタイプのふたつの対照的なあり方として象設計集団の「進修館」と原広司「梅田スカイビル」の制作過程を公開させていただく予定です。それら70年代を起点とした営為がいわば焦点となって、1914年への過去と2014年への未来を投影させていく構成になっています。
また「反住器」をはじめとして、1970年代の日本の建築作品の紹介はその小規模に比べて海外への紹介が速かった。その結果として、それらにポスト・モダニズムというレッテルが貼られてしまうこともありました。あと日本の建築メディアが国際的なステータスを持ったことも大きかったと思います。また後年日本の民間デベロッパーが磯崎新さんをコミッショナーとして海外の建築家を招聘して、一大街区を形成します。この方法は現在進展する国家における都市開発のひながたにもなっています。これらのプロセスを扱うために、石山友美さんがインタビュー映画を撮っています。登場人物は磯崎新、中村敏男、チャールズ・ジェンクス、ピーター・アイゼンマン、伊東豊雄、安藤忠雄、レム・コールハースです。
また日本近代建築史をより客観的な視点から眺められるコーナーを作りました。原図を持っていくことは私たちの本意ではありませんので、青焼によって日本近代建築の名作をフラットに展示させていただくコーナー、その他に、日本の建築文化をささえてきた民間のインフラを端的に示すものとして、最新の各建築関連企業PR誌を配布用に用意しました。アウトラインは以上です。また今回吉阪隆正さん設計の日本館が復原改修されることになっているので、そのお披露目を含めて日本館についての資料も展示させていただきます。
[青井:1970年代につくられた「日本近代建築史」観の検討はたしかに不可欠ですね。日本近代建築史を書く作業は、まず1950年代に稲垣栄三や村松貞次郎らによって行われました。彼らの仕事は、モダニズムのバイアスはかかっているけど、他方でマルクス主義的な構造的な歴史把握が包括性と緊張を与えていたように思います。70年代は近代建築を相対化し批判するいくつかの視座から歴史が書き換えられた時代で、ここまでの歴史叙述は運動そのものでした。その後はというと、過去の思潮のニヒリスティックな相対化作業ばかりが行われてきたという感じで、歴史も未来も描けないというような雰囲気が長く続いてきています。にもかかわらず、70年代以降の歴史観が十分検討されていないというのは奇妙でもあります。70年から半世紀という時期!に近づこうとしているわけですから、今なら色々なことが見やすくなっているはず。しかし、それをただ抽象的・一般論的に再考するのでなく、ゴツゴツしたモノたちを並べるという具体的な作業として提示しようとするのは、展覧会という形式だけでなく、歴史家の職能にも自覚的な中谷さんの意図を感じます。]
神殿か獄舎か、「大正建築」と「昭和建築」
- 布野:なんとなく、ビエンナーレの構想、展示フレームは理解できました。周到に様々配慮して「金獅子賞」を狙おう、という感じですね。さて、松山さん、日本建築のこの百年をどう振返りますか。
- 松山:僕も松隈(洋)君に頼まれて、ヴェネツィア・ビエンナーレの企画コンペのことはちょっとだけ知ってたんだ。
- 布野:別のチームなんだ。僕も、太田佳代子さんがわざわざ彦根に尋ねて来られて、なんとなく知ってました。
- 松山:松隈君の弟(松隈章)は別のチームだったりしてね。松隈君が考えていた企画は、1914年は東京駅が出来た年だから、東京駅周辺の変貌を展示したいといっていたと思う。東京駅は辰野金吾によって完成しますが、その年の1914年を回顧して、後藤慶二は、わざわざ東京駅を無視し、いい建築がないと発言します。後藤自身は翌年に豊多摩監獄(中野刑務所)を完成します。この事実は『神殿か獄舎か』を書いた長谷川堯さんが60年代末に後藤慶二を再発見したことと重なります。国家主導の「明治建築」を批判して「大正建築」に眼を向けた。こうしてみると確かに、大正期と70年代は連動しているなあと思いながら中谷先生の話を聞いていました。真壁(智治)が来ているから思い出すんだけど、『TAU』の創刊号だったか2号だったか忘れちゃったけど、遺留品研究所が「丹下批判」を画像ドキュメントという形で始めてね。その根拠は『神殿か獄舎か』だったはず、丹下さんを神殿造りの犯罪者としてばっさり切っちゃった。僕らは長谷川さんが『デザイン』という雑誌で連載していたときから読んでいましたね。ですから70年前後を振り返ると、今でもそういう時代意識になります。
- 布野:僕が大学に入ったのはまさに1968年です。磯崎新さんがずーっと1968年に拘り続けるように、世界的に学生たちが叛乱を起こした「五月革命」の年です。その時、僕らが問うたのは、今の安倍内閣の歴史認識と裏腹に重なり合うんですが、戦後レジーム批判なんですね。戦前戦後の連続不連続の問題をどう考えるか、不連続として出発したはずの戦後は戦前と連続しているんじゃないか、フィクションじゃないか。これは現在の問題でもありますよね。今の内閣はそれをポジティブに主張する。長谷川堯さんは、戦前戦後は連続しているといった。そして「昭和建築」は駄目で「大正建築」がいいんだといった。僕らは随分刺激を受けたんです。雛芥子の仲間と一緒に長谷川堯さんに会いに行ったりしたんです。歌舞伎町の喫茶店だったかな。ただ、「大正建築」というとノスタルジックな回顧的な臭いがしたから、宮内康さんや松山さんと「昭和建築研究会」(1976年)というのをつくったんです。昭和という時間に可能性を見出すべきではないかという問題意識ですね。これは僕の言い方ですが。でもすぐ「同時代建築研究会」という名称に変更します。今が問題だ、ということですね。1970年代に活躍を開始する建築家たちは「昭和建築」=近代建築は駄目なんだというところから出発したんですね。そういう時代意識は共有されていたと思う。70年代を中心に扱うというのは、だから、よくわかります。
