2000年2月3日

目 黒 区 長
薬師寺 克一 殿

社団法人 日本建築学会
会  長 岡 田 恒 男

第一勧業銀行碑文谷総合グラウンド内における
「旧日本勧業銀行本店別棟」および「旧クラブハウス」の
保存活用に関する要望書

 拝啓 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
 さて、貴台におかれましては、第一勧業銀行から同行所有の碑文谷総合グラウンドを購入し、区立碑文谷公園としての再整備計画の一環として、同グラウンド内に現存する歴史的建造物である「旧日本勧業銀行本店別棟」(以下「旧別棟」と記す)と「旧クラブハウス」の取り壊しを検討されている由、仄聞しております。
 しかしながら、ご承知のように「旧別棟」は、明治30年代に建設された旧日本勧業銀行本店の別棟を移築したもので、かけがえのない歴史的建造物であると考えられます。妻木頼黄設計、武田五一監督による旧日本勧業銀行本店の別棟として建設されたもので、本館と同様に和風を基調とした意匠を特徴とし、わが国における近代建築の歴史を考える上にも、とりわけ重要な価値を有する建物です。
 同様に、「旧クラブハウス」は昭和12年に建設され、当時流行したスパニッシュ様式によるモダンなクラブハウスで、当時の経済・財界の舞台として話題となり、戦前期における社交文化を考えるうえで価値の高い建物です。本会では、以前よりわが国の明治・大正・昭和戦前期の近代建築の調査研究に着手し、その成果を『日本近代建築総覧』(1980年)として刊行し、そのなかでも特に重要な建築作品を指摘して、その歴史的・文化遺産としての価値を評価して、保存の意義を明らかにしています。「旧クラブハウス」がそのリストにあげられていることは、既にご承知のことと存じます。
 これらは、東京郊外に位置する目黒区におきましても、その歴史的風土と景観に厚みを加えるうえで重要な役割を担っていると考えられます。
 つきましては、貴公園の整備計画に際しましては、これらのかけがえのない建築を後世に伝えるべく、現地での保存活用のための方途をご検討いただけますようお願い申し上げる次第です。
 なお、本会として第一勧業銀行碑文谷総合グラウンド内における「旧別棟」と「旧クラブハウス」の保存活用について、歴史的調査、技術的調査、保存活用案の助言など、できます範囲でお手伝いをさせていただきたいと考えておりますことを申し添えます。今後とも、これらの優れた由緒ある建造物と良好な環境の保存のために、ご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。

敬具


2000年2月3日

株式会社 第一勧業銀行
頭取 杉田 力之  殿

社団法人 日本建築学会
会  長 岡 田 恒 男

第一勧業銀行碑文谷総合グラウンド内における
「旧日本勧業銀行本店別棟」および「旧クラブハウス」の
保存活用に関する要望書

 拝啓 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
 さて、貴台におかれましては、貴行所有の碑文谷総合グラウンドを目黒区に譲渡し、その譲渡計画の一環として、グラウンド内に現存する貴所有の歴史的建造物である「旧日本勧業銀行本店別棟」(以下「旧別棟」と記す)と「旧クラブハウス」の取り壊しを検討されている由、仄聞しております。
 しかしながら、ご承知のように「旧別棟」は、明治30年代に建設された旧日本勧業銀行本店の別棟を移築したもので、かけがえのない歴史的建造物であると考えられます。妻木頼黄設計、武田五一監督による旧日本勧業銀行本店の別棟として建設されたもので、本館と同様に和風を基調とした意匠を特徴とし、わが国における近代建築の歴史を考える上にも、とりわけ重要な価値を有する建物です。
 同様に、「旧クラブハウス」は昭和12年に建設され、当時流行したスパニッシュ様式によるモダンなクラブハウスで、当時の経済・財界の舞台として話題となり、戦前期における社交文化を考えるうえで価値の高い建物です。本会では、以前よりわが国の明治・大正・昭和戦前期の近代建築の調査研究に着手し、その成果を『日本近代建築総覧』(1980年)として刊行し、そのなかでも特に重要な建築作品を指摘して、その歴史的・文化遺産としての価値を評価して、保存の意義を明らかにしています。「旧クラブハウス」がそのリストにあげられていることは、既にご承知のことと存じます。
 これらは、東京郊外に位置する目黒区におきましても、その歴史的風土と景観に厚みを加えるうえで重要な役割を担っていると考えられます。
 つきましては、目黒区への貴行所有の碑文谷総合グラウンドの譲渡計画に際しましては、これらのかけがえのない建築を後世に伝えるべく、現地での保存活用のための方途をご検討いただけますようお願い申し上げる次第です。
 なお、本会は「旧別棟」と「旧クラブハウス」の保存活用について、歴史的調査、技術的調査、保存活用案の助言など、できます範囲でお手伝いをさせていただきたいと考えておりますことを申し添えます。今後とも、これらの優れた由緒ある建造物と良好な環境の保存のために、ご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。

