クリストファー・アレグザンダーの思想の変遷を、決して網羅的な年表を作るではなく、鍵概念を手際よく挙げながら、初学者にもわかりやすいようコンパクトにまとめた良書だというのが、本書を読了した際の第一感である。
著者・長坂の手法は、本書に先行してアレグザンダーの思想を追ったS.グラボーの『クリストファー・アレグザンダー』1 と比較するとわかりやすい。グラボーはアレグザンダー本人との対話を重ね、そこで出た言葉を引きながら、T.クーンのパラダイム・シフト論になぞらえてアレグザンダーの思考や活動の全貌を描く。その語り口は濃厚で、グラボーはアレグザンダーのよき代弁者となっている。対して長坂はあくまで研究者の目線で、アレグザンダーという「人間」とは距離を取りながら、彼の「思想」を伝えてくれる。
アレグザンダーといえば、本邦においては『The Nature of Order』(以下『ネイチャー』)第一巻の待望の翻訳書2が出された他、ここ数年で初期・中期作品の訳書も次々と発行されている。本書は、そうしたアレグザンダー再考の時代の羅針盤にふさわしいものである。本稿では本書の記述に沿いながら、アレグザンダーの思想そのものについても私なりに考察したい。
三段階説と東野高校
図1 デザインの三段階
(上から第一、第二、第三段階)(3の文献,p.65.)
こうした書籍の何よりありがたい点は、その思想家本人によって語られていない/語られていても思想の核心ではないので読み飛ばしてしまう/未だ翻訳されていない、ような理論や出来事も取り上げ、本人の著書だけでは伺い知れない思想の変遷を読者に示してくれることである。本書もあまり知られていない小論や実験を要所に配することで、全体の流れをかたちづくっている。
その中でも私にとってもっともインパクトのあった部分は、Ⅷ章に記された、盈進学園東野高校(以下「東野高校」)建設のエピソードであった。ゼネコンや地主との間で繰り広げられた泥仕合の壮絶さもさることながら、注目すべきはアレグザンダーのとったデザイン手法である。それが、東野高校から20年ほど遡った『形の合成に関するノート』3(以下『ノート』)において、アレグザンダーが示した「デザインの三段階説」の、第一段階のやり方を彷彿とさせるからだ。
「三段階説」は、デザインの目標を「形とコンテクストとの適合」に定めたアレグザンダーが、その適合のさせ方の段階的発展を表現したものである(図1)。第一段階は現実世界のその場で状況に応答しながら行なうもので、伝統社会で確立された土着的/様式的建築の再生産、またはその補修などが代表例となる。このときデザイナーは社会的に定められた手続きの代行者にすぎず、デザインをするということやその手法に関して「無自覚(unselfconscious)」である。第二段階はデザインを行なう場が現実世界からイメージの世界に移り、そこでは人は「イメージ上のコンテクストに適合するイメージ上の形を求める」こととなる。図面によるデザインに代表される、近代的で自覚的(selfconscious)なプロセスである。第三段階が、『ノート』の主眼としてアレグザンダーの提案するものである。コンテクストの要求を要素に還元し、それを数学的手続きにより小問題群から成るツリー構造へと分解することで、コンテクストと形の不適合を全て潰していく。
アレグザンダーが東野高校建設に際してとったのは、敷地に旗を立てて地勢を読み、施工が始まってからも現場で度々の設計変更を行なうという、きわめて状況即応的な「第一段階」の方法だった。しかしそれを、アレグザンダーの場合は「自覚的に」行なう。一個一個の建築や空地―彼の言う「センター(center)」―を積み重ねるようにして、「全体性(wholeness)」を設計する。こうした概念操作は第三段階のものであるし、図面や模型も用いていたから、アレグザンダーの方法は三つの段階すべてを織り交ぜたものともいえる。しかし設計者が直接下請けの施工業者に指示をするという、「直営方式(direct management)」を志向したことをみても、やはり第一段階の特徴がよく出ている。
長坂は、第一段階の方法の限界として「敷地に実物大の模型を建てて検討するような方法では、時間やコストというコンテクストを満たせず現実的でないこと」「デザインの意図/情報を他者と共有するのが難しいこと」を指摘する(本書pp.22-23。以下特に断りがなければページ数は本書のものを示す)。東野高校でのトラブルはまさにこれらの弱点に起因している。アレグザンダーの設計法は膨大な時間を要した。また第二段階の方法に慣れきったゼネコンに、設計内容やその変更の意図を伝え、実行させることは甚だ困難であった。
アレグザンダーは『ノート』において、即物的な第一段階とは大きくかけ離れた第三段階の数理的方法を提唱しながら、東野高校では第一段階の方法に回帰した。このギャップに、アレグザンダーの苦悩の痕跡が垣間見える。
1. グラボー, S.:クリストファー・アレグザンダー―建築の新しいパラダイムを求めて,吉田朗他訳,工作舎,1989.