- 中谷:パラダイムが入れ替わったんです。もうひとつ問題は、日本のこういう時代区分の感覚が世界に通じるだろうか、世界に見せられるだろうか、ということですね。こうして松山さんと布野さんと話していると、日本でもほとんど誰も知らないような話がでてきますよね。どうしたら世界に開けるかに非常に苦慮しています。
- 布野:コールハースの意識はどうなんですか。第一次世界大戦勃発というのはヨーロッパ世界では圧倒的なインパクトがありますよね。今、ウクライナ、クリミア情勢がキナ臭くなってきて、百年前がリアルに感じられつつもあるし。
[青井:僕は1970年生まれで、68年の意味はリアルにはまったく分からないというのが正直なところです。68年を考えないと近代建築史は分からない、ということについて、理解を深めようとしているけど、どうしても図式的な理解にとどまる部分は残る。68年が今いちピンと来ないもうひとつの理由は、文学なんかとは違って、建築では68年を直接問う作業がほとんどないことにもあると思います。それが建築という世界の特徴でもあり、また建築の世界における70年代以降の特質でもあると思います。もうひとつ、68年の意味を考えるときには60年安保のことと、45〜50年頃のこと、20〜30年代のこと、というように段階的に積み重なった前史を考えることが重要だという気がします。中谷さんと、他の皆さんと一緒に、「戦後建築史家」(戦後間もなくの時期に専門家としてものを考え、仕事をはじめた建築史家たち)にインタビューする作業をやらせてもらったことがあり、また『建築雑誌』の関係でやはり戦後派の平良敬一さんとお話させていただきました。45年から60年代くらいの時期にものを深く考えた人たちは、その前の時代に対しても後の時代に対しても批判的な検証の視座があって、厚みがあるように思います。]
「官の建築」「民の建築」
- 中谷:1914年というとコルビュジエがドミノ・システムを発表した年です。近代建築が出発する重要な年だと思います。その時に、破壊とか貧困とか、過酷な現実があったということですね。日本の場合、皮肉にも第一次世界大戦による好景気で明治の「官の建築」から「民の建築」が活発化していく流れとなる。しかし同時に大正期は進展する都市開発と地方との矛盾が出始める。そのような中で、次世代の設計者に、それまでの設計者が持たなかった、日常や生活への視点が出現した。たとえば、都市美を追求した佐藤功一、民家を採集した今和次郎、そして後には経済原理として建築をどう考えうるかという重いテーマを持って村野藤吾が活動を始めた。そうした当時の動向がヨーロッパの問題と直接的にかぶるかどうかと言うと、ちょっと難しいかなとは思います。ただ、明治からの建築と、大正からの建築というのは大きくその扱う対象が違っていたことは事実だと思います。
- 宇野求:第一次世界大戦で日本は英国側について戦勝国になりました。結果、中国での租借延長や権益を獲得します。欧州の戦災復興で、欧州列強のアジアでの勢いが減じたことに乗じて、日本は南方との交易を拡大、大きな利益を得ています。大正期、大阪や東京など、日本の商業都市が栄えたのは、世界史的にいえばこうした動きと直接連動している。日本国内の文脈でいうと「大正デモクラシー」、「モボ・モガ」の時代ということなのですけれど…。いわゆる洋風建築も続々と建設された。だから、関係あるといえるのではないかと思います。
- 中谷:当然あるでしょうね。今、宇野先生は経済的な関係性をおっしゃったけれど。
- 宇野求:もともと日本社会は江戸時代以来の庶民文化の系譜を持っていると思うけれど、そうした民の文化が大正期に都市部で大発展、都市的生活文化が熟爛し、服装や建築などに自由な表現があちこちに現れたということだと思います。これは今和次郎の世界の話し。もうひとつ、当時の洋風建築についていえば、南方での経験もあるのではないか。通常、設計者の観点から建築史は書かれるわけだけれど、発注者の視点でみると、アジア交易で財をなした人たちが、アジア各地のヨーロッパ建築をみて、こういうのを建てたいって考えたこともあっただろうと思います。実際、コロニアルスタイルの邸宅が国内につくられていますし。
- 中谷:それは私はおさえていないのでわかりません。傾聴に値する鋭い指摘だと思います。
[青井:「官/民」という図式が70年代の近代批判のなかで出てきたことはよく知られていると思いますが、70年代というのはこの区分が活性化した時代のようでもあり、逆に失効した時代のようにも見えます。まちづくりや町並み保存も含む市民運動の時代であると同時に、「建築」の議論から国家やら資本やらの問題が消えた時代でもある。こういう捻れは案外重要なんじゃないかと思います。1920年代なら「民の建築」は財界の商業建築でもよかったかもしれないけど、70年代に財界の建築つくったって「民の建築」にはならない。実質的に、官僚制と資本とが勝手に動けてしまう大きな体制ができるのが70年頃なので、建築の問題としての「官/民」はスライドせざるをえなかったはずです。
世界史的には、70年代というのは先進資本主義国の経済が行き詰まり、ネオリベラリズムに転換していく時期ですし、アジア・南米・アフリカ等への進出に大きく舵が切られた時期でもあります。必ずしもうまく整理できないのですが、日本はそのなかでやや例外的かもしれません。世界的に噴出した問題系に連なる問いを自らも噴出させるだけの蓄積があり、また海外の理論をどんどん吸収することもでき、しかもそれらを国内で比較的自由な表現に転化・生産できたのは日本の特質かもしれないなと思います。]
