2003年5月12日

財団法人 国際文化会館 
理事長 嘉 治 元 郎  殿

国際文化会館の保存活用に関する要望書

                              社団法人 日本建築学会
                              会 長  仙田 満

 拝啓 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
 日頃より、本会の活動につきましては、多大なご協力を賜り、厚くお礼を申し上げます。
 さて、貴下におかれましては国際文化会館の取壊しを検討されておられる旨、聞き及んでおります。
 ご承知のように、この建物は戦後日本の文化人の国際交流を推進するための施設として、ロックフェラー財団からの寄付金などを下に鳥居坂の旧岩崎邸跡地に1955(昭和30)年に建設されたもので、建物の設計にあたっては日本を代表する近代建築家である前川國男・吉村順三・坂倉準三が共同設計という形で携わった唯一の作品として知られ、また翌年には日本建築学会作品賞を受賞した建物でもあります。
 この建物は、別紙「見解《に示します通り、「模範的国際小社会の実現《という会館の創立理念を、上記3人の建築家が「近代(主義)建築と日本庭園との調和《という形で表現した建物で、その巧みな設計手法によって庭園と調和することに成功した建物は、戦後日本の近代建築作品の中でも極めて優れた作品として位置づけられるものです。
 貴下におかれましては、この貴重な建物の文化的意義と歴史的価値についてあらためてご理解いただき、このかけがえのない文化遺産が永く後世に継承されますよう、格別のご配慮を賜りたくお願い申し上げる次第です。
 なお、本会はこの建物の保存活用に関しまして、可能な限りお手伝いさせていただきたいと考えておりますことを申し添えます。

                                      敬 具


2003年5月12日

財団法人国際文化会館についての見解

                              社団法人 日本建築学会
                           建築歴史・意匠委員会
委員長  陣 内 秀 信

 東京都港区鳥居坂にある財団法人国際文化会館は、国内外の研究者や芸術家などの文化人を主な利用対象者とし、会議室や講堂・図書館とともに宿泊施設や食堂などの施設を備えた複合文化施設である。財団法人として1952年8月に設立された同会館は、その理念に「模範的国際小社会の実現《を掲げ、それに賛同する会員制度によって設立から現在まで運営されている点が、他の公共の文化会館と大きく異なる特徴といえる。
 会館の建設は、その設立母体である樺山愛輔氏ら国内外の35吊の有志からなる「文化センター設立準備委員会《(1951年11月発足)の活動によって進められ、1952年10月には土地の購入と建築家への設計依頼が行われ、1954年3月1日には地鎮祭、翌1955年6月1日に竣工、そして同年6月11日に開館式が行われた。
 建設用地には、関東財務局から鳥居坂の約3000坪の国有財産(旧岩崎邸)の払い下げを受けた。建物の設計は、当時日本建築界において指導的立場にあった前川國男・吉村順三・坂倉準三の3氏に共同設計という形で依頼され、建設工事は前記3吊の建築家の監督の下に清水建設の施工によって行われた。土地の購入費および建設資金は、ロックフェラー財団からの2億5000万円の寄付金と会館の理念に賛同する民間有志(法人約7000社、個人5000人)からの寄付金1億円によって賄われた。竣工時の建物は、地上3層・地下1層で、延坪は1065坪であった。
 竣工後の増築としては、1958年9月に南側庭園の池に面する場所に約40坪の特別会議室兼食堂が吉村順三氏の設計により増築され、ついで1959年10月には地階ラウンジの吹抜け部分を閉鎖して階上ロビーの床面積を23坪増加する工事が前川設計事務所によって行われた。その後1961年8月には表玄関・フロントの改修工事が行われ、1974年には前川設計事務所により、建物西側に赤色磁器質タイル貼りの建物が増築された。これらの増築箇所以外は、現在に至るまで当初の状態を良く残していると考えられる。

