書評003

沈黙する社殿、自然としての林苑 角南隆体制は地域社会をいかに変えたのか?

藤田大誠・青井哲人・畔上直樹・今泉宜子編『明治神宮 以前・以後 近代神社をめぐる環境形成の構造転換』(鹿島出版会、2015年)

石榑 督和(明治大学理工学部助教)

一般に神社と言えば、照葉樹林のなかに社殿が配された姿を思い浮かべる。明治維新以降、神社は「国家ノ宗祀」として仏寺から切り離され、近代を通じて国家的・公共的な祭祀の空間・施設として位置付けられていた。歴史に無自覚に神社の空間や環境を想像すれば、神社はかつてより安定的、不変的に存在しているように感じられるのではないか。

しかし、実際にはそうではない。神社の空間や環境は、その時々の情況を反映して変化してきた。  本書は明治神宮の造営を、近代における神社の空間・環境形成の変遷のなかで重要な画期として捉え、その造営の「以前・以後」において、いかに構造転換が起きているかを描き出した画期的な論文集である。本書は、今後、建築・造園・都市計画などの諸分野から近代神社の歴史を扱う際、必ず踏まえなければならない著作となっている。


まずは内容を概観しよう。本書は4部17章で構成されている。

第1部「神社造営をめぐる環境形成の構造転換」では、明治神宮造営を契機として、神社建築、鎮守の森、外苑の構想や整備される空間、そしてその思想的・技術的背景がいかに変化しているかを描き出している。それぞれ、神社建築には青井哲人「神社における「近代建築」の獲得-表象と機能、国民と帝国をめぐって」、鎮守の森に畔上直樹「戦前日本における「鎮守の森」論」、外苑に藤田大誠「帝都東京における「外苑」の創出-宮城・明治神宮・靖国神社における新たな「公共空間」の形成」が対応する。

第2部「画期としての明治神宮造営」には、明治神宮の国家性を検証するとともに明治神宮を事例に神社の公共性を再考した菅浩二「明治神宮が〈神社〉であることの意義-その国家性と公共性をめぐって」、明治天皇・昭憲皇太后の「聖徳」への人々の言動を明治聖徳論として捉え、それを手掛かりに明治神宮造営の意義を議論した佐藤一伯「近代天皇像と明治神宮-明治聖徳論を手がかりに」、聖徳記念絵画館に陳列されている80点の絵画のうち、北海道行幸を題材に描かれた作品の制作をめぐるドラマを追いかけた今泉宜子「外苑聖徳記念絵画館にせめぎあう「史実」と「写実」-北海道行幸絵画の成立をめぐって」、ドイツの森林美学が明治神宮造営という実践の場を通じてどのように日本の近代造園学を形成していったのかを扱った上田裕文「森林美学と明治神宮の林苑計画-近代日本における林学の一潮流」、明治神宮外苑へと姿を変えることになる青山練兵場の空間構造の変遷を明治期の儀礼や祭典における利用形態から分析した長谷川香「明治神宮外苑前史における空間構造の変遷-軍事儀礼・日本大博覧会構想・明治天皇大喪儀」、大正期の明治神宮造営と戦後の伊勢志摩国立公園成立の連続性を、造園家のネットワークと空間デザイン手法から追った水内佑輔「明治神宮林苑から伊勢志摩国立公園へ-造園家における明治神宮造営局の経験と意味」と明治神宮造営をめぐる多岐にわたる論考が収められている。

第3部「近代における神社境内の変遷と神社行政」には、近代の神社行政と神社境内がいかに変化してきたかを扱った6本の論文が収められている。江戸から大正時代にかけての神田神社境内と神田祭の変容を扱った岸川雅範「神田神社境内の変遷と神田祭-祭祀・祭礼空間の持続と変容」、霧島神宮遥拝所の誕生をめぐる社会的な動きを明らかにし、その都市史的意義を考察した松山恵「明治初年の東京と霧島神宮遥拝所」、近代における湊川神社境内周辺の都市化に言及しつつ立ち退き問題が起きた湊川神社境内の店舗営業の成り立ちを明らかにした吉原大志「近代神戸の都市開発と湊川神社-一九〇一年境内建物立ち退き問題から」、行政が神社境内にどのようなことを企図し制度を整備していったのかを法令から明らかにした河村忠伸「法令から見た境内地の公共性-近代神社境内における神社林の変遷と公園的性格」、明治神宮創建・造営の前後における内務官僚の系譜とネットワークを明らかにするなかで、彼らが神社をいかに捉えていたかを明らかにした藤本頼生「近代神社行政の展開と明治神宮の造営-神社関係内務官僚の思想と系譜から」、保全の対象となる神社境内と、整備の対象となる参道空間の関係性を都市計画がいかに統合的に整序していったかを明らかにした永瀬節治「近代神社の空間整備と都市計画の系譜-地域開発・観光振興との関わりから」の6論文である。