2. アレグザンダー, C.:生命の現象(ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 建築の美学と世界の本質),中埜博監訳,鹿島出版会,2013.
3. アレグザンダー, C.:形の合成に関するノート/都市はツリーではない,Ⅰ,稲葉武司訳,鹿児島出版会,2013
図式の破棄に至る道筋
本書には、この間の思想的経路が鮮やかに描かれている。順を追って見ていこう。
『ノート』の第三段階の手法には、彼の物理学や数学のバックグラウンドが影響している。複雑なデザイン課題を定式化し、小問題へと分析し、導かれた形を綜合するのは、まさに科学者の態度である。デザインを好みの問題にしてしまうのではなく、万人に共通した法則や方法を客観的に捉えようという姿勢は、この後も貫かれる。
しかしこの時点では、小問題からいかに形を導くかは示されていない(pp.60-61)。問題の分析だけでは具体的な形態にはつながらないのである。また『都市はツリーではない』4で自ら明らかにしたように、ツリー状の形態構成はアレグザンダーの追い求めるような美しく快適な環境の質―アレグザンダーの言う「名づけ得ぬ質(unnamed quality)」を産み出し得ない(pp.63-72)。
そこで問題に対する解法を、具体的な空間形態の「パタン(pattern)」として、それをセミラティス状のカスケードに組むという方法を提示したのが『パタン・ランゲージ』5(以下『パタン』)である。各パタンは「もしS(状況situation)ならばR(幾何学的関係relation)を実現せよ」という形式をとる(p.111)。
ただしこの手法も実際に試してみると、オレゴン大学やメヒカリのプロジェクトでは政治や経済といった現実の壁に跳ね返された(pp.125-126)。また「パタンがうまくいくかどうか」という客観的判断基準が存在しないことも明らかになった(p.127)。「SならばR」は、偶然にも同じ頭文字のS-R(刺激stimulus-反応response)理論と近いものがあるが、ゲシュタルト心理学がその誤りを喝破したように、この安直な二分法、また両者の間に一定の関係があるという信念は実は疑うべきものである。この後アレグザンダーは、形態と価値とが未分化のまま融合したデザインの在り方を目指すこととなる。
これは機能主義からの脱却をも意味している。『ノート』や『パタン』はあくまで機能に基づいた建築的探求であるが、これでは美に到達できない。絨毯の柄や音楽や絵画は機能の問えないものであるが、美しいものは美しい。建築にもこれらの対象との間に通底するような美しさ、そしてその裏に潜む秩序があるのではないか。『ネイチャー』ではこのような発想に基づき、秩序の基盤となるような「全体性」と、それを構成する部分であり局所的な全体でもあるような「センター」といった概念が提示される。また秩序をもたらす形態に共通した「15の性質」をアレグザンダーは挙げている。
ただしここでは、全体性とセンター群との間、また15の性質の間には、『ノート』や『パタン』で見られたような明晰な構造はもはや見られない。それどころか、「二つの形態のどちらがより自分に似ているか」を自分自身に問いかける「自己を映す鏡テスト」をよい形の判定のために取り入れたり、「一者(the One)」「偉大なる自己」などと呼ばれる、すべての人に共通の中心的価値基準の存在を措定したりと、やや神秘主義的とも思える方向へと舵を切っている(以上pp.129-161)。
形態と価値、自己と対象が渾然一体となり、唯一の価値基準の指し示すままにデザインを行なう。これは『ノート』でいう「無自覚な」「第一段階の」仕方である。著者は、「『図式』は最終的に捨て去られたのである」と結論づける(p.191)。
4. アレグザンダー, C.:形の合成に関するノート/都市はツリーではない,Ⅱ,押野見邦英訳,鹿島出版会,2013.
5. アレグザンダー, C.他:パタン・ランゲージ―環境設計の手引,平田翰那訳,鹿島出版会,1984.
