第6回八束はじめ・布野修司対論シリーズ

現代の建築構造-実践の内と外-


日時:2015年6月12日(金)18:30~20:00
会場:日本建築学会 建築書店

日英を股にかけて活躍中の構造設計家の実践と研究。
日本と欧州での現場の実践及び大学での構造へのアプローチの違いに現れる、制度的文化的相違についての討論で構造設計と構造学、
更に建築のその他の分野の将来を瞥見する。

ゲスト

アラン・バーデン(構造設計家 ストラクチャード・エンヴァイロンメント(SE)代表)

1960年 イギリス生まれ。東京とロンドンを拠点として活躍中。日本構造デザイン賞など受賞。
ロンドン大学インペリアル・カレッジで学士及び修士号、東京大学で博士号取得(土木工学)。木村俊彦構造設計事務所、構造設計集団(SDG)を経て1997年SEを設立、現在に至る。元関東学院大学教授、芝浦工業大学非常勤講師。
主な作品 オレンジフラット(意匠設計:長谷川逸子)、キース・へリング美術館(意匠設計:北川原温)、森山邸(意匠設計:西沢立衛)


八束はじめ(建築家、建築批評家。芝浦工業大学名誉教授)

布野修司(建築計画、アジア都市建築史、建築批評。日本大学特任教授)


八束:それでは時間になったので、討論シリーズ6回目をはじめます。このシリーズでは、最初から決めているわけではなかったのですが、せっかく建築学会でやるんだから、建築学を構成するいろいろな分野の方をお呼びしてやろうよと、私から布野さんに提案しました。今まで建築計画があり、建築史があり、建築設計があり、それから建築生産があり、都市計画(工学)がありということなので、今回は構造にしようというわけです。今回はアラン・バーデンさんをお呼びしていますが、バーデンさんは元々ロンドン大学の土木で学位を取られて…

布野:土木は何カレッジというんですか?

バーデン:インペリアル・カレッジという…

布野:すごい偉そうだね(笑)。

八束:ロンドン大学って、日本の大学とは全然違っていて、我々には理解しがたいカレッジの集合体でしょう?  われわれが良く知っている建築はバートレットという風に、一緒の場所にもないみたいですね。バーデンさんは建築ではなくて土木のカレッジに学ばれたわけですが、ここで学ばれた後、修士からは日本で学位を取られて、今は東京とロンドンを行ったり来たりの生活をされています。日本の建築学科は大部分が工学部に属しています。美術系の学校にあるのは一割に満たないと思いますけど、イギリスでいうと、有名どころでは、大学ですらないAA(Architectural Association)スクールや、さっきいったロンドン大学バートレット校などはデザインスクールで、エンジニアリングの学校ではない。日本とロンドンの建築教育の環境はずいぶん違うと思います。バーデンさんが関東学院にいらしたのは10年以上前ですか?

バーデン:97年に着任して、2008年まで大体11年間いました。

八束:いわゆる構造設計家が大学で専任になるケースは、日本でも最近は増えてきていますがまだそこまで多くない。構造の実践とアカデミーでの「学」というのは、実は現場の建築設計と建築計画学よりももっと大きな差があるのではないかという気が私はしていますが、イギリスではどうなのかということを含めて、国際的な比較論をやって、メリットとデメリットを一般的にお話してみたい。もちろんバーデンさん個人の構造設計家としてのフィロソフィなどもおありでしょうけど。この対論シリーズは「俺はこれしかやらない」と閉じこもった議論をするよりも、もっと広い文脈で話を展開したいと思いますので、そう意味も込めてバーデンさんをお呼びした次第です。皆さんが考えるためのいろいろな素材を提供できればと思いますので、よろしくお願いします。とはいえ、言葉だけではバーデンさんの仕事が通じないと思いますので、最初に自己紹介も兼ねた短いスライド・レクチャーで口火を開いて頂きたいと思います。

ロンドンから東京へ civil engineering ということ

バーデン:ご紹介ありがとうございます。今日はじめて対論シリーズに来ましたので、期待しているようになるかわかりませんが、頑張ります。
八束先生が、イギリスと日本の比較や教育や実務など、いろいろなテーマを出してくれましたが、それを全部話すのは何ヶ月もかかりそうですけれど、紹介の通り、僕のケースは珍しくて、日本には外国人のデザイナーはいますけれど、構造エンジニアはほとんどいないですね。関東学院大学の時にも、常勤の外国人の教員は工学部全体で僕しかいなかった。ですから、とても戸惑いましたが、逆に、自由に好きなようにプログラムを組んでやっていました。八束先生からイギリスの教育・実務の話や土木出身という話があったと思いますが、イギリスでは構造家は皆土木工学卒です。建築学科には構造をやる人がいませんし、授業にも構造の授業はありません。僕も、当時学士3年間でインペリアル・カレッジを卒業してからはじめて建築家と出会ったんです。土木の領域には建築の空間論や社会的学問が全くなくて、卒業後にそれにぶつかりました。
まずは僕のバックグラウンドとして、好きなエンジニアを紹介してから話を切り出すことにしましょう。このトマス・テルフォード1は有名な土木エンジニアですが、この絵の後ろに水道橋があってそこに運河が流れています(図1)。産業革命以前の時代で、鉄道ネットワークがなく、運河のネットワークが重要だった時代です。この頃から品物を運河で運搬し出して、どんどんこのネットワークが広がっていったんです。彼はいろいろ設計した土木設計者で、イギリス土木構造学会の初代会長でもあります。今でもその水道橋は観光化されて、船で渡ることができます。僕は15歳の時に家族旅行で両親が連れて行ってくれた時にはじめてこの橋と出会いました。鉄道と本格的な産業革命の時代になると、このブルネールというエンジニアが鉄道関係の仕事をやっていて、彼は、線路はもちろん駅舎も設計しました2。晩年は汽船も設計していて、彼の写真の後ろにあるのは船の鎖で、入水式の時に撮った写真です。本当に幅広いエンジニアリングをやった天才的な人ですけれども、この橋は私が大好きな橋で、ロンドンからコーンウォールの方へ行く時にある電車で渡る橋です(図2)。120mスパンが二つあって、右上の写真のようなジャッキアップ工法も彼が考えたものです。この橋はよく授業で使う橋でもあって、私はもともと空間ではなく、もっと物理的なデザインをやろうと、土木に進んだのです。あまり空間に興味がなくて(笑)、どっちかというと躯体的なところに興味があったんです。これがブルネールの作品であるロンドンのパディントン駅ですね(図3)。ヒースロー空港からロンドンに行く、ヒースローエキスプレスの駅舎になります。飛躍する屋根というか、苦労しない構造で、スパンの長いアーチになっていて、そこから自然採光ができるようになっています。 それと八束先生がよくご存知の、ロシアのシューホフというエンジニアがいます。1920年代のロシア革命期に活躍した人です3。19世紀は鋳鉄と錬鉄が主流でしたが、20世紀に入ると鋼材が普及して、彼が鋼材を使って設計しました。有名なのはモスクワのラジオアンテナです(図4)。今は人件費が高くて材料が安いですが、当時は全く逆で、素材のコストがとても高くて、極限まで軽く、鋼材をなるべく使わないようにしてつくったものです。それはまさにエンジニアの役目で、それはより少ない材料・資源で、より大きな効果を出すという役目です。彼がそれを天才的に果たしたと思います。下の写真はモスクワの赤の広場に面しているGUMという「デパート」ですが、建物の間に道があって、その上にアーケードのような屋根が載っています。ロシアの厳しい積雪に耐えられるように、軽いアーチ材で屋根が作られていますが、よく見るとその下にそれを補強する鉄のロッドが引っ張り材として安定させています。その後彼はロシアのあちこちの通信塔とか、モスクワ郊外にテントのような釣り屋根をつくっています。これは初期の膜構造ですね。

図1 図2
図3 図4

八束:少しだけ言葉を挟ませて下さい。シューホフのタワーは、つい最近ディベロッパーがあれを壊して高層マンションをつくろうとして世界中の建築家や構造家が大反対したという大きな事件がありました。私の所にもシューホフのお孫さんからアピールが回ってきて、川口衞先生などに声をかけさせてもらいました。日本でも署名を集めて、幸い一応、即座の取り壊しは免れましたが、メンテナンス費用がどこから出るか決まっていないのでまた楽観できない状況です。腰を折って失礼しましたが、先をどうぞ。

