はじめに
ここ数年、「シェアハウス」「シェアオフィス」「カーシェアリング」などのように「シェア」という言葉をよく耳にする。ほかにも、「Facebook」のウェブサイト上で、自分以外のユーザーの投稿を引用して友人に広めることも「シェア」と呼ばれている 1。このように、家・事務所・車など物理的な環境やモノのみならず、情報も共有することが「シェア」に含まれているようだ。こうした、多岐にわたる「シェア」という概念・現象を巡り、様々な議論を提示した書籍が、門脇耕三による編著作『シェアの思想/または愛と制度と空間の関係』(LIXIL出版、2015)である。しかし、この書籍の表題や、そこでの議論から受ける印象とは異なり、本書をめくり終えた時に残されるメッセージは、読者が想起する「シェア」そのものとは少し異なる位相に位置するものではないだろうか。書評者の見解を述べるならば、本書の核心はこの点にある。すなわち、強引に要約するならば、「シェア」イメージを手がかりとした新しい建築論・都市論の提出、これが本書で試みられたものではないか。さらに、この本書の核心に注意を向けた時、「シェア」と建築・都市空間の関係を考える上での問題が顕在化することにもなる。以下では、本書が提示する問題について考えていくため、まずは本書の内容を概観し、そこでの議論を確認したい。
1.「Facebook」、https://www.facebook.com/
「シェア」という視点からみた社会・空間の過去・現在・未来
上述したように、本書は、建築構法・建築設計を専門とする門脇耕三による編集協力のもと、門脇を含む15人の著者による論考やインタビュー・座談会の記録が掲載されたものである。2015年の日本社会において頻繁に見聞きされる「シェア」という現象を扱った本書は、鮮やかに時代の空気を捉えた主題を持つものといえる。さて、本書は4つの章で構成されており、そのうち「都市化・近代化・市場化」(第1章)・「政治・家族・コミュニケーション」(第2章)・「働き方・生き方・価値観」(第3章)の3つの章では、それぞれ「インタビュー」、「『シェア』をめぐる思考」(設計論・実践論)、「『シェア』をめぐる実践」(実践例の写真・スケッチ)、「論考」が載せられている。さらに、最後の4章では、1980年代生まれの若手建築家4名と門脇による座談会の記録が掲載されている。上述した4つの章に先立つ序論のなかで、編者である門脇が述べているように、それぞれの章の役割は、「シェア」が台頭する歴史的な背景を1章で捉え、「シェア」の現在形について2章、「シェア」が導く未来について3章で検討する、というものである。その上で、4章の座談会は、本書の議論のまとめとして位置づけられている。すなわち、本書は「シェア」という視点から、社会・空間の過去・現在・未来を捉えようとする意図のもと構成されているものといえる。本書はこのような明快なフレームを持つものの、複数の著者による多様な論考が掲載されているため、その内容から「シェア」に対する一貫した姿勢を読み取ることは難しい。しかし、まずは、編集協力者として本書全体の議論に関与している門脇の思考にその姿勢の一端が表れていると考えてよいだろう。門脇による本書の序文「『シェア』による近代の超克」の冒頭は次のような文章から始まっている。
近代社会は、機械の力を借りてはじめて実現に至ったからだろうか、そのデザインは、あたかも機械を模倣している。つまり近代化は、われわれが生きる世界を、数限りない部品へと分解する動きでもあった(p.8)。
上記の箇所からは、「シェア」を主題とする書籍の第一文としては、若干唐突な印象を受ける。しかし、ここには、本書の「シェア」イメージが凝縮されている。どういうことか。続けて、この序文における、「部品」と「シェア」に関係についての言及箇所を見てみよう。
日本の社会状況の変化とは、一九七〇年代以降の脱工業化の進展と、二〇一〇年前後にはじまる人口減少であったわけであるが(中略)社会の縮小は、「部品」を縮小させるものでもあり、部品のあいだに隙間ができてしまった機械は、むなしく空転するしかないからだ。そこで都市の「部品」には、あらためて複数の役割が与えられ、そこに新しいネットワークが上書きされることによって、空転は阻止されようとする。複数の役割を担わされた部品は、したがって多数の主体によって利用されることとなるのであるが、このような動きを、本書では「シェア」という概念で捉えてみることとしたい(pp.17-18。下線書評者)。
