書評005

「社会状況に対してリアクティブ」な現代建築への批判から考える

長谷川豪『カンバセーションズ』(LIXIL出版、2015年)

榊原充大(RADリサーチャー)

『カンバセーションズ』は、建築家長谷川豪とヨーロッパを拠点にする6組の建築家との間で交わされた議論をまとめた一冊だ。建築家もメディアも「いま」を偏重する日本の現状を批評的に考えるため、「建築は『古さ』を備えてなくてはいけないという考えが根強い」ヨーロッパの建築家と、何を根拠に建築するのかについて対話する、という内容になっている。

図式的な構図ではあるが共感しやすい問題意識だ。私が普段拠点とする京都でも古い町家が次々と解体され駐車場や集合住宅になり、後者において言い訳のような歴史的意匠をまとわされている様子を見ても、長谷川の意見には首肯する。が、ここでふと考えるのは、長谷川の問題意識はそういうことなのだろうか、ということだ。「ここで批判されているものは一体何か?」ということが、一読した後に私の頭にまとわりついたことだ。

この書評は、本書を概観していきながら、そんな読後の個人的な疑問に寄り添うような形で話を進めて行く。とりわけ重視したいのは、長谷川自身によって語られる「社会状況に対してリアクティブ」「社会の刷新」という、建築と社会との関係性にまつわる考え方だ。こうした問題について、いくつか近過去から現在までの海外の議論を参考にしながら(ときに長谷川自身の考えを超えて)考えていきたい。


建築「設計」の自律性

まずは本書の概要から少し見ていこう。ここで選ばれている対話相手はアルヴァロ・シザ、ヴァレリオ・オルジャティ、ペーター・メルクリ、アンヌ・ラカトン&ジャン=フィリップ・ヴァッサル、パスカル・フラマー、ケルステン・ゲールス&ダヴィッド・ファン・セーヴェレンの6組。スペイン、スイス、フランス、ベルギーといった地域を拠点とする年代もそれぞれに異なる建築家との対話だ。

本書の「ヨーロッパ建築家と考える現在と歴史」という副題、そして長谷川自身による「共通の質問として、いま建築をつくることと歴史について考えることの関係性について聞いた」という発言の通り、ここでは「歴史性」がひとつのキーワードとなっている。先の発言がなされている、長谷川豪自身による同書に関する論考「歴史のなかの現代建築」を読むと、以下のような問題意識が本書の前提となっている。

現代建築は社会状況に対してリアクティブになりすぎて、建築本来の自律性を失っているのではないか。特に日本では建築家もメディアも『いま』に応答する風潮が広がっている。(長谷川豪「歴史のなかの現代建築」)

こうした状況を打開するために、長谷川は「『新しさ』の希求」が「既存の乗り越え」にすり替わる「ポスト史観」から「話題を垂直方向に積み上げていく歴史観」を、と提唱する。こうした問題意識を持ち始めた理由として、2012年の秋から長谷川自身がスイスのメンドリシオ建築アカデミーで2年間スタジオを任され、「建築は『古さ』を備えてなくてはいけないという考えが根強いヨーロッパに行くようになったから」と自ら述べている。こうしたヨーロッパ観と対比しながら、日本人は「歴史を『身体化』していない」のではないか、という自らの感覚を説明する1

もちろん一枚岩的に語ることができるものではなく、実際に長谷川と6組の建築家との対話を読んでみると、それぞれが「身体化」している「歴史」の深度もそれへのアプローチも異なっているというバリエーションが見えて興味深い。体系だった過去との向き合い方ではなく、もっとカジュアルに自身の制作の根拠を過去への参照とともに語っているような姿勢が印象に残る。歴史学の意義を貶める意図は全くないだろうが、歴史を、その重層的に担わされすぎているものから解放したいという思いが伝わるように感じた。

ところで、ここで問われている歴史性は、ちょうど同時期に刊行された建築雑誌『建築と日常』3-4合併号の特集タイトルとなっている「現在する歴史」といったニュアンスに近い。同誌を個人で編集する長島明夫の言を借りれば、「より人々の日常に根ざした『歴史としての建築』といったもの」を取り上げている。このテーマ選択の背景にあるのも、やはり「歴史的な感覚の欠如」であり、以下のような状況認識にある。

「今、ここ」が歴史的な時間や空間の連続から切断され、断片化し、絶対化している。おそらくその最たるものは「戦後レジームからの脱却」を謳う政治のシーンにあるだろう。(長島明夫「現在する歴史」)