図5

バーデン:それとアラップです4。当時はロンドンの小さなコンサルタントだったんです。シューホフも変わり者ですがアラップも変わり者で、食事をもっと能率的にしようと箸を使っていました。日本が好きな人だったらしいです。代表作のシドニー・オペラハウスですが(図5)、アラップはデンマーク生まれで、コンペで勝ったウッツォンと同郷です。コンペ時の模型をアラップが解析可能なように球面から切り出せるように合理化しました。屋根面のタイルもすべて同じ曲率な訳ですから、生産的にも経済性が良くなる訳です。10代の時に、現場の写真を見てかっこいいなぁと思って、こんな仕事ができればと思っていました。左上がミック・ルイスという数学の得意な人で、右下がジャック・ズンツ。アラップ事務所の初期のリーダー達です。アラップは建築だけでなく、イギリスのほとんどのエンジニアと同じように土木構造物もたくさん設計していて、このカイレスキュー橋は僕が大好きな道路橋です(図6)。ものすごく地形にかみ合っているような、周りの岩と同じような色で、自然に生えてきた物なんじゃないかと思うくらい風景とフィットしている橋です。
そして私のロンドン時代のボスで、ティム・マクファーレンさんという方で、彼の事務所にいたのは86年から88年の2年間だけでした5。これは僕が事務所を辞めた後の物件ですが、ヨークシャー州にあるガラスの博物館です(図7)。これまで二次部材として使われていた強化ガラスを、メインの構造部材として使っています。
ガラスの柱、ガラスの梁、屋根や壁が全部ガラスでできています。良く見ると1枚ではなく3枚からできていて、ガラスが一枚割れてもいいように作ってあります。そしてこれはグラスゴー市内の地下鉄の入り口の屋根で同じようにガラスの屋根と柱でできています。
これは渡辺邦夫さん6。東大に留学している際、3年間橋梁技術を学んで、その後1年間木村俊彦さんの事務所にいました。当時は京都駅の設計をしていましたので、それに携わりました。雑誌に掲載されていた渡辺さんの東京フォーラムの案は実現しないだろうと思っていました(図8)。原先生の梅田スカイビルのジャッキアップの日に渡辺さんに初めてお会いして、話をしました。木村事務所ではあまり模型を作らなくて不満だったので、92年から97年、大学に着任する前まで渡辺さんの事務所SDGにいました。運が良くて、東京国際フォーラムの工程が遺跡の発掘調査のため延期になっていた所で、その時に事務所に入りました。発掘調査中の一年間で設計のやり直しがあったので、ガラスのアトリウムの設計に携わることができました。構造表現が強烈な所で参加できてよかったです。その後2年間現場に常駐していました。ケーブルを使って壁を安定させるとか、柱を鋳造したりとか、なかなか体験できない現場で本当に運がよかったです。それと大桟橋のターミナルです(図9)。じつは東京国際フォーラムの建築家ヴィニョーリさんがSDGをポロさんたちに紹介してくださって、仕事が始まりました。1年間だけでしたので細かいところまでは参加しませんでしたが、これも渡辺さんのとてもいい作品だと思います。

図6 図7
図8 図9

布野:影響を受けたエンジニア6人の中で、例えばそれぞれに共通する所は何か、あるいは、影響を受けたけれどそれぞれ別の影響なのか、バーデンさんとしては実は一番影響を受けたエンジニアがいて、他はそれにプラスするとか、バーデンさんは自分独自の方法をどう思っているのか、そういう所を聞いてみたいんですが。難しいかな。

バーデン:それぞれのエンジニアからそれぞれの影響を受けました。ただし共通点としては皆がその時代の新しい素材や工法を最大限に生かすように構造システムを発想したわけです。それまでそのようなものが世の中なかったのに新しい可能性に気が付いて、それを具現化する行為を皆が素晴らしい事例を残していると思う。一人を選ばなければならないのであればブルネルになりますね。イギリスでは彼がもう神様のような存在です。数年前の世論調査では、史上重要なイギリス人として、第二次世界大戦の時のイギリス首相チャーチルの次に彼が二位になっていた。

布野:一番最初にでてきたテルフォードは土木学会会長だそうですが、土木学会は「ロイヤル・チャータード」なんですか? 

バーデン:これはChartered(勅許収得済)の学会ですが、RIBAと違ってICEはinstitution(=royal institute)との呼び方を選んだんですね。RIBAのIはinstituteになっています。

布野:発足はRIBA(王立英国建築家協会)より早いですよね。そこからAAの話までつなげてもらうと、背景がわかると思ったんですが。

バーデン:教育と資格の関係が強いと思います。イギリスの場合は各学会が資格を与える役割になるんです。王室勅許でその勅許をメンバーに与えるようなことで、国家試験はないんです。建築家とエンジニアも。その意味では資格制度は自由ですが、それでまたいろいろ混乱が生じるのですが、イギリスでは建物の設計は法律上だれでもできます。その辺のおばさんが構造設計をしてもいい制度(制度とは呼ばないかもしれない(笑))になっています。

布野:シビル・エンジニアの学会の方が先で、それに対抗してRIBAができる。それ以前にミリタリー・エンジニアに対してシビル・エンジニアが自らの職能を主張していく段階があった。要するに、学協会の設立には業務独占の問題が絡んでいて、ロイヤル・チャータードなのかどうかは大きな問題だった、そのために熾烈な争いの過程があったんではないかと勝手に思っているのですが、それとインペリアル・カレッジの関係はどうなんでしょう?

バーデン:インペリアル・カレッジの場合は、エンジニアとサイエンス専門の大学で、当時はロンドン中に20から30位あるロンドン大学の一つのカレッジだったんです。僕が卒業した後、15年位前ですかね、結局ロンドン大学から分離して、独立した別の大学になっています。バートレットはユニバーシティ・カレッジの建築学科と理解しています。ロンドン大学の中にユニバーシティ・カレッジがあって、その中に建築のバートレットがあって、それとは別にエンジニアの土木工学科があるという風になっています。

八束:布野さんがミリタリー・エンジニアリングとシビル・エンジニアリングという話をしたので、ベーシックなことなんだけれど、聴衆の方のために少し解説しておきたいと思います。日本では、明治以降に西洋から多くの専門分野を輸入して翻訳したわけですけど、アーキテクチャーを「建築」とか「造家」と訳したのはわからなくないとしても、シビル・エンジニアリングは「土木」と訳したわけですね。そのまま訳せば「公民エンジニアリング」ですけど。例えばフランスのヴォーバンは築城の名手で、彼はミリタリー・エンジニアですよね7。橋をかけたり道路を舗装したりというのはすべて軍事事業だったわけで…

布野:ヴォーバンは、ルイ14世に仕えた、コルベールの重商主義政策を支えた、一大ミリタリー・エンジニアであり、都市計画家であり、建築家であり、それらが一体化した存在ですよね。ヴォーバン割と勝手に言ってるんですが、西欧列強の植民都市の街区割に、ものすごい影響も与えています。当時、エンジニアっていうのはつまりミリタリー・エンジニアで、それこそ大砲の製造もやったかもしれないし、ルネサンスのユニヴァーサル・マンのようになんでもやるような存在だった。そういう存在から、シビル・エンジニアが分化してきたという過程がある。

八束:フランスで言うとナポレオンの学制改革で出てきて。たぶんイギリスもそういうことなのだろうと思うのだけれど、軍事技術からもっと一般の公民の生活に即した技術分野というのが独立したわけですね。それが日本の殖産興業的な明治では通じなくて、公民とは逆の「お上」的な発想になってしまった。だから日本で土木と言うものとヨーロッパの人たちが持っているcivil engineeringのイメージとは、随分違うのじゃないかと思うのですが、バーデンさんがイギリスの土木の学校を出て、また日本で東大の土木に行かれて、その差はすごく感じるのではないかと思います。

布野:今の説明だとインペリアル・カレッジというのは必ずしもシビル・エンジニアリングのカレッジではない。サイエンスに近い、もっと理論的なことも扱うカレッジですね。バーデンさんは、そうした基礎を学んだ上で、シビル・エンジニアというか、建築の構造デザインへの応用に興味をもった。そういうセンスが面白いんじゃないか、たぶんインペリアル・カレッジの影響は大きいんじゃないかと理解するんですが。

バーデン:イギリスの教育制度は日本より随分専門分岐が早いんです。自分の場合、普通の例に近いと思いますが、16歳になると歴史、英語、外国語、美術、音楽、地理、の科目が全部終え、それから数学と物理学と科学の三科目だけを18歳まで勉強する過程を経ました。大学では少しだけフランス語をやりましたが、基本的には一年生から土木関係の科目しか履修できない制度です。日本やアメリカから見ると極めて専門的な教育制度に見えると思います。皆大体14歳の時点で理科系か芸術系を決めなければならないのは事実です。

八束:この間a+u誌が、友人で今芸大で教えているトム・ヘネガンがゲストエディタでジェームス・スターリングの特集をやっていました。トムと私は時々スターリングってもう若い人は知らないよね、嘆かわしいことだとか話していたのですが、彼はその念が昂じてa+uの編集部に押しかけた結果、特集をやるということになったらしいです。あの特集を見ていても、特に初期の大学煉瓦建築三部作(レスター、ケンブリッジ、オクスフォード)はぜったいにイギリス人じゃないとやれない仕事だし、その後ああいう仕事がなくなっていったのは非常に残念なことだと思っています。その後のハイ・テックと言うのとも違うし。トムはAAスクールの出身で、その後スターリングの事務所にいたのですが、普通AAスクールというのは非常にコンセプチュアルなドロイングが90年代に流行っていた―未だにそうだと思いますが―イメージが強いですよね。今はバートレットやグリニッジのほうが過激な表現になってきているんだけど、いずれにせよ基本的にはコンセプチュアルな美術の表現ですよね。でもそればかりではない。先ほどイギリスの建築の学校は構造の授業がないとおっしゃっていましたが、そうなんですか?