1920年代と1970年代
- 布野:
松山さんの1900年の日本でしたっけ(『世紀末の一年 一九〇〇年=大日本帝国』 朝日新聞社 1987年,朝日選書)、朝日ジャーナルに連載してた、あの本は、20世紀の変わり目を切っていましたよね。南アフリカのアパルトヘイトに繋がる問題なんかがきちんと扱われていてびっくりしたんだけど。
- 松山:世紀末を経て、日本では建築の大衆化が始まったわけです。端的に言えば、デパートであり、野球場であり、劇場であり、アパートであり・・・。1920年代から1930年代初頭にかけてそうした施設がでてきます。70年代にいきなり飛ぶけど、高度経済成長が行き着いて問題化したのが公害問題、
それともうひとつはサラリーマン人口が6割だったかな、7割になったこと。サラリーマンが生れたのが1920年代、それも行き着いちゃった。サラリーマンというのは、例えば、漁師さんたちも組合に入ってね、第一次産業なんだけど、組織化され、会社員になるということです。建築で言えば、アパートという形式が出始めたのが1920年代で、日本住宅公団の高層集合住宅が出て、さらに住宅公団の住戸供給が賃貸ではなく分譲へ移行するのも70年だった。こうして見ると近代が築いてきたものが全て行き着いて見えてきてしまったのが70年代だと僕はみています。
『TAU』をやった後、布野くんたちと、我々コンペイトウの井出建と青山のアパートに集まって月一回、ルドゥーというフランス啓蒙期の建築家の作品集を翻訳しようという計画に乗って勉強会を始めたんです。布野修司、三宅理一、杉本俊多、いまじゃあ、みんな大御所になっちゃってるけど。雛芥子っていうグループⅷだったよね。あの頃、変な名前のグループがいっぱいあったね。
- 布野:松山さんたちは5人でコンペイトウ、遺留品研究所、武蔵野タンポポ団とか、国語=批判の会なんてのもあった。
- 松山:ダム・ダンとかね。
- 布野:しかし、ルドゥーの本というのはやたらでかかったなあ。新聞紙大で、開くだけで重かったフランス革命期の建築家、他にもルクーなんて最高で、今でも作品集持ってますよ。
[青井:『建築雑誌』2013年11月号「「建築家」が問われるとき」で、1910〜30年代と、1950〜70年代のプロセスが、プロセスとして並行的だというフレームをつくりました。簡単にいうと、いずれのプロセスにおいても、まず社会的・技術的な変革のなかで従来の職能の布置が揺さぶられ、職能意識が激しく分岐していき、後半では社会の保守化にともなって職能像も収れんしていく、という見取りです。でも、この特集をつくりながら何となく考えたのは、もし戦争がなかったらどうだったのか、ということでした。そうすると1910ないし20年代にはじまる問題系の噴出と職能意識の分岐が、途中戦争で撹乱されながら、最終的には70年頃にある種の保守化と収れんに至る、そういう長期のプロセスとみることもできるな、ということを考えました。戦争は、むしろこの収れんを強制的に予行演習したみたいなところもある。松山さんがいう「行き着いた」というのは、僕なりにはこのように理解できます。]
制度=インスティチューション=施設
- 松山:その勉強会で何をテーマにしてたかというと、施設=インスティチューション=制度の問題なんだよね。ヨーロッパの建築史で言うと、それ以前は、修道院が学校だったり病院だったり、旅館や裁判所だったんだけど、制度が変わり、施設として学校や病院、ホテルや裁判所が現れてくる。ミシェル・フーコー(1926~1984)の『狂気の歴史』(邦訳、1975年、新潮社)や『監獄の誕生』(邦訳、1977年、新潮社)が書いたから、その影響なんだけどね。ニコラス・ペブスナーの書いた建築史なんか、辞書を片手に読んだんです。つまりジークフリート・ギーディオンやペブスナーにしても、それまでの歴史観では、産業革命以後に近代建築が始まったと書いていた。ところが、そうじゃない、啓蒙期じゃないか、印刷技術の進展で知識が大衆化し、市民革命があって近代的施設が成立するという歴史観です。つまりヨーロッパでも70年前後に近代建築を見直し始めたんですね。
- 布野:僕は、当時既に、建築計画の研究室(吉武泰水)にいましたから、施設=制度、インスティチューションの問題は、否応ないテーマでした。山本理顕さんともその頃出会うんですけど、理顕さんなんかもずーっと拘ってきてますよね。フーコーのほかに、ユルゲン・ハーバーマス(1929~)の『公共性の構造転換』(邦訳、1973年、未来社)とか、イバン・イリイチ(1926~2002)の『脱学校の社会』(邦訳、1977年、東京創元社)なんかも読んでました。例えば、学校についてはオープン・スクールとか、ノン・グレーディング(無学年制)とか、チーム・ティーチングとかが実際に主張されていたんです。黒板を背にして向き合う形の授業でいいのか、といった議論ですね。
[青井:フーコーは重要ですね。あともうひとり、アンリ・ルフェーブルもいます。70年前後に『都市への権利』(邦訳、1969年、筑摩書房)とか、『都市革命』(邦訳、1974年、晶文社)が邦訳されてます。この2人の仕事は、建築分野との親和性が高く、波及力を持ちました。空間と権力の問題のつかまえ方が70年前後に変わり、建築はそれを吸収した。国家や資本が外から空間や身体に力をふるう、というような従来の外在的な捉え方から、空間が社会的に生きられる実践の過程の内部に、共同体や学知や教育や言葉や性や・・といった様々な形態の力が複合して効果をもたらす、というような内在的な捉え方に変わります。これが建築の問いをどう変えたか、これもよく検討する必要がある。たとえばまちづくりのような社会運動の系譜にも根拠を与えたでしょうし、また芸術的・文化的運動の系譜に政治性や批評性をもたせる根拠にもなったでしょうから。一方で、自分自身も構成要素になっているような権力関係に対抗するなんて無理、というようなニヒリズムが建築に潜り込んだ事情もあるように思えます。]