すなわち、「シェア」とは、近代に形成された「機械」のような都市空間を、利用という観点から再構成する現象である、という認識だ。その前提としては、近代都市計画に基づく空間では、社会状況の変化に伴い機能不全が生じる、という問題意識がある(p.17)。こうした近代の理念が持つ問題に関しては、本書第1章における西沢大良へのインタビューの中でも論じられている。西沢は、近代都市計画の特徴・問題を、それにより生み出された空間が「小種多量」であることの中に見出し、こうした「小種多量」の空間は、特殊な土地が持つ長期的な生存戦略を欠くため、やがて「スラム化」する、と述べている(pp.38-39)。上述した「シェア」とは、この「スラム化」を回避するための動きのことであると理解できる。また、近代に形成された空間の再構成としての「シェア」に関しては、第1章における青井哲人の論考「都市史のフレーム/パースペクティブからみたシェア論の地平」においても、「社会=空間構造」という方法的枠組によって詳しく説明されている(pp.105-107)。ただし、青井が指摘しているように、この現象はポスト近代としての現代に特有のものではなく、かつ今日における「シェア」をめぐる問題の多くも、70年代前後にすでに提示されている(p.125)。すなわち、現代の状況は「近代の大きなプロセスが行き着いた」帰結であり(p.126)、徐々に醸成されてきたものとして捉えるべきである。では、そうした現代において、近代的な空間はどのように読み替えられ、「シェア」されているのだろうか。このことについては、第1章に掲載されている古澤大輔、橋本健史、吉村靖孝の言説と作品例から窺い知ることができる。古澤、橋本、吉村はそれぞれ、近代に形成された社会・空間の問題や特徴を、社会シナリオの変化による施設の機能不全、(浜松という都市において現れる)「粗雑な均質さ」、「近接性の優位の脱臼」として認識しながら、それらを設計のための資源や与条件として扱っている(p.65、pp.75-76、p.79)。すなわち、近代という時代の遺産を「シェア」=読み替えていくことは、現代社会と近代という時代の関係を再認識することでもある。このことは、通時的に形成される空間の固有性をいかに「シェア」=共有していくか、という議論にもつながっていくだろう。
現代における「シェア」、そしてエレメント/ネットワークへ
では、近代的空間の読み替えとしてではなく、狭義の「シェア」ともいえる家・事務所などのシェアリングについてはどのように考えるべきであろうか。本書第2章では、シェアハウス、シェアオフィス、コーポラティブハウス等のプラグラムを持つ設計作品を持つ猪熊純、中川エリカ、仲俊治の言説が載せられている。その中で、中川は「あつまって住むという状況に、構造をあたえること」を企図したと述べている(p.179)。また、哲学者の國分功一郎は、「シェア」を「部分を所有」し、「誰かと一緒に全体に関わること」であると捉えている(p.131)。このように、ここでの「シェア」とは、個々の主体と空間・社会全体をなんらかの形で取り結ぶものとして考えられそうである。一方、シェアの現在について理解する上で見落とせないものは、シェアが持つネガティブな側面だ。そうした点について指摘したものが、情報社会論・公共政策を専門とする西田亮介による論考である。西田は、「シェア」と呼ばれる現象が、現在に始まったことではないことを指摘しながら、日本ではそうした現象が歴史的に根付きにくいものであることを論じ、日本で目指すべきは「シェア〈も〉可能な社会」の構築であると主張している(p.229)。
さて、続いて、こうした「シェア」の現在のあり方・考えられ方を踏まえて、これからどのように実践・思考していくべきか。本書第3章の内容をみていこう。哲学者・千葉雅也へのインタビューでは、複数の主体の同居を志向する「シェア」が台頭し、かつ開放的な建築空間が社会の中で受容される傾向にある一方で、「秘密」の問題が消失されつつあることに対しての危惧感が表明されている(pp.237-243)。その上で、「秘密という問題の場」の「シェア」を可能とするような、「暗がり」を持った建築空間の必要性が論じられた(p.245)。これは、前述した西田による論考と同様に、「シェア」のポジティブな可能性のみではなくネガティブな側面に注目したものとして注目できる。