バーデン:物凄く簡単な授業はありますが、日本みたいに建築家が住宅をすべて担当できるというのはあり得ないんです。バートレットの中にも専門的な構造の教育はないと思います。梁を設計できないんです。単純梁を設計する能力もないです。逆にインペリアル・カレッジの教育は、デザインの教育はまったくなかったですね。ものすごくハードで、毎日、偏微分方程式をとかなければならない。ほとんど数学者と同じくらいの教育をやっていました。それでおまけみたいに駅に行ってスケッチしろという課題はあって、でも二、三時間かけてスケッチしたという程度で、エスキスのしかたとかそういう教育はなくて、ハードな工学系の教育ばかりでした。

八束:AAのディレクターだったモーセン・ムスタハビという人がいて、彼はAAの後にハーバードGSD(Graduate School of Design)のディーンをやっていました。今でもそうかな? 四年くらい前に丹下さんの展覧会とシンポジウムがハーバードであって、私も呼ばれて行ったんですね。その時のパーティでモーセンが最初に「ハーバードではHow to buildは教えない」と言ったので、僕はひっくりかえりそうになった(笑)。日本の建築学科で主任がこんなことを言ったらたちまちクビになりそうだなと思った記憶があります。私の妻(松下希和)がハーバードGSDの卒業生なので聞いた話ですが、GSDでも一応構造の授業はあるみたいですね。だけど、当時は日本から、特にゼネコンの設計部から留学していた人たちがいて、この人たちがスラスラとラーメンの計算をし出すと他の連中は目を見張って驚くんだそうです。すると日本人のほうが逆に驚く (笑)。日本の場合は工学部に行くと、将来意匠専攻でも構造専攻でも、最初の2年くらいは構造もスタジオも両方必修ですから、やらなきゃいけない。建築史志望でも、都市計画志望でも皆やんなきゃいけない、というような教育をしている。そのことによる良いこと、悪いことというのはどうなんでしょう。

バーデン:それはよく考えることです。建築生産としては日本のやり方が総合的で良いと思います。そういった統合的なやりかたをとっているのは、私が知っている限りでは日本と韓国だけですよね。他の国はエンジニアリングと建築学科は分離している。

八束:韓国も、ソウル国立大学は学科が別ですね。全部がそうかわからないけれど。

布野:歴史的には、韓国は、教育制度も含めて日本が様々な制度を持ち込んでいますから。戦後も、日本で勉強した先生方が指導していった。金寿恨などは東京芸大で学んでますね。最近、UIAの建築家資格への対応で、5年生導入など変わって来ていますが、韓国と日本は出発点のベースは一緒です。

八束:ソウル国立大学は日本でいう東大みたいなところでしょ。学科が違うだけではなくて、年限も違う。

布野:UIA規定に従って5年のトレーニング期間を決めたので、同じ大学でもエンジニア系は4年とデザイン系は5年と、年限が違うのが一般的になったようです。

バーデン:建築の生産としては日本のやり方が良いでしょうけれど、意匠のみでなく構造や設備、電気と、いろいろ統合的な教育なので。でもどうでしょう。西洋のやり方ですと、両方が極端に最先端まで頑張るので、打ち合わせでうまくいけば、お互いに刺激しやすいように感じるんですけれど。統合的な教育ですと、建築家がリードするので、エンジニアが下請け的な立場にしかなり得ない。

1. トマス・テルフォード Thomas Telford(1757-1834) スコットランドの土木エンジニア。とくに道路、橋梁、運河、港湾、トンネルなどの建設を行なった。「道路の巨人」とも称される。初代の土木技術者協会長。

2. イザムバード・キングダム・ブルネールIsambard Kingdom Brunel(1806-1859)イギリスの鉄道技術者。鉄道関連の様々な構造物を手がけ、今日でも彼の名前を冠した国際的な鉄道デザイン賞がある。佐藤建吉 『ブルネルの偉大なる挑戦』 日刊工業新聞社、2006年

3. ウラディミール・シューホフ Vladimir Shukhov (1853-1939) ロシアの鉄道技術者。1929年レーニン賞受賞。モスクワのラジオ塔は資材不足で原設計の半分以下になったが、原設計(350m)ではエッフェル塔の1/4の鉄量で済む計算であった。

4. サー・オーヴ・アラップ Sir Ove Arup (1895-1988) デンマーク=イギリスの構造設計家。傑出した構造家であったばかりか、総合的なアラップ・アソシエーツをも組織し、それは現在世界中にブランチを有する大技術事務所になっている。

5. ティム・マクファーレン Tim Macfarlane (1951−)ガラス構造で知られるイギリスの構造設計家。

6. 渡辺邦夫(1939−) 日本の構造設計家 日大理工学部出身。構造設計集団SDG主宰。

7. セヴァスチャン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン Sébastien Le Prestre, Seigneur de Vauban (1633-1707)ルイ14世に仕えた著名な軍事技術者。建設のみならず城の後略などの実践も行 なった軍人である。

日本的事情―建築vs.土木

八束:なるほどね。日英比較の前に、言っておくべきだと思うのは、日本での土木と建築の分離なんです。例えば同じコンクリートでも、土木のコンクリートと建築のコンクリートは全然違うじゃないですか。ほとんど共通言語がないくらい。

布野:基準がない。

バーデン:もったいないと思います。ほとんど同じものがダブって指針を出したり、教育の過程をつくったり、それはやっぱりもっと能率よくできると思うんですね。だから、ヨーロッパの場合はコンクリート構造物の指針があって(今はEurocode)、ヨーロッパ連合の一般的なコードになっているのですけれど、それは建築物でも土木構造物でもどちらでも適用できます。その方がいいと思うのですね。日本が分離する弱点のひとつはそこにあると思います。土木の場合は法律の縛りはあまりないのですが、土木学会が指針を出すんですね。建築学会が同じようなコンクリートとか鋼構造物とか木造構造物とかに同じようなものを出していて、なおかつ建築の場合は建築基準法があるから、なかなか素早く時代変化に伴った対応が出来ない。例えば許容応力度などを変えるとすれば、法律になると国会の議事になってくるわけですから、たいへんじゃないかなと思うのですね。学会だけに一任するならもっと柔軟に対応できると思う。

八束:この間私が審査に加わっていたトウキョウ建築コレクションで、最優秀を獲得した修士論文が関東大震災の際のいわゆる「百号報告」を扱ったもので、煉瓦造に比べてRCが決定的に有利であると言う、佐野利器を筆頭にする建築の構造技術者がやった報告が、実はサンフランシスコの事例を含めた実施調査が、さしたる件数をしていなかったにも関わらず、佐野たちの予断で出されたものだったという議論でした8。当時、その報告の信憑性に関しては土木側からは疑念が出されていたのに、日本の建築の耐震化にこれで決定的な舵をとられたというのですね。その方針としての是非はともかく、建築と土木が全く向き合っていなかったというひとつの例です。

布野:僕、何回か殴られそうになったよ。

八束:誰に? 建築の構造の先生に?

布野:建築の構造の先生に。名まえを出してもいいけれど。土木と建築のストラクチャーエンジニアリングは一緒にやればいいじゃないの、と何度か言ってみたことがある。お前は何を言うかって、切れられる。建築にはいろいろある、二次部材とか、土木の構造計算とは全く違うんだ、と言われる。シンガポールのような岩盤が固くて、地震も無いようなところなら、設計者だけでできますよね、なんて暴言も吐くからなんだけど。

八束:土木は基本的に公共工事で建築は公共工事もあるけれど、民間が多いからというのはわからなくはないのだけれど、指針のつくり方まで違うとね。発注の仕方の問題もありますよね。
僕は磯崎さんとやっていたくまもとアートポリスで、牛深のハイヤ大橋というプロジェクトでレンゾ・ピアノと岡部憲明、ピーター・ライスのチームを指名したのですね。アートポリスでも橋のプロジェクトは他にもあったけれども、あれだけの規模は初めてだから、色々とびっくりすることがありました。日本の土木では、さっきバーデンさんに見せて頂いたような構造が表現になっているという発想はもともとなくて、意匠というのは極端に言うと欄干の設計なんだな。デザイナーに頼む基準と言うのがまずない、コストの考え方を含めて。それでスパン数とかアーチとかの基本形式でマトリックスをつくって絞りこんでいくのですが、それは普通にやることだからいいとしても、最後には、ピアノ案とコスト・ミニマム案を両方実施設計やらせる。つまり完全にひとつダミーをつくるのです。そっちは協力してくれたエンジニアリング事務所がやったわけですが、そしてピアノ案との差額は県でみましょうという。

宇野:建築でも、同じです。日本で公共発注であれば、同じことです。とくに地方では、そうしたことが常態化しています。

八束:でもそれは、もうちょっと手前の段階じゃないですか。対案の方も実施設計というか、配筋図とか施工図みたいなのまで全部やらせる。10センチくらいはある凄い厚い設計書をつくって積算する。その膨大な無駄たるや凄いです。

宇野:戦前の土木技師は内務省ほかの政府の技官でしたから、上に立ち全体を統括する主任技師という立場からトータルな設計と工事管理ができましたが、戦後の日本では、限られた予算で大量に急いで土木構造物をつくる必要があり、基準づくりと標準設計が重要だったので、設計者や工事者はすべて入札で決める仕組みとなって、そのため下部構造と上部構造を別々の設計者が設計したり、別々の施工者が工事をしたりと、全体を統括することがなくなってしまいました。また、明治時代に、江戸時代の普請と作事の奉行による都市建設の分担のまま欧米の技術を導入、それで土木と建築で技術基準が別々に展開してきてしまった問題もあります。そうしたことを丁寧に論じないと…。日本の仕組みが違う違うと言っていても、解決できないのではないですか。

八束:その辺、宇野さんのほうが僕より詳しそうだから、解説してください。戦前と戦後でどう違ったの?