二◯世紀後半以降の物質主義、情報社会が、個々の物質や情報を繋ぐはずの大きな秩序をいよいよ骨抜きにし、それぞれの「今、ここ」を断片化し、絶対化させている。(長島明夫「現在する歴史」2

同様のテーマを掲げる二つの書籍において違いを指摘するならば、長谷川による本書では、設計の根拠としての「いま」への偏重を批判している。対して『建築と日常』当該号においては、現在的な社会状況として「今、ここ」の断片化/絶対化を見ており、建築はいわば「現在する歴史」なるものを考えていくための参照項としてとらえられている。冒頭で触れた私の感覚は、比較的後者に近い。

この二冊を比較して感じることは、長谷川の問題設定における「建築の自律性」とはすなわち「建築設計の自律性」を意味している、ということだ。既存の建物が持つ歴史性をないがしろにしてしまう行為への批判も込められているだろうが、長谷川が本書で想定しているのは、「建築をつくる」という場面だと感じられる3

建築リサーチを専門にする私は、そうした長谷川の意図に対して「ここで批判されているものがつまり何なのか?」ということを考えていきたい。感覚としては極めて共感できる問題ではあるが、それを感覚的にのみとらえず、検討を重ねながら議論の素地をつくっていけたらと考えている。

1 ここまでは主に長谷川豪「歴史のなかの現代建築」(『10+1website』2015年7月号)からの引用。一点気になるのは、先の引用にあった「自律性」というキーワードが、(見落としているだけかもしれないが)実は本書の中では一度も出てきていないのではないか、ということである。
http://10plus1.jp/monthly/2015/07/issue-01.php

2 長島明夫編著『建築と日常』3-4号合併号(2015年3月)の中の、長島明夫による序文を指している。
http://kentikutonitijou.web.fc2.com/no03.html

3 設計者としてこの意見をいかに展開していくのか、については青木弘司による論考「建築の新しい自律性に向けて」『10+1website』(2015年7月号)がひとつの参照軸となるだろう。
http://10plus1.jp/monthly/2015/07/issue-04.php

ここで批判されていること

本書に関しては、先に引いた長谷川自身による論考や青木弘司による書評、新聞に掲載された青木淳による短い文章4など、いくつかの文章が存在する。中でも興味深い論考として、インタビューという資料形式に関する考察から始まるロラン・シュタルダーとトバイアス・エルブによるものがある。同論考の特異点は以下のような指摘がまずひとつ。

モダニズム以降の建築の歴史を、さまざまなテキスト形式という観点から説明するならば、1920年代はマニフェスト、1950年代および60年代は論文形式の専門誌記事、1970年代および80年代は詳細な理論についての論文や書籍、そして現在はインタビューという形式となることは明らかだ。(ロラン・シュタルダー+トバイアス・エルブ「長谷川豪『カンバセーションズ──ヨーロッパ建築家と考える現在と歴史』2015年、東京」)

重要なのは、インタビューにおいては著者自身が文章を編集し、そうした「著者=編集者」によって決定されたインタビューの枠組みそれ自体がメディアとなっているという指摘だ5

これまで『考えること、建築すること、生きること』(2011年)『Go Hasegawa Works 長谷川豪作品集』(2012年)『石巻の鐘楼 ふたたび建てる建築』(2012年)といった書籍を自身によって著してきた長谷川だが、インタビュイーとしてのクレジットを除き、彼が「著者=編集者」をつとめる最初の書籍が本書『カンバセーションズ』となる。

先に引いた「社会状況に対してリアクティブな建築」に対する長谷川の批判は、1970年代のポルトガルにおける住宅難(これが後に1974年のカーネーション革命へとつながっていく)に対応するSAAL(地域支援相談局)プログラムに対するアルヴァロ・シザの批判と呼応している。同グループの他の建築家らが市民主体を謳い建設を始めることに消極的であったことを批判し、あくまでも建築を設計し建設することを貫いたシザの判断がここで示されている6。建築による社会貢献、いわば「ソーシャル・エンゲージメント」の一環として「社会状況に対してリアクティブ」なプロジェクトに対する、シュタルダーとエルブの言葉を借りれば「著者=編集者」としての長谷川の意見が垣間見えるエピソードだろう。