『AD』が面白かった
- 松山:もう忘れかけた記憶を呼び覚ましてるんですけど、『AD』Architectural Designという雑誌が非常に面白かった。女性の編集者ですけどね。フランシス・イエーツⅸの『記憶術と建築』とかね、エリック・ホブズボームⅹの「叛乱と建築」みたいな、「スペクタクルと都市」とか、わりと硬派の記事があれば、突然、アーキグラムが紙面を占拠してしまう。そんな時代でした。ヨーロッパでも近代という時代を捉えなおそうという動きはあった気がする。70年代にはね。
大きな流れとしては、進歩に対する異議が出てきていた。日本は公害列島で、レイチェル・カースン(1907~1964)の『沈黙の春』(1962)も既に出ていた。ローマ・クラブの「宇宙船地球号」(1972)の宣言もある。近代に対する警鐘が鳴らされたのが70年代。日本の場合は施設=制度のはじまりはということになると、、1920年代になるんじゃないかとおもいますけどね。
- 布野:われわれは今松山さんが言ったような時代認識をしてるんですけど、中谷さんの時代認識というより、今回のビエンナーレの時代区分はどうなんですか。長谷川堯さんは「昭和建築」「大正建築」「明治建築」という元号によるくくりをした。それ以外に、20世紀の建築は、これはヨーロッパを視野に入れてのことでしょうが、4半世紀毎にわければいい、というのを何度か聞いたことがあります。1968年というのは、僕の個人史を重ねるとぴったり来るんですが、実際、1920年代と1960年代、新行芸術の勃興とアングラ芸術運動、1930年代と1970年代、ファシズム体制とオイルショック体制を重ね合わせる時代意識があったんです。磯崎さんが『建築における1930年代』をまとめるでしょう。
- 中谷:こういうことを考える時には、まず、何年生れの人が、何年頃に、何年のことをどう書いたか、を問題にしたいと思います。例えば、1910〜20年代生れの人が50~60年代に活動して、国家的プロジェクトを担当したとかね。つぎは1945年前後生まれのひとたちが、1970年代に出てきて、例えば、松山さんが1920年代や世紀の変わり目について書く。自分たちが生きてきた時空間の正当性の根拠としての過去、歴史がそこに現れてくる。
- 布野:それは確かにポイントだと思いますよ。
- 中谷:日本の70年代が世界的に共感をもって受け入れられるかどうかは、第二次世界大戦後の世界に散らばる1945年前後の生まれの人々にかかっているのではないかと思います。半ば共感として、半ば反感として。でもそれは全くわからないと言うことにはならないのではないか。今回の展示ではそこに賭けてみたいと思っています。世界が破壊されて、そこから様々な方法論が生れて、それぞれの戦後が展開していくわけですが、『AD』は僕がみても面白いですよ。
- 松山:植田実さんの『都市住宅』は、『AD』の影響で生まれたんですよ。
- 中谷:アーキグラムも面白いし、『Whole Earth Catalogue』ⅺ

も面白い。何かあるんですよ、70年代に共有化されたものが。
[青井:さきほど、70年代の世界情勢のなかで、ひょっとすると日本だけが68年以降の問題系の噴出を豊穣な建築表現へと転化できたのではないか、と書きました。西欧の場合、たとえばJohn F.C. Turnerⅻのように第三世界のスラム改善をめぐってセルフ・ヘルプの思想をプロモートした人なんかは重要ですね。布野先生はターナーに会ってますね、『群居』の誌面に出てますけど。東南アジア、南アジア、南米なんかで、いかにも68年以降という雰囲気のグループが多様なハウジング支援の運動を展開しますね。ああいう感じと比べたときに日本がどう見えるか、接続されうるか、という視点もあってよいかなと思いました。]
そして誰もいなくなった
- 布野:松山さん、物書きとして、どの時代を何を根拠に書いてきたかということについては、どうですか。
- 中谷:そういう風に問うと、単なる昔話じゃなくなりますよね。松山さん是非。石屋の話からですか。
- 松山:えー、今日は布野君が私が引越したから、その祝いをやろうというので出てきたんだけどね。
- 布野:そうだ、松山さんは長年住んだ木賃アパート、ついに追い出されて?、最近、六本木のマンションに引っ越したんですよ。
- 松山:木賃じゃないよ。一戸建てだよ。マンション暮らしは全く慣れないね。それはともかく現代に一番興味ありますね。引っ越して辺りを見回すと、超高層のビルだけになって、肌触りのするよう空間がなくなっちゃった。なんでこうなったのか、と思いますね。
- 布野:松山さんはそれをずっと告発してきたじゃないですか。その原点にあるのは一体・・・
- 松山:僕がバブルが始まる直前に書いたのが『乱歩と東京』(パルコ出版)・・・
- 中谷:僕のバイブルです。『世紀末の一年』も。
- 松山:バイブルが多いね。バブルだよ。思いだすと、その前からもう街は消え始めていたんです。バブルになったらすごかった。アメリカの総資本の4倍とか言われたんだよね。銀座、築地、うちの近く(虎ノ門)、港区、中央区、文京区、軒並み変わっちゃった。あの当時、僕は街をあるいて写真を撮っていたんだけど、トマソンが一杯あった。源平(赤瀬川)さんが名づけたトマソン物件は、我が家の近くばかりだった。『写真時代』のほら、白夜書房の、ギャンブル王の・・・