一方、「シェア」の可能性を押し広げるための方法論としては、連勇太朗によるネットワークのための基盤としてのモクチンレシピ、能作文徳によるアクターネットワークに基づく建築論、phaによる多拠点居住が提示された(pp.256-290)。これらの議論を踏まえて、門脇による論考の中で、エレメント(構成要素)に着目した建築論のあり方が論じられた。門脇は、「シェア」を利用者同士の「出会い方」であると読み替えながら、シェア・コミュニティを、成員の同質性が高く、閉鎖的なものと、成員の異質性が高く開放的なもの、の二つの型に分けている(pp.307-314)。このうち、前者の閉鎖的な型における「出会い方」を、近代の領域形成モデルである「空間」と親和性が高いものとして位置づける一方で、後者の開放的な型と、建築のエレメントの集合によって形成される領域のあり方に親和性を見出している(p.319)。
最後に、門脇の司会のもと行われた、中川エリカ・能作文徳・橋本健史・連勇太朗という4人の若手建築家による座談会の記録を掲載した第4章では、4人の建築家の思考に共通するものとして「ネットワーク」というキーワードが提示された(p.353)。門脇は、ここでの議論の結果、ネットワークの構造を書き換え可能なものとみなし、「『私』と『世界』の動的な相互作用を通じて、世界が豊穣に耕されていく」社会を、「シェア」がもたらし得る未来であると結論づけた(p.357)。
「ウラのない」現代社会を再び裏返す
以上で確認してきたように、本書では、近現代の都市形成プロセスにおける「シェア」の位置づけ、現代における「シェア」と社会・空間に関する議論を経て、エレメント/ネットワークによる建築論・都市論へと辿り着く。たしかに、「シェア」とは、近代都市が創りだした綻びを結び直すものとして理解できるし、異質な要素・主体が共存する領域を形成し、ネットワークによって、個々の要素・主体と都市・建築空間の関係を取り結ぶ、という未来のあり方は共感できるものである。これは現代社会の状況下で建築・都市論をバージョンアップしていくための重要な試みだが、同時に、僅かに疑問も感じる。すなわち、「シェア」のネガティブな側面にも目を向ける必要があるのではないか、ということだ。これは本書の中でも言及されていることではあるが、本書で提示された建築・都市の創作論と、「シェア」が持つ問題はより強固に接続される必要があるため、改めて言及しておきたい。ここでの論点は2つある。1つ目は、そもそも日本(ないしは個々の社会)において「シェア」は可能かという個別の社会との相性の問題であり、2つ目は、「シェア」によって零れ落ちるものはないのかというシェアがもたらす弊害の問題である。
まず1つ目の問題については、第2章で西田によって論じられた、「シェアなき社会」である現代日本の前提条件がヒントになる。西田はその現代日本社会が持つ前提を踏まえて、「シェア〈も〉可能な社会」像の必要性を唱えているが、このような視点は建築・都市空間を考える上でも重視すべきであろう。それは、なぜ「シェア」すべきなのか(あるいはすべきではないのか)、という動機の問題ともつながる問いである。これらの視点を、本書で提示された「シェア」の実践ないしは設計論にも反映させることで、より多面的な議論が可能となるだろう。
続いて、2つ目の問題について考えよう。第1章で青井が述べるように、今日における「シェア」と同様の現象、すなわち「自己再組織化」(小さな私的活動の自律的運営)とは都市の変革期において歴史的に繰り返し生じるものである(pp.107-110)。「近代」と呼ばれる時期に包含される1920・30年代も、そうした変革の時期であったと捉えられるが、松山巌が江戸川乱歩の探偵小説を対象に論じたように、当該期においては、抑圧・不安が都市空間の中の出来事として表象されていた2 。すなわち、抑圧された感情は社会的に共有され得るものであった。しかし現在、このような感情の「シェア」は可能だろうか。上述したように、千葉によると、現代社会では、「秘密」の問題は、公的言説から消滅し、超個人化されていくという(p.243)。同様の問題に関しては、「10+1 website」上での本書と同名の表題の特集において、門脇が行った社会学者・宮台真司へのインタビューの中でも言及されており、宮台は「孤独」や「生きづらさ」が「個人帰属化」されていくと述べている3 。いわば、現代とは、近代には存在していた「ウラの空間」(抑圧された感情の社会的表象)が消失した、「ウラのない」社会ではないか4 。