一方、続くヴァレリオ・オルジャティとの対話では、「何も信じない」という彼の特異なスタンスが強調されている。「何も参照していない」建築を「発明」したいというオルジャティの強烈な発言は最も純粋な形で「建築の自律性」を説明しているが、同時に、条件をいかにうまく解いていくのか、といった形でのいわゆる「社会状況に対してリアクティブ」な建築に対する最も極端な批評としても読める。

こうした問題について長谷川自身はどう答えているのだろうか。2000年代に関与した(が担当者の殺害によって頓挫してしまった)ブラジルのファベーラプロジェクトへ言及するパスカル・フラマーとの対話の中で、具体的に長谷川はこう述べている。

私はより多様な問題と対峙するために建築になにが可能かを考えたいのです。社会問題や、流行の話題にのみ焦点を当ててリアクションするような建築はわかりやすいのですが、それがどのくらいの時間に耐えうるかを考えるとやはり疑問を感じてしまいます。(長谷川豪『カンバセーションズ』)

こうした発言を見ると、先にも触れた「ソーシャル・エンゲージメント」の建築がここでの「疑問」の対象であるようにも読める。建築による社会貢献、人道支援を意図した建築的実践、ときに「ソーシャルデザイン」とも呼ばれるような取り組みがそれだ。この「ソーシャル・エンゲージメント」という言い方は、2010年からMoMAで開催された展覧会「Small Scale, Big Change」の副題「New Architecture of Social Engagement」によっている。「十分なサービスを受けていないコミュニティに対する局地化したニーズに対応する建築」を紹介する展覧会である7

ここでひとつ問うべきことは、本書で批判されている「社会状況に対してリアクティブ」な建築と「ソーシャル・エンゲージメント」の建築の関係性だ。現在「ソーシャル・エンゲージメント」の建築がひとつの潮流となっている状況の中で、「ポスト史観」を批判する視座から「社会状況に対してリアクティブ」な建築が批判されていると考えるならば、この2つは近似するものであれ、必ずしも常に同じものではない。

ここで、その2つの対象がどちらもその名に含みこんでいる、「社会」なるものと建築の関係性について考えてみたい。

4 『読売新聞』2015年4月5日に掲載された書評。

5 ロラン・シュタルダー+トバイアス・エルブ「長谷川豪『カンバセーションズ──ヨーロッパ建築家と考える現在と歴史』2015年、東京」『10+1website』(2015年7月号)
http://10plus1.jp/monthly/2015/07/issue-03.php

6 SAALについては、雑誌『Volume』43号「Self-building city」特集に収録されている、Nelson Mota「SAAL, Sweat and Tears」に詳しい。原文もオンラインで読むことができる。
http://volumeproject.org/saal-sweat-and-tears/

7 展覧会「Small Scale, Big Change: New Architectures of Social Engagemen」はMoMAにて2010年10月から2011年1月まで開催された。担当キュレーターはAndres Lepik。カッコ内は以下のページの概要から引用(翻訳は引用者による)。
http://www.moma.org/visit/calendar/exhibitions/1064

「社会の刷新」という考え方

先の問題を考えるにあたって、本書インタビューの中で建築と社会との関係性について言及している箇所がいくつかある。その発言をここで取り上げてみよう。まずひとつ、社会の刷新(change society)が可能かという長谷川の率直な問いかけがある。対して、ペーター・メルクリはインタビューの中で以下のように答える。

直接的に変えることはできないでしょう。建築が人々に影響を与えることは確かですが、社会の刷新は、視覚芸術にかかわる職業からは起こりません。(長谷川豪『カンバセーションズ』)

一方、ラカトン&ヴァッサルは同じ問いかけに対してこう答えている。

社会を刷新するということは、建築の役割なのでしょうか?(長谷川豪『カンバセーションズ』)

興味深いのは、ちょうど同様の答えを、チームXのメンバーであるイタリア人建築家ジャンカルロ・デ・カルロが、1987年に行われたとあるインタビューにおいてなしているということだ。建築雑誌『Volume』に収録されている、建築と政治や文化との関係性を問うインタビュー「建築は建築家に任せておくにはあまりにも重大すぎる(Architecture is Too Important to Leave to the Architects)」がそれに当たる8。実際のデ・カルロの答え方を見てみよう。

建築は社会を変えることができる、という考えは古い。でも建築はこの種の変化に導きうる具体的な物的刺激を生み出すことができる、ということを私はいまだ信じています。(Ole Bouman, Roemer van Toorn「Architecture is Too Important to Leave to the Architects: A conversation with Giancarlo De Carlo」、引用者翻訳)