- 中谷:末井さん。
- 松山:東京では、街が消えてったなということです。そのころで僕の小学校の同級生32人のうち同じ場所に住んでいたのは3人ぐらい。そして僕が最後。みんないなくなっちゃった。
- 布野:みんな家もなくなっちゃった。すごいね。
- 松山:東京オリンピックのときに大半いなくなっちゃったんだよね。マッカーサー通りが出来て・・・ついに誰もいなくなっちゃった。思い出せば、小学校の時が一番面白かったね。後は面白くもなんともない。『三丁目の夕日』の舞台だという人も多いけど、ちょっと違う、あの映画には、子どもたちが放課後に集まる銭湯の場面がない。東京タワーの完成は僕が中学へ入った年の暮れですけどね。
- 布野:中谷さん、東京という首都が壊滅したという経験は、ビエンナーレで扱うんですか。
- 中谷:扱いません。大きな物語は今回退場いただいています。むしろ、材料を持っていって、向こうでシンポジウムできればいいんじゃないかと思っています。
- 布野:ロシア館というのはあるんですか。
- 中谷:ありますよ、すごいのが。
- 布野:本田晃子さんという人の『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』(東京大学出版会)というのが出たばかりで書評を頼まれて読んでるんですが、レオニドフというのは1957年ぐらいまで生きてたんですよね。実にその生き様が面白い。ロシアについては情報がなかったんだけど、この際突き合わせてみたらいいと思います。
[青井:日本近代建築史も検討と更新が必要ですが、都市史もやるべきことが多いなと思っています。東京の形成史だって、無名の動きも含めて、どういう力が働いて、何が起こったのか、きちんと追った作業は実はありません。1930年代の国家社会主義的な動向もかなり重要だし、70年代の転換も、次の段落で中谷さんが指摘する2000年前後の転換も重要。建築史は、当然こうした意味での都市史と深く結びついています。]
ビル爆弾
- 中谷:松山さんが現在のことに興味があるというのは僕も同感です。歴史もめぐりめぐった現在的意識の反映ですから。僕は小学校から日本国憲法を読むのが好きでした。きわめて普遍的な文章だと思っています。ところがこれを歴史的なものとして相対化しようとする政治的動きがある。すると、ああ、もしかすると僕は軍国少年の反対の平和少年なのであったのではないか、とも思いはじめたわけです。私は平和を希求しますが、そのように自分を相対化すること自体はよかったとも思う。1945年生まれとしての松山さんは,現在の動きについて、どうお考えでしょうか。
- 松山:憲法でいえば、平等理念が行きついた感じかな。均質の箱型の中に誰もが全てが押し込められるようになったんですよね。今や。
- 中谷:マンション?
- 松山:マンションだけでなくてあらゆる施設が、体育館も大学も美術館も、劇場や役所や駅も。そこまで行き着いてしまった、ということをもう一度考えるべきでないか、ということですね。ヨーロッパでは、まだ、古い建物を保存したり補修したりすることがあるんだけど、日本ではみんな箱になっちゃった。ここまで変えてしまって、建築学科の学生さんたちは四角い箱しかできないんじゃないか、と絶望的になりますよね。この前、鈴木博之さんの葬式があって、その帰りに、伊東豊雄さんと山本理顕と蕎麦屋で飲んでしゃべったんだけど、伊東さんが「伊東塾」を始めたら、子供のほうがよっぽど面白い、どうも若い人たちは何か恐れてるんじゃないか、そうだそうだ、という感じなんですね。それは確かに、僕が芸大で教えていた時にそう感じたことがあった。去年も広島に丹下さんのことを話しに行ったときも、丹下さんはすごいけど、そんなのに僕たちは関係ない、という感じなんだよね。ともかく、四角くて細長くて高い建物しか設計できないとしたらこんな寂しい時代はないと思う。
- 布野:何となくどう掛け合わせていいかわかんないんだけど・・・、中谷さんが提起したのは、日本国憲法の問題だよね。それについては言いたいことはあるけど、建築の問題としては1945年に共有されていたことがある。僕は戦後建築の初心というんだけど、目指すべき建築は共有されていた。それは僕は大事にしないといけないと思ってる。戦争はもうしません、というような実現すべき建築についての指針があった。松山さんは、それなのにどうしてこうなったんだろう、といった。
- 中谷:ビル爆撃って表現してたんだけど、ビルが突き刺さるように東京に建っていった。2000年ごろかな。
- 布野:レオニドフがそういう絵を描いている。シャープで格好いいんだよね。そして、暗くなる。クリミア南岸開発計画案なんて、知らなかったけどレオニドフとは思えない色調。今のウクライナ問題の・・・、青井さんが駆けつけてくれました。
- 青井:どうすればいいんでしょう。
- 布野:しばらく聞いてて、流れに自然に乗ってください。ここまでの議論については、紙上参加してもらいます。
昔話じゃなくて
- 中谷:昔からあったと思うんですよ。例えば、民家研究会の「白茅会」が出来たときに、既に、民家はなくなりつつあったんです。
- 布野:「白茅会」は大正6年、1917年発足ですね。