 国際文化会館は竣工翌年に日本建築学会作品賞という形で評価されたが、建築作品としての価値は、その設計において近代主義の設計手法が十全に展開されたことと同時に、そうした作品が既存の和風庭園と調和することに成功した点にあるといえる。国際文化会館の優れた和風庭園は旧岩崎邸の庭園を引き継いだものであるが、特に本館における空間構成と立面意匠の処理にはこの優れた和風庭園との調和を最大限に考慮する姿勢が見られる。それは、具体的には以下のような点に見ることができる。
 1)機能別のゾーニング
 国際文化会館は設立当初から多角的な事業活動を指向していたため、建物には規模や機能の異なる複数の空間が同時に求められていたと考えられる。会館の施設は、個人研究者のための施設(研究者個室・ラウンジ・食堂・図書室)と、国際会議などで多数の人間が一度に集まる施設(会議室・講堂・視聴覚室)の2種類に大きく分けられる。配置計画では前者を既存の和風庭園に面する本館に、後者を前面に広い駐車スペースを持つ別館に集約させ、両者に専用の玄関を設けることで両者の動線が交錯することを回避している。更に本館においては、外部との接触の多い理事室・事務室を1階に、静謐な環境が求められる研究者個室を独立性の高い2・3階に、そして地階に設けられた食堂は庭に開放することで、それぞれの利用者に快適な環境を提供することに成功している。
 2)内部空間と外部空間との連続性
 庭園に面する諸室は、袖壁・垂れ壁を設けない全面開口とすることで庭園への眺望を最大限確保している。また1階の玄関ホール・ラウンジ部分では内壁に外壁と同じ大谷石の壁を廻し、南面のガラス建具は梁を避けて天井スラブ一杯までとすることで、外部空間と内部空間との連続性を強調している。また地階の食堂では、ガラス建具を開放して庭園と一体的に使用することで、150〜200人のガーデンパーティーが開けるようにも計画されている。
 3)外形ヴォリュームの軽快な処理
 本館の外観意匠では、横長低層の単調な直方体ヴォリュームを軽快に見せるための工夫が施されている。まず大谷石の壁を廻した1階部分に対し、研究室個室を集約させた2・3階部分をキャンチレバーとすることで軽快な印象を与えている。そして2・3階部分の南北立面は、陸屋根の軒と各階のスラブおよび南面のベランダや北面の横長連続窓によって水平感を強調するように分節され、更にプレキャストコンクリートを用いて見付寸法を細く抑えたベランダの柱・窓台・方立によって縦に細かく分節されている。これらは1階部分に用いられた大谷石や打ち放しコンクリートのマッスと対比されることで、その軽快さがより強調されて見えてくる。別館では、高い天井高を必要とする講堂が2階に設けられているが、ここでは東立面の水平感を保つために軒高を低く抑えたヴォールト屋根が採用され、庇やテラスを設けることで、本館と同様に水平感が強調されている。
 4)木製建具・明障子による日本建築的表現の付与
 南北立面の大半を占める開口部には桧の框を用いた木製のガラス建具が用いられ、また研究者個室にはカーテンではなく明障子が用いられている。これらは白く塗られた小壁とともに、日本建築の真壁風の雰囲気を出すことに成功したと考えられ、既存庭園との調和に効果を発揮したと考えられる。建築評論家の浜口隆一は、『新建築』1955年7月号の竣工記事に添えた批評においてこの「日本的《な表現を指摘し、「『日本的』な感じと『近代的』な感じとの交錯するところが要するにこの建物のデザインのキーポイントだと思う《(p,13)と述べている。
 5)増築手法に見られる本館南側ヴォリュームの抑制
 1958年9月に行われた池に面する40坪の特別会議室兼食堂(吉村順三設計)の増築では、軒や縁側を張り出し水平感を強調した外観意匠とするとともに、高さを抑え屋上を芝庭とすることで既存庭園と連続させている。また1959年10月の改修(前川事務所設計)ではロビー拡張のためにラウンジ吹抜けに天井が張られたが、これは本館の外形ヴォリュームの拡大を抑えたためと考えられる。同様の配慮は、1971年の増改築(前川事務所設計)において敷地西側に別館を隣接させることで南庭への影響を避けた点にも見ることができる。このように、竣工後の増改築工事は同じ設計者によって行われために、建物の意匠や庭園との関係の取り方に当初の趣旨が継承されたと考えられ、半世紀後の現在においても竣工時の建物の価値は、充分に継承されていると考えられる。


付記:「鳥居坂の自然と国際文化会館について《

 国際文化会館の和風庭園は、旧岩崎邸の当主である岩崎小弥太の指南によってつくられたと考えられる。岩崎小弥太の庭園に対する造詣の深さは熱海別邸によってもよく知られている。
 国際文化会館の敷地の昔の状態を知ることができる史料として、参謀本部陸軍部測量局『五千分一東京図・測量原図』(1984年に日本地図センターより複製発行)がある。明治9年から14年にかけてフランス陸軍図式で作製されたこの『測量原図』は、建物や庭園が細密に描かれていることで知られる。これを見ると、この敷地に相当する「井上邸《では崖に面する南側と鳥居坂に面する東側に椊栽が施され、その内側に大きな池を設けた庭園があったことがわかる。現在の国際文化会館の庭園もまた南側と東側に椊栽が施され、その内側に池を設けていることから、小弥太は作庭に際して、既存の庭園を巧みに利用したものと考えられる。
 現在、国際文化会館の庭園は、椊栽や崖・石垣などによって鳥居坂に良好な自然環境を作り出すことに成功しているが、既に述べたようにこれらは少なくとも明治初頭(あるいは江戸末期)以来継承されてきたものと考えられる。これらは現在、鳥居坂において過去の面影を今に伝えるかけがえのない地域の文化遺産になっているが、同時に今後はまちづくりにおいて地域のアイデンティティを担うものと成り得ることから、大切に継承されて行くことが望まれる。

                                      以上