宇野:戦前といいますか、近代日本は基本的に軍事技術を優先して西洋の技術を導入してきたように思います。たとえば、帝国大学を前身とする東京大学の建築学科では、西洋の建築技術は工部大学校が招いたお雇い建築家によって導入されたというように教わりますが、実際は、薩摩などは英国と関係もあり、幕末にはすでに船や大砲といった軍事技術を導入していました。そういう意味では、構造工学とか造船技術がすでに幕末のころから日本に入ってきている。建設技術も同様です。大学ができたのが明治20年すぎ。その後、帝国大学となり、それで日本には大学を通じて近代技術が導入されましたという歴史が書かれてきましたけれど、本当はそれより半世紀ほど前から、英国から日本にヨーロッパの技術が入ってきていた。軍事も民事も中央政府から各地方に近代技術を導入展開してきたのだと思います。民間の都市と建築の造営は内務省が統括していたのでトータルな設計と工事ができたのですが、戦後は、内務省が解体され、自治省が創設され、事業官庁として新しく建設省や運輸省がつくられます。そうした過程で、公共事業を統括する主任技師の立場は失われていきました。
たとえば、一物二価の問題もあります。同じ断面のアルミの手すり、あるいは同量の同じ仕様のコンクリートでも鉄筋でもいいのですが、以前は、建築と土木の工事単価がまったく別ものになっていました。市場がちがうために、同じ建材でもそういうことが起こります。明治以来土木と建築の技術基準が別々に発展してきたこともありますし、戦後の日本社会は、資本主義(市場主義)と社会主義を併存しながらやってきたようなところがあって、市場としても両者は分離していたというわけです。ゼネコンなども、同一の会社形態をとっていますけれど、建築と土木は縦割りになっています。このままではグローバリゼーションの時代、日本の建設市場はあまりにガラパゴス状態だから、さすがに調整しなければという話はありますが、国内的には相変わらず八束さんが言ったように不合理なことがありますし、バーデンさんが指摘したように非効率でもあると思います。

布野:まず扱う額が違う。金額が10倍、100倍違う。僕がびっくりしたのは篠原修先生が入った委員会で、橋梁のデザインがどうしようもない、コンペにできないかと言ったら、ああいいよって言って、平気で800万円分浮かすんですね。計算やり直している。それでコンペにして、デザイナーの案が最優秀賞をとって実施された。僕も委員だったんだけれど、えー、そういうことができるのと。要するにコスト感覚とか、見積もり感覚が全然違う。あるいは工程感覚も相当違う。

八束:ピアノの橋でもうひとつびっくりしたのは、単年度で発注していくからいっぺんにはできないわけだよね。そうすると最初の予算がいくらで、たとえば1000億とかで決まったとすると、それを三年度でやるなら三分の一づつと思うじゃないですか。ところが二年目以降になると、それがどんどん上がっていくんですよ。トータルで最初の見込みより圧倒的に跳ね上がるのは土木では当たり前ということらしい。

布野:それは何で? 人件費とか資材費が上がるからかな、理屈としては。

八束:一回発注してしまうと二度目からは競争原理が働かないというのもあるでしょうし、ひょっとしたら一度めは入札に勝つために安く入れておいて、というのもあるのかもしれません。それを新聞で叩かれて知事がびっくりしたということがあってね。でも担当の土木の課長さんなんかは平然としていた。今の新国立の話どころではなくて、どうなんだろうと思いましたね。

布野:ヨーロッパでも似たようなことがあるのかな。

八束:バーデンさんその辺イギリスとかではどうですか?

バーデン:担当エンジニアにもよります。先のスライドで見せたカイレスキュー橋はアラップ事務所の橋梁チームによるものですが、とてもいい例だと思います。橋は大きくないですが、世界的に評価されていて、いろいろな賞が与えられた。当時のアラップ設計チーム三人の中二人はデンマーク出身の人ですので北欧の考え方も入っているかもしれない。逆に日本の優れた事例を考えるとすぐ葛飾ハープ橋が浮かぶでしょう。首都高速道路公団がいくつかのコンサルや他のグループに設計を委託したものですが(新日本技研、日本建設コンサルタンツ、M+Mデザインオフィス(大野美代子さんの事務所)、埼玉大学の田島先生)、その日本的な委員会スタイルのプロセスから素晴らしい橋が生まれてきました。名前でさえ近所の住民に皆で決めてもらったそうです。結局どちらのシステムがいい結果を出すのは難しい問題だ(笑)。

布野:ストラクチャーエンジニアにとって、力学的な計算というのは共通なのに、何故、一緒にやらないのか。欧米は一緒じゃないんですか。基準が違うのはどう考えてもおかしい。でもそういうことを言うと、社会的に棲み分けているんだっていう。棲み分けの問題は次元が違いますよね。

八束:棲み分けといういい方は現状肯定ということでもあるわけですね。もうひとつの問題のある棲み分けは、構造学と構造設計の棲み分けなんですね。僕は一年生の入門講義を担当していて、全部の分野に関してざっと話していたんです。そこで、構造だけじゃなくて建築も計画と設計があるし、設備もそうだし、要するに各分野で原論と応用論がある、大学でやっている学と現場でやっている技術があるという話をします。設計の教員だけはプロフェッサー・アーキクテトであるにせよ実践家である建築家がやっているわけだけど、他の分野はそうではなくて、大学人が原論を担当している。構造も多くの日本の大学の建築学科の教員は原論である構造学や解析をやっている、実験を含めて。だけど彼らは、トータルとしての建築構造物を扱わないというか、扱えない。ある有名大学の構造の先生の自宅を僕の友達が設計して、当然その先生が構造をやるかと思ったが、できなかったんですって。トータルのシステムとしての建築、或いは架構を構造学の人はやらない。要素に還元してモデルを組み立てはするけど、それをインテグレートする作業はしない。この辺はどう思われますか?

バーデン:建築家と同じように質がいろいろあるんですよね。出来る人と、できない人と。日本にも構造エンジニアがたくさんいますから。たまたまできなかったのかもしれない。或いはあまりやりたくなかったかだと思いますけれど。
ただ、土木と建築が分離したことで、柔軟性がとんでいってしまいましたよね。そのために、例えば、バス停の設計などでは、あまりいい結果がでていないように思います。或いは駅舎ですね。最近は良くなったのですけれど、はじめて日本に来た時には、すごいもったいないなと思いました。構造デザインという言葉は好きではないのですけれども、構造設計をしっかりやれば、別にお金かけなくてもすごくいいものができたのに。なぜ、あんなにひどい駅舎ができているのかわからない。それはたぶん土木と建築のかみ合うところが良くなかったからだと思います。今は直ってきたのですけれど、それを直したのはたぶん土木と建築のエンジニアが一緒になったことではなくて、まちづくりとか都市のデザインの人たちが影響力を与えられるようになってきたからだと思います。

八束:土木と建築の関係というだけではなくて、建築の中での棲み分けの問題だと思うんですけどね。

8. 浦山侑美子「関東大震災における建築物被害報告に関する一考察―周辺史料を通して見る『百号報告』の信憑性―」(九州大学大学院 人間環境学府 空間システム専攻 平成26年度修士論文)

最適設計とフェールセーフ

布野:構造の先生が自分の家が設計出来ないという話がありましたが、それとは別に、構造の先生は全然違う次元で建築を考えているところがある。特に構造力学の先生は最適設計ということをおっしゃる。計算のためだけの計算と思える場合がある。数学的なきれいさを求めるということもある。最適設計というのは、幅が広いと思いますが、単純化すると、全ての部材が同時に壊れるということですよね。9.11の時に、ミノル・ヤマサキのWTCビルが一瞬で崩壊した理由について、これが最適設計だといった構造の先生が実際にいるんです。常識的には、全てが同時に崩壊することはありえないから、それを考えた上で設計すると思うんですけど、バーデンさんの意見を聞きたいですね。

バーデン:WTCですけど、構造エンジニアはレズリー・ロビンソンさんという人で、その後、I.M.ペイと一緒に、香港のあのバッテンが付いている超高層があるじゃないですか。

八束:中国銀行Bank of China Towerですね。

バーデン:それとか超高層を沢山やっていた人です。あれは73年、74年頃ですかね、着工したのは。当時彼は確か、32歳、若い時に貿易センターを設計したんです。でもまあ、あの、飛行機が突っ込んでくるのは…

布野:誰も予想していなかった?