87年の時点で建築による社会の刷新という考えが「古い」と一蹴されていることが印象的だが、ここでさらに問わなければならないことは、デ・カルロが「建築」という言葉に込める考えと、「建築家」という専門家の役割をどうとらえているか、ということだ。この点について同じインタビューの中でこのような返答も見せている。

建築は常にその領域を拡大していて、そこに境界を押し付けることはできません。これが意味するのは、私は専門家ではなく、いくらかの能力をもつ何者か、くらいだということです。(Ole Bouman, Roemer van Toorn「Architecture is Too Important to Leave to the Architects: A conversation with Giancarlo De Carlo」、引用者翻訳)

「建築は社会を刷新できるか」という問いかけへ同様の回答をなしているメルクリやラカトン&ヴァッサルとデ・カルロとの考えを分けるのは、この「いくらかの能力をもつ何者か(someone with certain capacities)」という考え方だ。建築という領域の拡大を前提として、単にその境界設定が難しいということを述べているだけではなく、建築家の役割も拡大し、その定義が困難になるのであれば、はじめからその専門性にゆとりを見ておこう、と述べる。

「建築の自律性」を追求する本書において、建築/家の役割というこの問題を考えるきっかけの一人が、やはりラカトン&ヴァッサルになると考えている。

本書にも図版が掲載されているフランスはパリでのボワ・ル・プレートル高層住宅の改修プロジェクトや、現在でもスイスはジュネーブにおけるソーシャルハウジングの改修プロジェクトを手がけている(2020年完成予定)が、彼らは1980年代に、アフリカはニジェールのニアメという地域における「ソーシャル・デザイン」のプロジェクトによって自身のキャリアをスタートしている。

こうした彼らの評価、すなわち、ラカトン&ヴァッサルのキャリアのスタートが「ソーシャル・デザイン」のプロジェクトであったという説明の仕方は、自身コミュニティデザイナーという肩書きで活動する山﨑亮による著書『ソーシャル・デザイン・アトラス』の中でなされている9。同様の評価を考えるに、先に触れたボワ・ル・プレートル高層住宅の改修プロジェクトは、先に触れた展覧会「Small Scale, Big Change」でも紹介されており、『ソーシャル・デザイン・アトラス』には他にも同展覧会で紹介されたプロジェクトについてもいくつか書かれている。

こうした点に関するラカトン&ヴァッサルと長谷川との具体的な対話は本書には掲載されていないものの、この種の評価に対して、彼ら自身は「社会の刷新は建築の役割ではない」と直接的に語っている。

長谷川に対する私からの疑問は、「社会の刷新」というある種の「ポスト史観」に基づくような問いかけを行った意味である。もしそれを問うならば、むしろどんなスケールで何を変化させようとしたか、をこそ問うべきであり、さらにいえば、それは事後的に「どうだったか」という形で問われるしかないものなのではないかということだ。

設計者の視点から見た建築設計において「社会の刷新」をテーマとする、ということと、成立した建築が結果的に状況を変化させている、ということは別のことである。「ソーシャル・エンゲージメント」への視点はおそらく後者に属し、その際には、デ・カルロの言う「いくらかの能力を持つ何者か」がどのような関わり方をしたのか、が重要になるはずだ。だが、ラカトン&ヴァッサルは、あくまでも「設計」という専門性にこだわっているように感じる。

8 Ole Bouman, Roemer van Toorn「Architecture is Too Important to Leave to the Architects: A conversation with Giancarlo De Carlo」『Volume』2号「Doing (Almost)Nothing」特集(2005年)収録

9 山崎亮『ソーシャル・デザイン・アトラスー社会が輝くプロジェクトとヒント』(2012年)

建築の効果

ラカトン&ヴァッサルと長谷川との対話の中でもう一点興味深い一節がある。ジャン・フィリップ・ヴァッサルによる「私たちには美学についての配慮がないと書かれているのを、よく目にします……(中略)美学とはデザインの最初の段階で決まるものではなく、すべてが完成したときに現れるものです。」というものだ。

ここから「社会状況に対してリアクティブ」な建築設計における美学という現在的な問題について少し考えてみたいと思う。キーワードは「倫理」と「建築の効果」だ。

ここで引いてみたいのが、建築評論家ローリー・ハイドによる短い論考「倫理の美学」だ。同論考は、ラカトン&ヴァッサルも参加した「Small Scale, Big Change」展でも紹介されるような人道支援的、ハイド自身「責任ある建築(responsible architecture)」と表現する建築的実践において設計される建築は、なぜいつも真面目でミニマルなイメージをしてるのか、という投げかけからはじまる10