- 中谷:あの頃にも、経済合理、国家管理、そしてそれ以外の動き、今日に繋がる要素はあった。多分トマソンもあった。ただ、比重が違っているんです。いま、グローバリゼーションというけど、20年代にもあった。70年代にもあった。いろんな要素がある中で、超高層一辺倒へ向かう技術体系ではない、複数の方法論が70年代にあった。それを今回紹介できたらと思う。石山修武さんの作業は、特にどのようにして技術を自分でコントロールするかと言うことについて、いまだに示唆的です。石山修武さん自身は世田谷村で都会でやってしまった。これはすごく大変なことだと思うけれども、都心から離れれば割と容易にできることは想像できるのではないか。
- 布野:そう。石山さんの工業ヴァナキュラリズムとか、色んな試みが70年代にあった。だから、1970年代に焦点を当てるというのはよくわかる。
- 中谷:過去を振返るというんじゃなくて、今でも使える、ということなんです。基ネタをもっていきたい。
- 松山:僕らも蓼科で小屋造ってた。自力建設で。
- 中谷:今回いろいろな方にインタビューをしていて興奮したのは、建築家による商品開発の流れです。石山修武+ダム・ダンがダイレクト・ディーリング(DD)方式という建築家に提供したプロダクト群がありましたね。伊東さんがそれを使ってたの知らなかった。それで「笠間の家」ができたという。それで、伊東さんは商品化住宅研究会で「ドミノ・システム」を再提案して、『クロワッサン』で告知した。そういう相乗効果が随所にでてきたのがおもしろかった。
- 布野:仕事がなかったんだよ。その頃、石山さん、伊東さんによく会ってたからよく覚えてる。商品開発とかプレハブ住宅に手を出すというのには相当抵抗があったことを鮮明に覚えてる。渡辺豊和さんが「テラスハウス桃山台」とか建売住宅を発表した時は衝撃的だったんだから。大野勝彦さんは、工業化住宅を意識的に戦略化していくんだけど、その後、宮脇壇先生などがメーカーの団地開発のアドヴァイザーになったりするようになる。今や若手建築家たちは、大手のディベロッパーやメーカーの住宅相談ということで新聞の一面広告に出る世界になってる。
僕らの足元を築いた70年代
- 青井:70年代を掘り起こして、有象無象、ガラクタをたくさんヴェネツィアに持っていって再評価する、というようなことを中谷さんは考えておられるのですよね?
- 布野:一応、国会議事堂級の建築も青焼でカヴァーするという話でしたけど。
- 青井:有象無象って言葉はいい意味で使っているんですよ。ところで、ここまでたぶん具体的な手触りのある話が展開されてきたと思うので、ちょっと興ざめになるかもしれませんが、図式的にこの百年を考えてみたいと思います。ひとつは社会・経済軸、もうひとつは国家・制度軸があると思うんです。さらにもうひとつ敢えて立てるとすると、建築家の固有性・表現の軸があるのかなあという気がします。明治時代というのはこれらの軸が分化していなくて、「美術建築」をつくっていくことが国家のためにもなるし、経済発展にも繋がるということだった。ところが、今日話題になっている1914年頃に目を移すと、明治期の構図がどどぉっと変わる時代に入っていく頃だと思います。国家・制度軸を強く際立たせていく社会政策派、あるいはテクノクラート路線が出てくる。社会・経済軸から建築論を立てるマルキスト陣営が出てくる。それに対して、表現の所在を担保しようという系譜として、分離派があり、その後に国家・制度軸や社会・経済軸との緊張をはらみながらモダニスト陣営が形成されてきますね。この三つが立場を異にして分裂しはじめるのが百年前。明確になるのは1930年頃かもしれませんが。その後、この三つの立場の分立は1960年代までは生きていますが、それが見えにくくなるのが70年代なんじゃないかと思うんです。社会・経済軸そして国家・制度軸には太刀打ちできないんじゃないかと思われていくということでもあるでしょうし、いずれにせよそれらは建築論の後景に押しやられる。そこでは、政治論とか経済論の問題を、表現論とか文化論とか芸術論に畳み込むというようなことをやったんだと思いますが、だからこそ政治、経済との緊張関係はあったんだとも思います。先ほどの石山さんの話だと作家の立場から生産体制にどうコミットしていくか、ということですよね。フーコーの権力論もよく似ていて、政治、経済、権力を外形的に捉えるんではなくて、もっと日常的で身体的なレヴェルに編み込まれたものとして権力を捉える方向にいき、そういう権力論ならば国家や資本を直接語らなくても権力論になりうるので、70年代の文化論や芸術論にとってこうした新しい権力論はとても重要だったと思います。だけどそこには緊張感があったということは強調しておきたい。それが70年代だと思う。それを80年代以降にうまく継承できてないということが問題だと思っていますが、だから見えにくいかたちではあっても、70年代は私たちの思考の直接の起源だし、大枠をつくった時代であることは間違いない。だからこそ70年代を扱うときの批評性が問題になると思います。つまり中谷さんが70年代の魅力からどう半身を剥がして批評的に展示するのか、その辺が見物になるんじゃないかなあ、と勝手ながら思っているんです。
- 布野:あれ、中谷さんが真壁さん連れてきちゃったけどどうしよう。青井さんのフレームをどう考えるか・・・まあいいか、真壁さん折角だから是非ひとこと。
現実とは?-3.11とどうクロスするのか