バーデン:なにか、小さい飛行機が来るように予想していた、というか荷重を見た、というのはどこかで読んだことがありますけど。

布野:そうですか。

バーデン:巨大な飛行機が突っ込んでくるのは当然予測できなかったと思うんですけど。施工中の写真をみると、あれは真ん中のエレベーターコアは大したものではなくて、外周の柱が細い間隔で入っているのですね。1メートルから1.5メートルの細間隔で入っていて、それが横梁と一緒に大きなラーメン、フィーレンディールを組むんですが。まず、穴が空くと水平力に抵抗できる能力がすごく欠損されるんですけど、それだけじゃなくて床の梁が、20mの長いスパンのトラスが入っていて、それが柱と接合する部分で剥がれて、床と壁が剥がれて結局柱が座屈して、崩壊したんです。連鎖崩壊の問題ですが、極端なケースですね。システムを学ぶときには、ひとつの構造の部材をとっても、フェールセーフ設計というか、建物全体が極小なダメージか欠損に影響されないように設計しなければならないんですよね。まあ、極小が、どれくらい極小かというのは問題が違ってくるんですけど。

布野:9.11のときにですね、タイのバンコクかなにかで、日建設計の構造エンジニアの先生と一緒にテレビ見てたんです。そしたら、あんなにストーンと落ちるのは「おかしい」というんですよ。一階辺りに爆薬を仕掛けてたんじゃないか、そうじゃないと考えられない、と。日本の場合は今の、粘りを前提にして設計しているから、という、直後の説明はそうだったんですけど。

八束:でも、燃料をいっぱい積んだ飛行機が突っ込んだんだから…

布野:熱で一挙に崩壊するわけですか? 僕が問題にしたいのは本当に最適設計とはなにかということなんですよ。最適設計だったからと言った別の構造の先生は、「どの部材もミニマムに断面設計をしてあった。それが理想だ」という言い方をしたんで、それは違うでしょ、ということなんです。

図10

バーデン:あの、日常の外力に対して最適設計があると思うんですけど、やっぱり現代ではテロのことも考えないといけない。なにか爆発があったりとか、なにかぶつかってくることに対してもまた最適設計をしなければならない。
フェールセーフ設計の例をお話ししてみますと、東京フォーラムの最後だったんですけど、有楽町線の入り口の上に、ガラス構造のキャノピーをつくったんですね(図10)。はじめは鉄骨だったんですが、ある日渡辺さんが「いや、ガラスで作りましょう」と言い出したので、僕がさきほどのティム・マクファーレンさんのことを思い出してロンドンに電話したら、彼がすぐに模型をもって東京に来てプレゼンをしたんです。その彼の案を、いろいろ詳細設計をしだしたんですが。まあこれ、はね出しですけど、誰か鉄砲をその辺で撃った弾がその辺に当たったりしたとすると、強化ガラスですから、車の窓ガラスみたいに破片になってしまって、耐力が一瞬失われるんですけれども、さっきのガラスミュージアムと同じように各パーツを三枚入れたんですけれど、それだけでは足りなくて、ガラスの間に透明な部分が見えますか? あれはアクリルなんです。アクリルは柔らかいから普段は荷重負担には利かないんですが、何かの爆弾みたいなもので全部強化ガラスが失われた時に、下に落下しないように重さを支えてくれる、極端なフェールセーフ設計を取り入れたんです。当時は、建築センターで評定をとり、安全性を証明するプロセスに参加しました。

布野:旭硝子ですね? ガラスを構造材で使った例だと聞いたことがある。

バーデン:上の屋根部分は旭硝子ですけど、はね出し部材はイギリスでつくって飛行機で持ってきたんですね。ティムさんが知っていたサン・ゴバンというメーカーがガラスを作り、ロンドンにあるファーマン社がパーツを切り出し強化してもらいました。当時は、予算がありましたから出来たんですね(笑)。

八束:蛇足だけど、僕は神戸に設計した建物が二つあるんですよ。で、大震災のときに僕の構造家がいち早く見に行ったら、周りの建物みんな倒れているのに、僕らの建物は平気だったんです。彼がそれにどうコメントしたか、というと、「良かった」じゃなくて、「構造家としてはちょっと忸怩たるものがあります」と。

布野:最適設計でなくて、過剰だったということ。

八束:僕は、彼の設計はいつも「梁太いよな、これ」とか思ってたから、やっぱり、と思ったんだけど、まあその時は良かったわけ(笑)。つまりさっきの日建のエンジニアの人のいい方と逆ね。安全率を何処まで見込むかというのは、ルールでも決まった基準はあるにせよ、結局その人の裁量になる。皆現場で考えていることでしょうけど、その辺はなかなか微妙なところですよね。けどフェールセーフというのは究極的には福島のように千年に一度の津波の問題だってあるわけだからね、さじ加減では済まされない。

コラボレーション―構造家と建築家

八束:話題を転じますが、さっきバーデンさんは、ロンドンで土木を学び始めた時は、関心は空間よりはシステムだったとおっしゃっていたけれど。でもそれはスタート時点の話であって、今でもそうではないのではないでしょうか? 駅舎でも、さっきの駅の美しい構造のようなものは空間だと思う。橋は空間ではないと思うけれど、でも景観の中に置かれた構造物というのは空間的な意識でしょう、物理的なシステムに留まらず。外から見るにせよ、中から見るにせよ、そういうトータルな架構というのは、エステティクスでないにせよ、そういうものをもっている。これは原論として、学としての構造学で扱われることは日本の教育現場では稀だと思います。あれは建築家からみるととても違和感があるのだけれど、どうですか。

バーデン:エンジニアによると思うのですけれど。僕がさっき言ったように、空間はもちろん認識しますけれども、その物理的なところは、僕の頭の中ではより重要になっている。多分アーキテクトは空間の可能性を探り出すことに対して、エンジニアは物理的な可能性を探すという根本的な関心の違いがある。例えば接合部とかは、エンジニアの設計チャンスですよね。素材をきりかえられるところですし、いろいろな物理的な表現ができるところですから。ですから構造家は数学者と彫刻家が混合になっているものだとよく言われます。もし日本の従来の教育を受けていたら、同じような感覚をもっているかわからないのですけれど。

布野:構造は苦手なんだけれど、接合部とかディテールで材料が切り替えられるというのは、とてもおもしろい。

八束:接合部は力学的にも意匠的にもフォーカスですからですね。アランさんのご自身の設計の話は、さっきなさいませんでしたけれども、最近拝見していると、空間のことに非常に関心のある設計家と組んでやってらっしゃるお仕事が多いように思います。そこを橋渡しするというか、建築家が構造のことを理解し、構造家が設計のことを理解し、という関係ができないとなかなか難しくて、そういう教育というのは、これは更に非常に難しい話ですね。
昔丹下先生と坪井先生のコラボレーションのことを聞いたことがあるのだけれど、ふたりが打ち合わせをすると丹下先生が構造の話ばかりして、坪井先生が意匠の話ばかりするんですって。あるときに坪井先生が海外に留学されて一年間いなかった。その間の構造の講義を丹下先生がかわりにやられたらしいんですよ。丹下さんは数学に強かったらしいけれど、解析まで授業でやったとも思えないから、たぶん建築家として力の流れと空間と架構は、こういう関係があってという話を、実作に即してやられたのだろうと思います。それは聞いてみたかった。

バーデン:私も代々木体育館の話は噂で聞きました。それはすごく健全な関係だと思います。エンジニアが空間に提案したり、建築家が構造について話して、徹底的にお互いに信頼し合って、それをベースにしてコラボレーションをしていけば傑作ができるかもしれない。

八束:でもそういうことができる建築家とできない建築家がいますよね。私は1990年の大阪の花の博覧会でフォリーをつくるプロジェクトをやったのですが、当時AAのディレクターだったアルヴィン・ボヤルスキーが磯崎さんとふたりで人選をしたんです。私も自分で二つ建てましたけれど、全体のコーディネーターとして他の人たちの面倒も見なければならなかったのです。AA中心の海外組は今話題のザハ・ハディドも含めて、当時ほとんど建てたことがない連中でしたが、打ち合わせしていると、直感的にではあっても構造のことを分る人、あるいは分ろうとする人と、まったくそうでない人がいるんですよ。後者はとにかくアラップに相談すれば何とかしてくれると神頼みなんです、誰がとは言いませんけど(笑)。丹下–坪井関係とは偉い違い。
もっと最近ですけれども、佐々木睦郎さんと話をしていて、似たようなことがありました。佐々木さんは自由曲面の構造デザインをたくさんされていますけれども、ハーバードとかAAとかのスタジオに行ったら、形は似ているんだけれど、力が全然下に伝わっていかないような形が出てくる、あれ全然わかっていないよ、というんです。当然重力は横に行くということはあるとしても、下から上には行かない。そのへんの教育というのは建築家にしても構造家にしてもある程度共通のベースがないとうまくいかないのかなと。何しろディーンが、we don’t teach how to buildって言っているところだからという気がしました。で、そういう学生は卒業してどこに行くのかなと思って、バートレットに行った私の学生に聞いてみたら、SF映画のアニメーターになるか、日建設計みたいなところに行ってそういうデザインは辞めちゃうかのどっちかだと言っていました。例外的な人がザハの事務所みたいなところに行くと。