敬具


第一勧業銀行碑文谷総合グランド内
「旧日本勧業銀行本店別棟」と「旧クラブハウス」についての見解

社団法人 日本建築学会
建築歴史・意匠委員会
委 員 長  鈴木 博之

「旧日本勧業銀行本店別棟」の見解

 「旧日本勧業銀行本店別棟」(以下「旧別棟」と記す)は、東京市千代田区内幸町にあった日本勧業銀行本店の別棟として建築された建物である。日本勧業銀行本店本館は明治32年6月に竣工し、「旧別棟」は、その数年後に敷地の角地に建設されたものである。本館の設計者は「日本橋」の設計者として知られている妻木頼黄であり、監督および実施設計は当時東京帝国大学工科大学造家学科大学院在学中の武田五一で、彼は後に京都帝国大学教授となり関西建築界の父として知られる。日本勧業銀行本店の建築は当時の建築界において、主要な公共建造物がすべて洋風で建築される時代に、和風を基調に設計され、その様式の是非については多くの話題と論議を呼んだ。その後、日本は多様な建築様式の時代を迎え、建築家の手による和風建築も出現するが、この建物はそうした風潮に先駆ける意味で、日本の近代建築史上において重要な個所に位置づけられる。 「旧別棟」は、東西棟と南北棟を南西の隅で矩折りに直交させたL字形平面で、直交する角を45゜に隅切り、隅切られた1間に出入口を設けて正面玄関とする木造平家建の建物である。規模は桁行4間、梁間1間、床面積約19坪で、切妻造銅板葺とし、東西棟の北側に1間の庇を張出し、東端妻面は半入母屋造銅板葺とする。基礎は鉄筋コンクリート造布基礎、軸組は木造で、外壁は和風真壁特有の柱と頭貫、長押等の垂直水平の線を交差させた表現とし、土台から腰長押までを額縁付竪羽目板張、柱間は引違戸、他は白漆喰塗壁とする。細部上部や軒廻りには、組物(出三ツ斗)、実肘木、舟肘木、巻斗、蟇股、挙鼻などとともに、正面破風には虹梁、大瓶束、木鼻などの妻飾りを施している。
 この建物の設計者として妻木頼黄および武田五一が関与したことを示す記録は、現在発見されておらず、設計者を確定することができない。しかしながら、創建時の本館の写真と比較する限りにおいて、一階の腰羽目板張、二階の上げ下げ窓や柱割、上げ下げ窓、腰長押や長押の六葉飾など、いわゆる和風の定石以上に本館と別棟の意匠的類似性を見ることができる。また、本館全体の和風意匠の扱いには、武田五一の後期の作品(旧村井邸/大正5年、永平寺大光明殿/昭和4年)に共通点を見いだすことができ、妻木あるいは武田の設計である可能性は否定できない。
 この建物の当初の用途は、その外構と位置や規模などから見て、掲示板を兼ねた構内へ入る「ゲート」のような機能を持つと同時に、銀行業務あるいは逓信業務の一部の窓口業務が行われていたとも推される。なお、本館の屋根はスレート葺であり、別棟も同様だったと推察され、また、内部の腰掛も後補と考えられるなど、創建時とその後の改変の詳細は明らかではない。今後、詳細な調査が待たれる。
 いずれにせよ、屋根や柱間装置、内部など、移築にあたって多少の改造はなされてはいるが、基本的な骨格と仕様はもとより、本館と共通する日本建築の細部意匠を巧みに活かした和洋折衷の技法など明治期の面影がよく維持されており、日本の近代建築史を辿る意味で極めて貴重な歴史的遺産である。