このように考えると、現代における「シェア」とは、「オモテの空間」を前提とする傾向にあるといえる5。「オモテの空間」における「シェア」やネットワークは、その成員を結びつけていくことで、逆説的に、共有され得ない抑圧された感情(「不安」「秘密」「孤独」)をますます個人化していくのではないか。「シェア」が孕む問題とは、この点にある。このことを乗り越えるためのヒントとしては、ミハイル・バフチンの「カーニバル」概念が想起される。「カーニバル」とは「フットライトもなければ役者と観客の区別もない見世物」であり、「カーニバル的生とは通常の軌道を逸脱した生であり、何らかの意味で《裏返しにされた生》《あべこべの世界》」である6 。ここでは、通常の生を規定している「社会のヒエラルヒー構造と、それにまつわる恐怖・恭順・崇敬・作法」が取り払われることで、「自由で無遠慮な人間同士の接触が力を得る」。一時的ないしは限定的な空間の中であっても、現代社会において、こうした状態が生まれ得るならば、通常では様々な制約の中で、個人化され抑圧されている感情を、公的な世界の中に解放し、「シェア」することができるのではないか。すなわち、それは「ウラのない」社会を再び裏返すことである。こうした「ウラの空間」について、本書の編著者である門脇が注目していることは極めて興味深いが7 、上述した「カーニバル的生」という観点からみれば、諸主体の階層性(ヒエラルヒー)を作り出す様々な制約と「ウラ」ないしは「オモテ」の空間の関係について目を向ける必要があるだろう。すなわち、「シェア」すべきものだけでなく「シェア」し得ないものへの眼差しを持つべきではないだろうか。逆説的ではあるが、そうしたことで、「シェア」の新しい意義やあり方が立ち現れてくるように思える。
このように、「シェア」が孕む問題を考慮しながらも、「シェア」の可能性について建築・都市空間の視点から考えていくことは容易ではない。しかし、本書の中で提示された論点は、その容易ではない挑戦を行うために重要な示唆を与えてくれる。そして、「シェア」が変革期に起るものであるとするならば、上述した問題に応答する新しい「シェア」のあり方もまた、まさに私達が生きているこの社会・空間の中で胎動しているはずだ。私達は、その小さな蠢きに、目を向け、耳をすます必要がある。
2. その抑圧や不安とは、「家」制度によって管理された性、交通の発達による路地の排除、都市化に伴い生じる希薄な人間関係などを起因とするものである。(松山巖、『乱歩と東京』、筑摩書房、1994)
3. 宮台真司、門脇耕三、「10+1 web site|流動する社会と「シェア」志向の諸相|テンプラスワン・ウェブサイト」、http://10plus1.jp/monthly/2014/06/issue-2.php
4. 多木浩二は、著書『生きられた家』の中で、「おもて/うら」という空間図式を用い、前者と後者をそれぞれ「見えるもの(公認)」と「隠されるもの(非公認)」として説明している。(多木浩二、『生きられた家—経験と象徴』、岩波書店、p.57、2001)本稿でも、「オモテ」と「ウラ」を、多木の用いた対応関係で捉えている。
5. 上述した宮台真司へのインタビューの中でも、現代における「シェア」の限界を感じる要因として、「感情の劣化」、具体的には「コミュニケーションから、互いの内面にダイヴする類の営みが脱落」していることを挙げている。(前掲、「10+1 web site|流動する社会と「シェア」志向の諸相|テンプラスワン・ウェブサイト」)。このことは、「不安」・「孤独」・「秘密」などの、社会的に表明しづらい後ろめたさを含んだ感情を共有することの困難さを示していると捉えられる。すなわち、「ウラ」に属する感情を「シェア」することは難しい状況である。
6. ミハイル・バフチン、『ドストエフスキーの詩学』、筑摩書房、pp.248-249、1995
7. 門脇耕三、「10+1 web site|都市文化の現在地──都市における新しい「ウラ」の誕生|テンプラスワン・ウェブサイト」、http://10plus1.jp/monthly/2015/08/issue-02.php
吉本憲生(よしもと・のりお)
1985年大阪府生まれ。日本近代都市史・イメージ研究。東京工業大学卒業。同大学大学院博士課程修了。博士(工学)。現在、横浜国立大学大学院都市イノベーション研究院産学連携研究員。