バーデン:建築家とのコラボレーションについてですが、僕もアイディアがあれば空間について提案します。打ち合わせの時には自由にそれを発言できるような環境が必要ですよね。でも上手くいく打ち合わせは少ないですね。エンジニアとしては建築家が才能ないと、つまり僕たちの方がもっと上手くできますということだったら、つまらなくなると思うのですよ。もっと意匠の人が自分よりできることを信じたうえで、会話の中でお互いに自由に提案できるような環境が重要だと思います。
僕の場合は渡辺邦夫さんみたいに、工学ベースにしてものすごく強い空間をつくろうという方針ではないから、建築家からの提案があれば、なるべくそれを信じて、ダメになるまでは追及していこうと思います。改善できるところがあれば、提案するのですけれど。僕のやり方は、ディテールとか接合部とかはどんどんやりたいと思うのですけれど、全体のコンセプトにはあまり影響しないような行き方でしょうね。
そういう方針がエンジニアによって違いますね。川口先生も代々木体育館に参加されたと思うのですが、彼はエンジニアのベースが極端にしっかりしている方で、システムを提案するからそれを解けば空間に影響することになりますけれども、デザイナーが提案している空間をわざと壊して、エンジニアとしての方針を通そうとするタイプではないと思います。

八束:代々木に関しては、現場で担当だったのは建築が先だって亡くなられた神谷さんで、構造は川口さんですけれども、お二人の話を伺うと凄く面白いです。でも理解が違ったりするんだな、お二人で。建築家とコラボレーションするときに日本の建築家とイギリスの建築家とそれぞれ、個人の違いではあるけれど、トレーニングの違いで日本の方がうまいとか上手くないとか感じられることはありますか。それとも、それは個人差ですか。

バーデン:日本では運が良くていい建築家ばかりと組むことが多いのですけれども、イギリスではまだ本当に無名でまだほとんど設計の経験のない建築家と付き合うので、全然違うんですね。仕事の内容として。昔ティム・マクファーレンさんの事務所にいた時、彼がいろいろAAスクール系の建築家と仕事をしていましたから、時々素晴らしいコラボレーションの場面を目撃できた。打ち合わせがうまく行くと魔法のように1+1が2以上になるような人間コラボレーションを初めて味わいましたね。日本に来て、しばらくそれがなくて、東京フォーラムに行ったころはまた、ヴィニョーリさんたちのスタッフと打ち合わせをするときにまたそのような関係がうまれ、本当に嬉しかったです。建築家もそれを求めていると思うのだけれど、なかなかないですよね、本当に生産的な打ち合わせは。

八束:さっきの丹下さんと坪井さんの関係に非常に似ているなと思ったのは、関西新空港のピアノとアラップの関係で、私は岡部憲明さんと親しかったので、コンペに応募した締め切りの日にプロジェクトを見せてもらいました。アラップは構造だけでなく環境もやる総合エンジニアリング事務所ですから、オープンダクトとか大きくデザインに関わってくるような話を議論しながら、決めていったということを岡部さんが説明してくれて、非常に感銘をうけて、これは絶対勝つだろうなと思いました。アラップに頼めばなんでもできてしまうと思っているさっきの花博のフォリーのデザイナーたち(全部ではなくて)とは対極的です。こうしてほしいんだと言っても、宙に浮く構造物はできない。そういうところのトレーニングの問題が向こうでもあり、日本でも今やちょっと問題になりつつあると思う。

バーデン:確かに時代は当然変わっていくし、ロンドンでも建築家がいないケースが出てきたりしているのですけれども、エンジニアが全部デザインしようとするとたぶんうまくいかないという気がします。ピーター・ライスも、パリで数回建築家なしで彼が全部設計したことがあるのですけれども、講演会で写真を見せて頂いたのですが、失敗作でしたとご自身もおっしゃっていましたね。

八束:ラ・ヴィレットの博物館かな、改装の? 失敗の原因は、どういういうことですか?

バーデン:ラ・ヴィレットではなく、レクチャーでみせたのはパリのあるビルにある屋内渡り廊下だった。僕たちはたぶん真面目すぎるから、危ないところ、或いは裏切るところ、遊び心とか、そのもっと人間らしい部分が足りなくなっちゃうのだと思うのですね。やっぱりどうしても頭の中で力学的な先入観が強すぎて、なかなか三角形を壊せないとか、なかなかアーチの放物線を壊せない。それを壊すのはやっぱりデザイナーと一緒に打ち合わせをしながらだと思います。その影響がないとお互いに失敗だと。デザイナーもエンジニアもいろいろ失敗があると思うのですが。コラボレーションがものすごく重要です。

デザインとエンジニアリングの臨界

布野:建築というのは、限られた時間の中で、或いは限られた施工者とか、限られた資源の中で解答を出すわけですよね。それで結果として非常にうまくいく場合もあるし、失敗することもある。そこで一番大事にされているのは何か、ということなんです。それはバーデンさんが影響を受けた先人たちに共通しているものは何か、と言う前の問いにも関わってきますが、さきほどアラップの設計した橋を自然から出たような形だといわわれたのだけれど、それが一体何なのかと聞いてみたい。要するにキーワードを知りたいのです。
渡辺邦夫先生と一緒に日本建築学会賞の審査員を二年くらいやっていたのですね。そのときに藤森照信先生の熊本の県立農業高校を見て、彼は、これは絶対ダメだというんです。食堂なんかはどこに柱が建っているのかわからない非常に幻想的な空間ができていて、すごくいい。彼が言ったのは、これは20年たったらと言ったかな、バランバランになりますよ、とおっしゃった。つまり構造エンジニアとしてここまでは許せるというか、コラボの許容範囲というようなもの、それがあるのではないか。それをキーワードだとすると、僕は接合部とディテールかなとも思うんですが、どうですか。

古瀬敏(静岡文化芸術大学名誉教授):少しいい方を変えてみてもいいですか? デザイナーがこういうのをつくりたいというのが非常に野心的だけどかなり難しいものがでてきたときに、ストラクチャーエンジニアが、ここまでならできる、これはできないと形を少し変えての代案が提案できる、それが、コラボレーションで1+1が2以上になるという在り方のひとつではないかと思うのですが。
アランさんは、造形物としての橋が実際やりたかったことの一つということでしたけれども、完成したその橋が機能を果たし、なおかつ非常に美しいというそこのセンスがおありになるから、アーキテクトとのやりとりが非常にいいところにいき、ちゃんと落としどころが出来るようになるのではないかと、思いました。

図11

バーデン:僕たちのトレーニングとしては、さっき言ったように、教科書を読めば、トラスの場合は三角形をつくりなさい。アーチのときは放物線、リングのときにはちゃんと閉じてとか、そういうトレーニングばかり、長年やってきました。若いエンジニアはそういう原則を踏まえてキャリアをはじめるのでしょうけれども、だんだん、いい建築家とコラボすれば、それを壊して、空間だけでなく、イキイキとした彫刻的なものが出来ることがわかってくる。ただ、僕たちだけではとてもできない。建築家と対話しながらそれが出てくるわけで。
三角形だったらどこで壊そうとするかとか、閉じたリングをどこから変則的にするかとか、布野先生がおっしゃった最適解をどう外すか、そういうことは自分たちではできない、自信が持てないわけです。今日、そういう意味で見せようと思っていたのですけれども、このビルは2004年に内海智行さんとやった建物で、今ではどこにでもあるのですけれども、当時は珍しかった構造です。せっかく角の敷地だったから、籠みたいな構造をやりましょうと、そういう話で進んできたのですが、内海さんが提案してきたのかは忘れましたが、その籠の構造がだんだん閉じた三角形じゃなくて、接点で合っていない外部柱というか、半分柱、半分筋違という構造になってきた(図11)。今の構造解析で安全性は確認できるんですけど、なにか方向性がないといけないんですよね。意匠の方向性とエンジニアからの方向性から。これは割合とうまくまとまったので、僕の目では隣の建物と比べると数十倍面白いと思うんですけど(笑)。隣の集合住宅みたなのは、憂鬱になりますよね。

八束:良くわかります。でも、「憂鬱になる」というその隣の建物も、大学の建築学科を出た構造設計者がいるわけですよね(笑)。で、その人達がそういう感覚を共有しているか、っていうのが非常に大きな問題なわけで。多分そういう人たちと、同じアーキテクト、内海さんなら内海さんが組んで、こういうのができたかどうか、っていうのは疑わしいと思うんです。一方通行ではいけない。
退職した私の大学の大学院で、意匠の学生の諸君に構造のことをちゃんと理解してもらおうと思って「構造設計特論」という、いろんな構造家にかわるがわる講義をして頂くという授業を作って、バーデンさんにもそれをお願いしました。もちろん構造専攻の学生にも来てもらいたいと思った。これは第一歩ですけれども、そこの感覚を、構造の人にも、意匠の学生さんにも養ってもらって、という教育のシステムをつくっていくっていうのはなかなか大変だとは思います。この間も松村さんをゲストにした建築生産の対論で「何もかも四年間でというのは短かすぎる」という話をしたんですけれども、これは構造と意匠の問題だけではなくて、次回予定している環境にせよ、そういうインテグレートするような教育の仕方はこれから議論していかなくてはいけないな、と僕は思っているわけです。