「旧クラブハウス」の見解

 「旧クラブハウス」は、現在の目黒区碑文谷(当時は目黒区三谷町126番地)の日本勧業銀行運動場のクラブハウスとして建設された。昭和12年2月20日に起工、同年9月30日に竣工、設計は日本勧業銀行営繕課とも合資会社清水組(現清水建設株式会社)とも伝えられるが明らかではない。ちなみに、清水建設株式会社には、昭和12年3月15日付の清水組附帯設備係による設備図面および竣工写真(昭和12年9月撮影、外観5点、内観4点)が現存するが、一般図はない。
 桁行(東西)93尺、梁行(南北)60尺。総面積199.0坪(一階:108.00坪、二階:91.00坪)。南側と西側にバルコニーを付す主屋の背面の北東側と北西側に翼屋を張り出した平面で、木造二階建、ただし、南側の主屋の一階は鉄筋コンクリート造とする。
 玄関は二階東端に配し、外階段を設けている。主要室は二階にあり、玄関を入って、南側に応接室、第一休憩室、貴賓室が並び、この南側にバルコニー、西端に円形ベランダが付く。玄関を入って北側に数段上がってホールがあり、第二休憩室、和室、そして湯沸室、便所が配され、玄関から西に延びる廊下先端の北側には便所、階段を下って浴室、便所が設けられている。鉄筋コンクリー卜造の一階南側は、ロッカー室とし、このロッカー室には二階玄関脇の小階段から降りる。一階北東側には、事務室や宿直室などを設ける。
 外壁はクリーム色がかったモルタル仕上で、リズミカルに粗石を突出させて張り、開口部まわりにタイル張を施している。屋根は、切妻造、瑠璃色の桟瓦葺とし、南側バルコニーの下屋部分は片流れ屋根としパラペットを立ち上げ、瑠璃色のスパニッシュ瓦を敷き並べている。塔屋もスパニッシュ瓦葺とする。
 全体の様式は、昭和初期の郊外邸宅で好んで用いられたスパニッシュ様式が採用されており、外観は南側バルコニーと西端のベランダの連続アーチが際立つ。内部も二階バルコニーは漆喰塗ヴォールト天井とし、二階の休憩室と貴賓室にはマントルピースを備え、ハンマー・ビームの化粧小屋裏あるいは化粧梁の天井で、重厚な中にも野趣あふれる雰囲気を創り出している。後世の改変は、背面の休憩室や事務室まわりにみられるが、南側主屋の間取りと内外の仕上はほとんど改変されず、ほぼ当初の姿を保持して現在に至っている。
 大正・昭和期になると、近代スポーツが盛んになり、郊外でも運動場を伴う充実した運動施設あるいは厚生施設が建設されるようになった。そうした中で貴賓室を備えたクラブハウスも珍しいことではなく、近代社会の社交文化のあり方に大きな貢献を示してきた。しかしながら、これらの施設は時代の変化のなかで、その数を減らしつつある。このような中で、当初の姿をきわめてよく維持している「旧クラブハウス」は、戦前期における経済・財界の社交文化を伝える貴重な歴史的遺産ということができる。

 以上のように、第一勧業銀行碑文谷総合グランド内における「旧別棟」と「旧クラブハウス」は、日本の近代建築史を再考するうえで、また社交文化を継承するうえで、さらには目黒区の歴史的な景観とその歴史の発展を知るうえでも、きわめて重要な建物と考えられる。
 近年、地方公共団体で歴史的建造物を保存し、活用するケースが増えているが、この建物はそうした意味からも、比較的容易に再利用の道を図ることのできるきわめて優れた建物ということができる。目黒区にとっても、今後の文化の発展を考えるうえで重要な歴史的遺産に位置づけられる。