印象的なのが、「有事の際には大文字の『A』からはじまる建築のための余裕はほとんどない。」という一文だ。最終的にはこうした考え方に対する異議を提示することが同論考の意図になっている。ハイドが参考するのは、ソーシャルハウジングプロジェクトにおけるFAT Architectsの「目にも楽しく」かつ「うまくいった」アプローチに対する、Elementalのアレハンドロ・アラヴェナによる批判だ。

FATアーキテクトによって設計され2006年に完成した、マンチェスターはIslington Squareソーシャル・ハウジング開発11は否定のしようがないほどうまくいっている。生活に必要な場所を提供することのみならず、そのプロジェクトは自由市場を残し、エネルギー、カーボンエミッション、そして水を節約するための方策も提案され、サステイナブルな素材からつくられている。しかも楽しい。城郭風で蛇行したパラペットがあるし、チェックのレンガ・パターンはおそらくお父さんの靴下から来ているだろうし、飾り立てた窓が見えるし、手すりもあったりする。(Rory Hyde「The Aesthetic of Ethics」)

「このプロジェクトは『ソーシャル・ハウジングはどんな見た目をしているべきか』ということについての仮説に挑んでいる。」というハイドの指摘に続いて、アラヴェナによるこうした批判が紹介される。

しかしながら、こうした愉快なアプローチに誰もが賛同するわけじゃない。Elementalのアレハンドロ・アラヴェナは、FATのサム・ジェイコブによるプレゼンテーションの後に私がインタビューした際、FATの叙情的な美学的言語を攻撃した。「こうした種の問題では遊ぶべきじゃないと思う。もっとシリアスなことだろう。」と。(Rory Hyde「The Aesthetic of Ethics」)

こうした状況説明の後に続くのは、善悪をめぐる倫理の問題が、美醜をめぐる美学の問題と同一に語られる、という状況それ自体が実はギリシャ時代から連綿と続く歴史的なものであるという指摘だ。そして、こうした刷り込みによって建築の倫理的価値が測られてしまう評価軸への批判が、(繰り返しになるが)ハイドの論旨であり、イメージよりも効果(ハイド自身は「インパクト」という言葉を使っている)によって評価されるような基準へと見直されるべきだという結論にいたる。

この議論とその結論は、賛成するしないに関わらず、ここで問題にしていることがらについて、2つの水準で示唆を与えてくれる。

ひとつは「社会状況に対してリアクティブ」であることを前提とした上での批判が成立しているということ。「社会状況に対してリアクティブ」であることをただ「政治的に正しい」とすることによって批判不可能なことにするのではなく、そこにいかなる設計をなしたのかに関する議論が行われるべきだろう。アラヴェナの批判は倫理的刷り込みを帯びたものだったが、あくまでもその土台を意識していたように感じられる。

もうひとつは、建築の「効果」という、建築と社会との接点における当然でありながらも忘れがちな重要な視点を提供していることだ。そうした考え方から、「ソーシャル・エンゲージメント」の建築が社会の何をどう変えたのか、という視点が生まれるはず。それを推し量る尺度がそもそも見つかるのか、その計測が誰によってなされるべきかという問題は依然としてあるが、「社会に対してリアクティブ」であることの「政治的な正しさ」に思考を停止させないためのひとつの具体的な指針となるのではないだろうか。

10 Rory Hyde「The aesthetic of Ethics」『Volume』26号「The Architecture of Peace」特集収録。すべての翻訳は引用者によるもの。
http://issuu.com/gsapponline/docs/volume_26_peace/13

11 FAT ArchitectsによるIslington Squareソーシャル・ハウジング開発については、彼ら自身のウェブサイトから参照することができる。
http://www.fashionarchitecturetaste.com/2006/11/islington_square_1.html

「考える時間」と「使われる時間」のギャップ

こうして、未来に向かって建築を設計することと事後的に建築が評価されることの不可逆性にまつわる問題をハイドの議論を参考にしながら見てきた。こうした時間をめぐる「ギャップ」について、長谷川は自らの書籍『考えること、建築すること、生きること』の中で自身の考えを端的に述べている。「考えること」の項目にある「歴史と時間」という文章がそれだ。その中で建築設計期間の短さに対する使用時間の長さを指摘しながらこう書いている12