数学と造形:臨界事例としてのコルビュジエとクセナキス

布野:数学と造形の関係の例として、クセナキス9とコルビュジエのコラボみたいなのは最悪だったのかどうか、ちょっと聞いてみたいんです。クセナキスはクビになったんですね。たまたま、上杉春雄さんが、札幌にいる脳神経外科医でかつプロのピアニストですが、クセナキスを弾きながら、そういうことを喋ってくれたんですよ。

バーデン:まず、クセナキスは、どのくらいコルビュジエと一緒にやっていたかわからないんですけど。彼は音楽をやっていたんですよね。数学から音楽をつくったり、エレクトロニクスな音楽を作ったり。

布野:どっちが先だろう? もともと数学者だよね。

図12

八束:いや全部同時に学んでいたみたいですけど、少なくともパリに出てコルビュジエの事務所に入所した時には、いずれにせよエスタブッリシュされた存在ではなかったはずです。彼は、作曲はダリウス・ミヨーとかオリヴィエ・メシアンに師事したんだけれども、紹介したのはコルビュジエらしい。フィリップス館(図12)とかではちゃんとクセナキスの名前はクレジットされているし、コンセプトも尊重されているから、二人の関係はそんなにマズかったわけじゃないと思うけど。

布野:「フィリップス館」の評判が良くなってきた頃、コルビュジエが「これには、オリジナルはなにもない」と言った。それで、コルビュジエに「あんたのつくっているものも、昔からやっていた、丸、三角、四角ですね」って言ったらクビになった、って書いてるらしい、上杉さんによると。

バーデン:本を昔読んでいて、確かに確率理論とかそういうような数学がたくさん挙げていて。まあ、確率とかリズムとかが彼の中ではものすごく重要なことのようですけれども。もしかしたら。

布野:そういう方向は違う?

バーデン:普通のエンジニアとはちょっと違う方向ですかね。数学美を求めてたんですかね。自分がティムさんの事務所に居たときAAスクールで週に一回非常勤講師を数か月間していました。ちょうどクセナキスがAAにレクチャーをする日があって本人とボヤルスキー学長たちと食事しに行った。彼らの話を聞くと建築よりクセナキスの音楽の試みが主題になっていて、コルビュジエとのコラボレーションあるいは建築設計の話はほとんどなかったと思う。

布野:建築理論って、古来、音楽理論と関わってきていますよね。プロポーションの理論とか、相互に通呈するものがある。上杉春雄さんは、楽譜を見ながら全部説明してくれる。ピタッと来るんですよね。上杉さんは、建築狂といってもいいくらいで、全部見ている。毛綱モン太のを全部見た、とか、白井晟一は全部見た、とかね。お前は何者だ、という、すごい人。外国行くとみんな大体全部見ている。ラ・トゥーレットも見た、当然ですけど。

八束:今のことばでいえばアルゴリズムですけど、コルビュジエ自身がモジュロールとか、トラセ・レギュラトゥールとか数学化するのが好きでしょう。そこへもっと数学に強いクセナキスが入ってきて、確率論とかで寸法決めをやったということですね、ラトゥーレットだと波動ガラス面というサッシュの割り付けで、フィリップス館になると三次元の複雑なシェルの形状になる。だから構造ですよね。力学的な計算までしたのかどうかは知らないけど。布野さんが多分聞きたかったであろうことでいうと、コルビュジエもクセナキスも最初から数字ありきではなくて、形も音もこんな感じという直観的なことからはじまって、それを近似していったみたいですね。そこで一致するものがないとコラボにはならない。

9.ヤニス・クセナキス Iannis Xenakis(1922-2001)ギリシャの作曲家、建築家 確率論を取込んだ設計や作曲を行なった。1997年京都賞受賞

リノベーションの諸問題

八束:で、次の話題にしたいんですが、これはフィールドとしては、僕より特に布野さんに関わると思うんだけど、これからはリノベーションが増えていくだろうということです。これは前回の松村さんが強調していたことでもあるけれども、たとえば、東京電機大の今川憲英さんなんかも、今後はそれだということでかなり頑張ってらっしゃるようですけど、この分野で構造家の果たす役割っていうのは意匠家以上に大きいものがあるのではないかということです。意匠担当であっても、勝手に壁に穴あけられても困るから構造のことがある程度わからないと拙いわけですね。バーデンさんのイギリスでのお仕事はやはりこの分野が多いようだと いうことでとりあげてみたい。
それから、先ほどのお話にもありましたが、バーデンさんは新しい材料の組み合わせということに大変関心がお有りだと思うんだけど、そういう資質は、リノベーションでは古い材料と新しい材料の組み合わせということでインベンティブな仕事を可能にするのではないかという面があります。そのへんについてはどのようにお考えでしょうか。

バーデン:うん。たぶん10年位まえから「これから日本ではリノベーションの仕事が増えます」とみんないってますけど、まだまだ、増えてなくて。いろいろ問題があると思いますね。まず、法律的にあまり簡単ではないですね。古い建物の安全性を証明して、もう一回確認申請をとる、というのは色々面倒くさいところがあって、簡単ではないので。
でも、ほんとうに私は、可能性がたくさんあると思いますね。オフィスビルを住居に用途変更をしたり、リノベーションするとか。僕もいろいろ提案するんですけど、なかなか。この間、関東学院大学の古い4階建てのRCの建物だったんですけど、耐震補強するか建て替えるかっていう話があった。僕の案は、上の階を撤去して解体して、もっと軽い4階ともしかしたら5階、軽い鉄骨でつけたして、もしかしたら耐震補強が少しは必要となるかもしれないですけど、建物を軽くして耐震性を良くする。ただ乱暴に補強するというやり方だけではなくて、もう少し頭を使って建物の重量を減らしたりだとか、そういう可能性があると思います。

八束:けれども、別のレヴェルでは、布野さんなんかがアジアのいろんな国、中国とかインドネシアとか色んなところで調査をやってらっしゃるけど、近代的な最先端の構造、建設技術やファブがない途上国で今後起こってくるであろう、既存のストックとの一種のハイブリッドでやって行かざるを得ない状況というのは、おなじリノベーションといっても別の分野ですよね。最近、ネパールとかで地震があって、あれは人災だということがよく言われていますが、途上国では、そういうものを危ないから全部壊して新しいものに建て替えるっていうのはリアリティのある話ではないので、それを補強しながら新しいユースに変えていくというのは大事業としてありうると思うんだけど。

バーデン:あれは現代社会のエンジニアリングの大きなミスですね。ネパールの歴史的な組積造の建物は、100年前から危ないっていうことを結構みんなわかっていて、それを立入禁止にするか、ある程度耐震性を備えるような計画を立てないのは、本当に無責任だと私は思うんですね。中国の地震も同じようでしたよね。小学生が沢山犠牲になっていた地震が、10年ほど前ですかね。ありましたね。自然災害とよく言われるのですが、本当は人工災害です。エンジニアが十分関与していないから或いは関与させられる制度ができていない。

布野:僕は、地震はいろいろみてます。1976年のバリ地震とかね。ネパールは、1936年に大地震を経験しているんです。たまたま、そのときに訪問していた天沼俊一10先生が本を書かれているんですよ。

八束:京大の建築史の?

布野:建築史の天沼先生。一冊「インドなんとか紀行」というね。だから、わかってた話ですよ。で、だいたいやられているのは補修の方法ね。バリ島でも、モダンな手法を入れたのがやられていて、多分、相当な被害を受けたのは伝統的というような補修、補修をいれていて、わかりませんよ。多分、セメントを詰めたりとか、いろいろやってきたのが多分ダメージを受けた、というのがある。

八束:つまり必ずしも古いものの問題というより中途半端な改修の問題であるというわけですね?