真壁智治:今日は、中谷さんの口から初めてヴェネツィア・ビエンナーレの基本的な狙いを聞けたんですが、何べんも事務所には来てもらってるんだけど、ある程度分かった気がしました。中谷さんの言う共通感覚が世界とどう響きあうのかなあと思うんですよね。70年代には、多木浩二の存在とか、原広司の『機能から様相へ』とかある。多木さんは『生きられた家』を書いて『都市の政治学』に行ったんだけど、そういう方向を建築界は盛り上げられなかったんじゃないか。70年代の動きは分裂とは思わないけどなんとなくずれてって、全体として盛り上がられなくなっていった。今思うといたたまれない気持ちですね。今度、3.11が起こって70年代と絡んでくるかどうかですね。今度のビエンナーレも3.11と絡まないとヤバイんじゃないか、と思ったりします。今日は、まあ、おとなしく帰らせてください。
- 中谷:我々の元をつくったものをどう評価するのかという青井さんの問題提起が重要だと思います。たとえばバブル建築というと馬鹿にしますよね、確かに様式としてのバブル建築は今となってはいたたまれないが、バブル直前まで日本の経済がずっと右上がりに展開していく中で、未知のビジョンに経済界含めて突入していったような部分、特に原広司さんの「地球外建築」などは、いろいろと論じられると思います。
私は建築は社会をつくるものではないと思っています。既に発見された世界や自然の風景に建築というかたちを合わすというのが真骨頂なのだと思う。建築家がどのような対象をクライアントにするかによって建築のクライテリアは決まる。経済的な目標を実現することをクライテリアにすれば、それは超高層になるというのでいいんです。だけどたとえば「超弦理論」にのっとって建築をつくろうと思ったら、現実の世界にいながら現実じゃないといった建築をつくることになる。そういう意味で現実は複数だし、拡張可能なものなのだと思いたいわけです。
- 布野:「超弦理論」は世界は10次元だという。時間を加えると11次元。この現実の世界を説明しようとするとそうだという。建築は所詮三次元プラスワン。幾何学だと6次元ぐらいまでは形として解けつつあるらしい。よくわからないけどね。
- 中谷:世界が解けたのならそれをモデルにしようとする人がでてきてもいいじゃないですか。
- 松山:原さんの梅田ビルがなんでいいの。なんで百年を代表する建築なの。貴方の価値観からすると。
- 中谷:大組織や大メーカーと協働してあのかたちに組織化できたプロセス。
- 松山:そうかなあ?
- 布野:僕もあんまり納得してないんだけど。ひとつだけ、C.ジェンクスにあったと聞いたんで、どんな様子だったか教えてくれる。彼は日本の70年代を随分ヨイショしてくれたんだよね。
- 中谷:元気でした。あの人たちは理論的な戦いと日常の生活は違うんですね。日本と違う。日本だと喧嘩するとすべて全人格的に嫌いとなっちゃうんだけど、違っていました。ジェンクスは、いまだにポストモダニズムです。その定義は変わり続けるわけだけれども。いまではフレーザーのようなデスクトップ研究者ですが、よく最近の流れもおさえていました。彼、最近『Adohochism』ⅹⅲという本を再刊しました。1972年に出した近代技術を如何にぶりコラージュするかという面白い本で、その例として当時の日本の動きを紹介してくれたらよかったのに、と言ったら、そうだよねえ、という感じでした。
- 青井:建築は社会をつくらないと、中谷さんは言ったけど、例えば、布野先生ならそれは絶対言わないと思います。その辺をもうちょっと続けて議論したらいいと思います。それこそジェンクスのように爽やかに(笑)。
- 布野:中谷さんがもうひとつ言ったことが気になるけど、自然の形に寄り添えばいいと言った?
- 中谷:それも含めて、建築は、これ格好悪いな、これちょっと格好良くしようか、という社会倫理と趣味性の間に成り立ってるかたちだと思うんです。建築は現実の中で解を捜すわけですよね、この現実というのが曲者で、ある建築家は経済原理が現実だと思ってるし、ある人たちは国家的管理の仕方を現実だと思ってるし、ある人たちは草の根の町おこしを現実だと思っている。それぞれギャップがある。建築をつくることとはいずれの現実においても、それに見合うように社会的器としての建築をデザインさせることなのではないかと言いたかったのです。だから彼の選んだ現実がきわめて未知の領域になっていたらその建築は当然これまでになかったものになるか、あるいは失敗する。そこまでも含めて現実と言う言葉を考えたい。主観的現実の強度と言うか。一歩先の現実をみてる。
- 青井:そこに社会に対する見方があるわけですよね。その辺のことが70年代を問う場合も重要になってくると思います。それからさっき、真壁さんがいわれた3.11ということに関して、若干の話題提供したいと思います。「みんなの家」を建築家が建てていますけど、この「みんな」という言葉は、やっぱり歴史のなかにあるんですね。ここに『建築をみんなで』xⅳという本を持ってきたんですが、これは1956年に出てます。ご存知だと思いますが、民衆のため、社会のための建築ということと、建築家の固有名を消す共同設計の問題とかが取り扱われています。伊東さんたちが「みんなの家」で考えている社会との関係の取り結び直しのような問題とどこかシンクロナイズするところがあるんじゃないか。民衆論争だって伝統論争だってそういう問題だった。そうだとすると、今日の状況から歴史にモデルを見出そうとすると50〜60年代へ行くわけで、実際、いまちょっとした60年代ブームです。そして70年代はすっ飛ばされちゃう。でも私たちの足下は否定しがたく70年代的なものでつくられてもいる。そこの議論をどうやって回復するかということが結構重要かな、と思うんです。
- 布野:解説すると長くなるんだけど、建研連は、『建築をみんなで』を出して解体しちゃうんです。戦後の初心と言ったんだけど、それが怪しくなっていく・・・