この「考える時間」と「使われる時間」のギャップを、「考えられてきた時間」が埋めてくれているといえないだろうか。建築はこれまで何百年、何千年と考えられてきた。考え続けられてきた。(長谷川豪『考えること、建築すること、生きること』)

長谷川が「歴史」という言葉で語るのは、おそらくこの「考え続けられてきた」時間的な厚みのことに他ならない。「社会状況にリアクティブ」であることへの批判を本書で繰り返し述べるのは、建築設計が「使われる時間」への想像力から目をそらしてはいけない、という「専門家」の視点からの強い信念があるからだろう。

考えるに、本書で長谷川が批判するのは、建築設計という未来に対する行為において、事後的に振り返る形でしか測定することのできない、例えば「建築の効果」のようなものをあらかじめ前提にせざるを得なくなる不自由さだ。あらかじめ知り得ないものをそれでもなお手放すことなく設計していく、という矛盾した状態にこそ生まれる「想像力」を保持し続けるために、歴史性を重視することが必要になる。その矛盾状態をあらかじめ無いものにして進めようとする建築こそが、「社会状況に対してリアクティブ」な建築という言葉で批判されていたものなのではないだろうか。

このように整理した上で私は、建築がどのような「インパクト」をもたらしているのかを現在的な状況に寄り添いながら評価し調整していくような「ソーシャル・エンゲージメント」の建築も深められるべきではないか、ということを考えている。こうした問題を議論するためには、「建築は社会を刷新するか?」という「ポスト史観的」な問い方をこそ乗り越えていかなければならない。ある建築がどんな社会をどう変えてきたのか、という、ディテールの部分を議論する必要がある。

思い出してみたいのは、先に引いたデ・カルロの答え方だ。建築の領域は常に拡大していること、その中で専門家としてではなく、「いくらかの能力を持つ何者か」として活動する、という方向性を。80年における彼の議論を敷衍して考えるならば、建築側からの「ソーシャル・エンゲージメント」の方法自体にもある種の歴史的持続性があり、長谷川の言葉を借りれば「考え続けられてきた」もののひとつであるはずだ。ここにおける「歴史性」を重視していきたい。

問われているのは、「専門家」として生きるのか、「いくらかの能力を持つ何者か」に徹するのか、ということかもしれない。その二つの容態はあくまでも選択の問題であり、どちらが優れているかを議論すべきではない。むしろその協働のあり方が描かれていくべきだろう。

「建築」は建築設計にのみによって成立しているのではなく、何をつくるべきかに関する「条件整理」の問題や、誰がどのようにして決定するのかを決める「合意形成」の問題、日々解体される歴史的建造物にどう対処していくのかに関する「保存活用」の問題などなども含まれている。長谷川が本書まえがきで挙げる、メルクリの「建築文化」という言葉に意味したもの、そしてフラマーとの対話の中で言及した「多様な問題との対峙」とは何かは、こうした水準において議論されるべきだろう。

そう考えるならば、デ・カルロが言うところの「いくらかの能力を持つ何者か」の仕事に対する、それこそ歴史的意識を持った視点がこれから重要になるのではないだろうか。顕在的であれ潜在的であれ、建築への関与の方法を提案し、その輪郭を描き、蓄積していくべきだろう。その個々の領域において「話題を垂直方向に積み上げていく歴史観」が育つ未来をつくっていきたい。「ポスト史観」を脱却していかなければならないという長谷川の指摘は、まさにそうした状況にも批評的な意義を持つはずだと信じている。

12 長谷川豪『考えること、建築すること、生きること』(2011年、INAX出版)

榊原充大(さかきばら・みつひろ)

1984年愛知県生まれ。建築家/リサーチャー。2007年神戸大学文学部人文学科芸術学専修卒業。建築に関する取材執筆、物件活用提案、調査成果物やアーカイブシステムの構築など、編集を軸にした事業を行う。2008年には、より多くの人が日常的に都市や建築へ関わるチャンネルを増やすことをねらいとし、建築リサーチ組織RADを共同で開始。RADとして建築展覧会、町家改修ワークショップの管理運営、地域移動型短期滞在リサーチプロジェクト、地域の知を蓄積するためのデータベースづくりなど、「建てること」を超えた建築的知識の活用を行う。同組織では主として調査と編集を責任担当。2014年度より京都精華大学非常勤講師。寄稿書籍に『レム・コールハースは何を変えたのか』(2014)。