図13

図14

バーデン:イギリスの場合はなかなか、古い建物を壊さないから、僕たちが今やっているものも、平凡なものが多くて。数件だけお見せしますけど、こういう、100年かどうかわからないですけど、古い建物の下にお金持ちが地下をつくってプールを入れたいというわけです(図13)。で、古い煉瓦の建物を保持しながら、少しづつ下に掘ったりする場合に、上の建物をどうやって支えていくか、安全に仕事が進めるか、そういう仕事なんです。鉄骨を入れたりしているわけですが、地下が鉄筋コンクリートですから、結構、プロセスが複雑になってしまいます。あるいは、これは数百年前からある古い工場だったのですけれど、その上に軽く2層建てのマンションを鉄骨で付け足して、住居スペースを作る(図14)。イギリス事務所では年に100件くらいやってるんですけど、平凡なテラスハウスで、下のアパートと上のアパートとか、あるいは階ごと二分割とか、色々と分割されていますけど、上の三層分を、壁を取ったり、もっと空間が広く感じるように鉄骨を入れたり、鉄骨と木を組み合わせたりとかしています。外はビクトリア時代のものなので当然いじることができないのですが、中は近代的な空間にしている。こういう仕事が多いですね。日本のリノベーションとイギリスとでは、用途変更のプロセスもまったく違ったり、目的も違うし、使っている素材が全然違います。イギリスではレンガ自体が構造ですので、脆い材料が使えるわけですけれども、日本では地震があるから脆い材料が使えない。靭性のある鉄筋コンクリートか鉄骨になりますね。

布野:五重塔は、免震的といわれますね。ヴァナキュラーな民家もそれなりの耐震性とか耐風性とかがあって、台風についても、地震についても、それなりに対応する工夫をしてきた。バリ島で1976年の地震のとき壊れたのは、バリ島の伝統的住居ではなくて、みんな新しい材料で新しい構法で建てた建物だった。日本でも、昭和のはじめの地震では筋交いをいれたほうがやられている。日本の木造は、切ったり、繋いだりして、100年、200年持たせてきたでしょう。リノベーションについては、そういうことが起こっていくんじゃないか。コンクリートに鉄骨を入れるとかね。無様だろうがなんだろうが、鉄骨の先生だったら、それでいけますよ、という。ただ、今の日本の基準に従うと、ヘンテコになりそうですね。耐震補強って言うと同じブレースを入れないといけないとか。要するにね、リノベーションでも、アランさんは平凡な仕事って言うけど、現場現場で工夫できることとか面白いことを見つけてやられているんじゃないかっていうふうに、想像するわけです。だから、もっと多様なことが起こっていくなかで、面白い表現が起こっていく可能性があるのではないか、と思っているんです。

宇野:いま自分の研究室には、トルクメニスタンから留学生が来ています。ソヴィエト時代には、ソヴィエトが近代建築を造ってきたようです。1970年半ばに、コルビュジエに傾倒した設計の上手い建築家がいたらしく、写真で見ると、なかなかいいRC造の近代建築があります。独立後20数年たったわけですが、現在、ソヴィエト時代の建築が壊されつつあって、フランス、ドイツ、そしてロシアから、また中国からも、さまざまな国の会社がやって来て、それぞれのスタイルと技術の建築を造っているそうです。様式と技術がバラバラで、それをなんとかしたいって彼はいっています。また、一方で、1940年代に大きな地震があって、それまでの伝統的な建築は全部崩れてしまったとのことでした。日本の関東大震災とほぼ同じような状況で、震災後RC造の近代建築が普及したようです。僕自身は、トルクメニスタンに行ったことありませんし、詳しい情報もないんですけど、世界には、そういうところが結構あるんだなあって思いました。つまり、その土地土地の建築技術の伝統と近代建築が出会った地域、さらには、その後、さまざまな様式や技術が外国から導入されるときの混乱のようなものがあるわけです。
今日の話題は、英国と日本の建築制度や歴史的な違いとか、エンジニアとアーキテクトのコラボレーションの話ですけど、僕ら(日本社会)は経験してきていて、ある程度、どうすればより合理的になるか方向性は見えていると思います。戦後、社会制度としての近代が急激に普及したために、一般の国民の理解がまだ十分じゃないっていうことで、いろいろ問題があるのは事実ですけど、エンジニアリングの問題ではない、っていうか、そう思います。

八束:それって、さきほどの日本がガラパゴスだという話の裏返しみたいね。

宇野:バーデンさんにお聞きしたかったのは、例えば、トルクメニスタンみたいなところは世界にはいくつもあるわけで、そうすると、エンジニアというか、十分に近代化した技術を持っている我々は(英国や日本は)どのように振る舞うべきか、っていうことです。例えば、トルクメニスタンにはいろいろな国の建築が流れ込んできていますけど、構造的に考えて耐震性を高めるにはどういう提案がありますか?って聞かれた時に、どう答えればいいのか、僕はわからなかった。

バーデン:私もトルクメニスタンに全然詳しくないですし、行ったこともないんですが。鉄筋コンクリート造の建物ですか?

宇野:伝統的には組積造で、鉄筋コンクリート造の近代建築が導入される前に大地震で一度壊れています。その後に鉄筋コンクリート造の建築が導入されました。ただ、耐震性が弱いソヴィエトの建築なので…

バーデン:だったらそれを、一軒ずつ調査しなければならないですよね。調査して、耐震性を強化して、方針を変えるしか無いと思うんですけど。調査なしでただ解体するとか、歴史的なものだったらそれが勿体無いわけですよね。

宇野:勿体無いですよね。耐震補強とかするといいのに、って思います。ソヴィエトから独立してまだわずかですから、建築基準も整ってないところに、他国がたくさんやってきて建築を造っているのです。トルクメニスタンは、天然ガスが豊富な資源国で、お金持ちの国です。そこを狙っていろいろな国が参入してきているというわけです。エンジニアリングの問題として、コンサルテーションできることがいくつもありそうです。

八束:中国なんかだって、同じことが起こっているんじゃない? 要するに、中国だとかソ連だとか、あれだけ広いところで、一律の基準で行くわけはないんで。アメリカなんかだったら州ごとに全部基準法が違うじゃないですか。そういうことが多分、きちんとできていない。世界遺産という話があったから、もうひとつついでに話題として提供しておくと、世界遺産の最たるものだけど、アンコールワット。日本では早稲田の中川武さんのチームが修復やなんかに関わっているんだけど、結構危ないらしいんですよ。一部は立ち入り禁止だし。私の友人の構造家の新谷眞人さんが結構コミットしていて、あれって全部石で積んでいるわけではないんですね。中の方は砂なんですけど、それの総重量を計算で出して比率を推測するというような話をだいぶ前にされていました。

バーデン:地震があるからでしょう? 腐食して。

八束:中に積んでいる砂が結構流動化していくみたいなんです。その辺を解消しないと、すぐにというのではないかもしれないけど危ない、っていうのを新谷さんに聞いたことがあります。だから構造家は近過去のリノベーションどころか、大過去のコンサベーションまで遡ってやる仕事が現時点でも出て来ているということですね。

10.天沼俊一 1876年~1947年。建築史家。東京帝国大学工科大学造家学科卒業。京都帝国大学・助教授・教授(1920~36年)。『日本建築史要』(1926年)、『日本建築史図録』(1933-1939年)、『成虫楼随筆』(1943年)、『日本古建築提要』(1948年)他

構造家のレゾンデートル

バーデン:そういう耐震補強もそうですけど、リノベーションもコンバージョンもものすごく可能性があると私は思っているんです。それでそのプロセスには、構造エンジニアが不可欠だと思いますね。エンジニアが存在しないとできない仕事で。その最適化、色々コンピュータで最適設計というか、ボタンを押せば、単純な、両側に、3本の柱とラーメン構造があれば、ボタンを押せば答えが出てくるかもしれないですけど。
そういえば、先週の日曜日、横浜の大桟橋で学会というかセミナーがありましたよね。いらっしゃいましたか?

宇野:聞いていますけど、あいにく、行くことはできませんでした。

バーデン:隈さんと渡辺さんと、アレハンドロ・ザエラ・ポロさんがいましたけど。「THE SAGA OF CONTINUOUS ARCHITECTURE」「連続的な建築はこれからどうなるか?」というようなテーマだったんですけど、そのなかで、アメリカから来たジェフリー・キプネスさん、オハイオ州立大学の建築評論家がいるんですけど、彼が、渡辺さんの発表が終わったら「いや、でも渡辺さん、もうそろそろ構造エンジニアの時代は終わったと思いませんか」という質問をしたんですね(笑)。通訳がうまくなかったから、渡辺さんにはその発言の衝撃さが理解できなかったみたいですけど。でもそれを聞いて、建築をやっている人でもそういうふうに考えている人はまだまだ多いのかな、とすごい悲しい思いがしました。いかに構造エンジニアがやっていることが、社会に伝わっていないか、コミュニケートしていないか、と考えました。

八束:キプニスはアイゼンマン系のポスト構造主義の理論家として知られていますが、元々物理学なんかを学んだ人で本来理系のはずですけど、どういう積もりで言ったのかな?

バーデン:構造家不要とかいわれても、リノベーションなんかだって、全然自動化できなくて、エンジニアの判断が必要で、その上でどうやってコンバージョンが上手くいくかという発想が必要で、構造がわからないと発想できないと思うんですよね。コンバージョンの場合は、やっぱりみんな真剣に考えてないと思うんですね。絶好のチャンスは新国立競技場ですよね。

布野:それ聞きたい。

バーデン:今もう壊したんですけど、古い競技場を補強する手とかいろいろな案があり得たと思うんですけど。

布野:まだ杭が残っていて、杭を使うかどうか。設計案がわからない段階で、杭を全部とったりするのは、またお金がかかる。

バーデン:いや、学会が、杭の再利用の指針を出しているんですよ。

布野:そうか(笑)。

バーデン:そういうやり方もできると思うんですけど。もっと地球にやさしい、日本の考え方が変わったということを示す絶好のチャンスだったと思うんですね。

八束:この問題は簡単には議論出来ないし、宇野さんたちがまた企画をお考えみたいだから、時間も超えたし、今日はこんなところにしましょう。じゃあ、バーデンさん、有り難うございました。

(文責:八束はじめ)