理論と実践
では図式が消滅したとして、何が残ったのだろうか―。それは、建築のデザインにかかわる実践的で全体的な知ではあるまいか。
前述したグラボーは、長坂よりもアレグザンダーの実践的側面を重視している。出版時点で竣工していなかった東野高校の事例こそないものの、モデストクリニック、オレゴン大学のキャンパス計画、メヒカリでの公共住宅建設、バークレーでの条例作りなどの、アレグザンダーの実践活動についても詳しく記している。そこでは施工方法、キャッシュフロー、住民組織、法規など、狭義の「建築デザイン」からすると領域外とされるような対象についても、名づけ得ぬ質の実現のために不可欠なものとして、アレグザンダーが試行錯誤を重ねたことが語られる。彼はプロセスにおいても全体性をデザインしようとしている。
一方、長坂が映し出すのは主に理論家としてのアレグザンダーである。東野高校のルポタージュは、理論と実践との間の闘争として象徴的に取り上げられている。また難波は、この東野高校の建設プロセスや完成した姿をみて「アレグザンダー自身は否定するに違いないが、私の考えでは、デザイン理論と実際のデザインとは分けてとらえるべきではないかと思う。」6とはっきり述べている。長坂や難波はアレグザンダーの実践手法をあまり評価していない。アレグザンダーの実践はあくまで名づけ得ぬ質を産み出す幾何学的形態をすべての目標に置いているから、施工や政治・経済的なプロセスは、常識的な目線で見ると随分と歪められたものとなっている。
逆にグラボーから言わせれば、アレグザンダーの理論のみを評価する者は、あくまで「旧パラダイム」から彼を見ていることになるだろう。「彼は分析者としてすぐれていても、建設の領域に足を踏み入れる資格のない者とみなされたのだ。一部、この傾向は既存パラダイム内での理論と実践の乖離にも起因している」7。もちろんグラボーの立場は明らかにアレグザンダーの擁護者である。しかしアレグザンダー評の顕著な乖離の要因には、グラボーの言うようなパラダイムの断絶があるのかもしれない。
では21世紀に入り、パラダイム・シフトは起こったのか―。否、であろう。私たちは、また私たちの社会は、アレグザンダーの言うことを理解することはできても、彼ほどの覚悟をもって、次のパラダイム(あるいは混沌かもしれない?)に踏み込むことはできない。長坂も「今後も考え続けるに値する」(p.185)と述べるに留まっている。ただリノベーションや街づくりワークショップといった、状況対応的でユーザ参加の活動が当たり前になっている現代は、そこにアレグザンダーの名前こそないが、パラダイムの変わる予兆は出てきているのかもしれない(もっとも、以前から行なわれてきた活動が商業ベースに乗っただけだという側面もある)。
6. 難波和彦:建築の四層構造―サステイナブル・デザインをめぐる思考,INAX,2009,p.197.
7. 1の文献,p.259.
デザイン行為の意味
本書には「デザイン行為の意味を問う」というサブタイトルが付されているが、実は長坂は本書で、この問いに直接答えることはしていない。私が本書に対してかすかな物足りなさを覚える点である。
私見では、「デザインとは何であるか、世界においてどういう意味をもつか」という問いは、「いかにすればうまくデザインできるか」という問い、つまり方法論とはやや位相を異にするものだと考えている。たとえば松岡は、ここに「デザイン理論(design theory)」と「デザイン方法論(design methodology)」という区別を与えている8。長坂が追いかけたのは、アレグザンダーにおける主に後者の複雑な変遷である。一方アレグザンダーにとって、デザイン行為のもつ意味の方は「人類普遍の価値をもった形態を生み出すこと」というもので一貫していたように思われる。そしてそのようなデザイン観が根底となり、さまざまな方法論が実践活動―松岡のいう「デザイン実務(design practice)」―とも密接につながりながら展開したというように捉えられる。その奥底にある信念の強さには驚嘆させられる。
ところで建築界の外に目を向けると、現在では「情報」や「サービス」、「システム」、はたまた「社会」に対してまで「デザイン」という語が宛てられるようになってきた。「デザイン」が社会の行き詰まりを解決する特効薬であるかのように濫用・消費される風潮に辟易としているのは私だけではないと思うが、そうであればあるほど、デザインのもつ「意味」を問うことが必要になる。社会的な広い文脈でデザインというものを捉え、方法論を打ち立て、そして実践することは果たして可能であろうか―。
ここでもアレグザンダーの辿った道筋が参考になると思われる。数理的な解法提案からパタン・ランゲージ、普遍的価値基準に至る幅広い理論展開。また設計と施工、経済や政治や組織といった総合的なプロセスデザイン。そしてその中でも、あくまで形態にこだわるという軸足の確かさ。複雑化する現代において形態の理想を第一義として追求し続けたアレグザンダーの姿勢は時代錯誤にも思えるが、その軸があったからこそ、広範囲にわたる思考と実践が可能になったと言えるだろう。
以上、本稿は書評の域をやや出てしまったかもしれないが、アレグザンダーという一大思想家・実践者について再考することは、建築はもちろん、あらゆるデザイン領域に関わる者にとって意義のあることではないかと私は感じている。その際に本書は、絶好の手引きとなってくれるであろう。
8. 松岡由幸編著,デザイン塾監修:デザイン・サイエンス 未来創造の六つの視点,丸善,2008,p.9.
北 雄介(きた・ゆうすけ)
1982年兵庫県生まれ。都市論、デザイン学。2012年京都大学工学研究科建築学専攻博士後期課程修了。博士(工学)。現在、京都大学学際融合教育研究推進センターデザイン学ユニット特定助教。都市の「全体性」を理解するための研究を展開している。