- 青井:解体の前の「総括」の本ですね。近代建築史というのは、もう大きな転向や小さな転向が次々に積み重なっていく歴史ですね・・・、社会とか国家に対してプロテストしてみるけれど、それを一貫して持続することは難しい。転向というのはたいてい作家軸に移ることであって、その瞬間に、それまでのプロテストと一定の擦り合わせをしたかたちでの問題の立て直しを迫られるはずです。近代建築史、とくに戦後建築史というのは、各時代の建築家が転向のときに立てた問題を連ねて思潮史と称したものではないかと思うことがあります。でも、そういう歴史へのヒントを提供してくれる本は、布野先生の『戦後建築論ノート』(1981)xvくらいしかないかもしれない。あれが出て30年以上たっているのだから、巨視的な視点で近代を捉え直し、そのなかでひとつひとつの小さな転向を位置づけていかないと風通しがよくならないと思っています。
- 布野:締まったところで、続きは、時と場所と話題を変えて、また議論しましょう。
- i 「〈柩欠季〉のための覚え書」『TAU』01,商店建築,197301。「虚構・劇・都市」『TAU』03,商店建築,197303。
「ベルリン・広場・モンタージュ」『TAU』04,商店建築,197304。:布野修司建築論集Ⅱ『都市と劇場 都市計画という幻想』所収。
- ii 歯科医一木努氏が1960年代から40年以上にわたり解体される建物から採集してきたカケラのコレクション。
- iii 超芸術トマソン。 赤瀬川原平らによる概念提示。不動産に付属し、まるで展示するかのように美しく保存されている無用の長物。存在がまるで芸術のようでありながら、その役にたたなさ・非実用において芸術よりももっと芸術らしい物を「超芸術」と呼び、その中でも不動産に属するものをトマソンと呼ぶ。 超芸術を超芸術だと思って作る者(作家)はなく、ただ鑑賞する者だけが存在する。」
- iv 1968年、大竹誠、中村大輔、村田憲亮、真壁智治により結成され、1974年まで活動を行った。
- v 「先月号の月評を投函した翌々日の1月7日、クリス・フォーセットが大阪駅近くのDビルの屋上から投身自殺した。1973年、21歳のときに日本の文化に興味をもって来日し、3年半、日本の現代建築やさまざまな儀式のフィールドワークを行なった。その後イギリスに戻ってエセックス大学で学位を取り、2年前に再来日した。現在の日本の文化の半ば狂的な現象に尽きぬ関心をもっていたのだが、そんなものに魅かれてはるばるやって来る自分も狂っているのだろうとしっていた。この時すでに病魔が彼の肉体を犯し始めていたのだが、死を決意する直前まで、圧倒的な違和感を与え続ける日本の文化について、執拗な思索を続けた。(中略)徹底的な無神論者であった彼の、日本の宗教儀式や建築に向けられた眼差しの何とも優しさに満ちていたことだろう。それにしても無心論者の自殺はあまりに悲痛だ。遺稿のタイトルは「Japan City」。」(平山明義1986年『新建築』月評)。
- vi 趙海光+高山建築学校編集室(編)『高山建築学校伝説―セルフビルドの哲学と建築のユートピア』鹿島出版会、2004年
- vii セキスイハイムM1についてはhttp://www.sekisuiheimm1.com/
- viii 東京大学工学部建築学科のグループ。メンバーは、杉本俊多、千葉政継、戸部栄一、村松克己、久米大二郎、三宅理一、川端直志、布野修司他。
- ix フランセス・イエイツ Frances Amelia Yates(1899~1981)。英国の思想史家。ルネサンスのネオプラトニズム研究で知られる。『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』(前野佳彦訳、工作舎)、『記憶術』 (玉泉八州男監訳、青木信義訳、水声社)、『世界劇場』(藤田実訳、晶文社)、『シェイクスピア最後の夢』藤田実訳、晶文社)など。
- ⅹ エリック・ホブズボーム Eric John Ernest Hobsbawm(1917~2013)。英国の歴史家。『革命の時代』(邦訳は『市民革命と産業革命』)、『資本の時代』、『帝国の時代』の三部作で長い19世紀(1789~1914)を扱う。1914~1991年を「短い20世紀」として、『両極端の時代:短い20世紀』(邦訳『20世紀の歴史――極端な時代』)を著わした。
- xi 1968年にスチュアート・ブランドによって創刊。1974年に,Stay hungry,stay foolishという言葉(スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の講演で学生たちに贈る言葉として紹介した)を裏表紙に飾って廃刊。
- xii John F. C. Turner(1973), ”Freedom to Build”, (1976)"Housing by People: Toward Autonomy in Building Environments",Pantheon Books
- xiii Charles Jencks and Nathan Silver(1972),“Adhocism: The Case for Improvisation”, MIT Press / (2013) expanded and updated edition, MIT Press
- xⅳ 建築研究団体連絡会『建築をみんなで』日刊建材新聞社、1956年
- xv 改訂版『戦後建築の終焉 世紀末建築論ノート』れんが書房新社、1995年
(文責 布野修司)
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