そして巻末に第4部「基礎的史料としての近代神社関係公文書」として、「東京府神社関係文書」目録と「阿蘇郡調洩社堂最寄社堂合併調」記載内容一覧が収められ、それぞれの解題である北浦康孝「基礎史料としての東京府神社明細帳-「東京府神社関係文書」目録解題」、柏木亨介「山野路傍の神々の行方-「阿蘇郡調洩社堂最寄社堂合併調」一覧解題」が記されている。

以上のように、本書には極めて多岐にわたる論文が収められている。本稿では到底全てを扱うことはできない。そこで、本書の核心的テーマである第1部のうち、内苑を構成する神社建築と鎮守の森を扱った青井と畔上の論文について議論を進めることとしたい。この2つの章が本書において最も「近代神社をめぐる環境形成の構造転換」を明確に扱っており、かつ両論文がリンクしあいながら全国の地方、帝国の各地での神社境内の変容を明らかにしているためである。

表象論から機能論へ、そして中立的・標準的社殿へ

神社の社殿造営をめぐる「一九世紀的なもの」から「二〇世紀てきなもの」(p.27)への構造的な転換を問う青井の論文は、近代を通じて「国民」というスケールが重要視されていくなかで、「国民=国家が求める神社という言説の磁場が建築設計の専門性に何を期待し、またその専門性自体がどう変質していったか」(p.27)を跡付けるものである。

建築家像に注目すれば、そうした変質はプロフェッサー・アーキテクトとして明治神宮造営へ関わった伊東忠太から、大江新太郎を経て、官僚技術者組織を構築した角南隆へという建築家像の変化としてみることができる。また、空間設計からみれば、一回性の個人的創作から、帝国規模での大量設計とフィードバックを可能とする組織による標準的・類型的な建築設計への変化としてみることができる。

建築進化論を唱えていた伊東忠太は、明治天皇崩御直後には、「明治天皇と明治時代を表象しうる新しい固有の様式を期待する」(p.31)と述べている。しかし、実際に明治神宮の具体案の検討が始まると、伊東は態度を変更し新様式の創出という主張を放棄している。

その理由は二つの方向性を持っているという。一つは、祭神の性格よりも祭式の不変性を優先させたことである。それは、明治という時代や明治天皇を表象するよりも、神社で行われる祭式にもとづいて計画が進んだということである。これは端的に言って、表象論から機能論への変化であった。またもう一つは、内苑・外苑をつくることで、「明治、大正ノ文明ノ世」の表現は外苑諸施設に負わせ、内苑は古式とするというものである。これによって社殿形式は流造が選択されるが、それは積極的な選択ではなく、「ニュートラルで標準的で不適合がない」という消極的なものであった。

こうして「建築の造形が意味論・表象論の重荷を降ろし、かわりに歴史的連続体たる国民の誰にでも妥当する(誰からも批判されない)中立性・標準性・冗長性といった新しい種類の負荷を負わされた」(p.37)という。表面的には飛躍がないように見える流造の選択であったが、それを推す論理からすればむしろ、神社本殿における「近代建築」が獲得されつつあったとみることができるという。こうして明治神宮造営の過程で、参拝する国民、祭典時の利便性という機能的視点から空間を構成する可能性が見出された。社殿が回廊で接続され複合化していくことによって、一部の機能的課題が解決していく。

ただ、社殿の機能的課題が明治神宮造営をめぐって完全に解決したわけではない。明治神宮造営で析出された可能性は、まずは1920年代から30年代初期にかけて大江新太郎によって、検証と展開が行われた。この期間に大江は有力社の境域改修事業を各地で行っている。この時期、境内における公園・庭園・商業施設・遊興施設の混在が問題化していた。大江は、神域中枢の神聖性を高めつつ、世俗的なものを整序しつつ取り込むプランニングを進める。この背景には神社に対する近代化と都市化の外圧があったが、これは畔上が第2章で指摘する通り、同時期の神社風致論を牽引した上原敬二の問題意識にもつながっている。

1935年に他界した大江新太郎に変わって主導権を握るのが角南隆である。角南隆は、「角南(隆)体制」ともいうべき官僚技術者組織を構築していく。内務省神社局-神祇院の営繕組織である。角南はこうした体制のもと、神社の環境整備の標準性・類型性を急激に高めていった。青井はこうした神社建築の標準化と並行して、関東大震災からの復興、恐慌、重化学工業化を経るなかで、都市計画や住宅政策などを含めて、全国の地方や帝国の各地において一定の標準にもとづく設計活動が大量にこなされたことを指摘している。これは極めて重要な指摘であるが、これについては後述したい。

「人工」の常緑針葉樹林から、「自然」の照葉樹林へ

畔上の論文は、「鎮守の森」論が戦前にいかに展開したのかを明らかにしている。それは明治神宮の都市立地に当初強固に反対した本多静六の「鎮守の森」論が、明治神宮以前・以後で構造転換を起こしたことを跡付けるものであった。結論を言えば、「鎮守の森」論は明治神宮造営「以前」には「人工」の常緑針葉樹林を軸とした議論であったが、「以後」には「自然」の照葉樹林を軸とした主張に変換されていくのである。

明治末から大正初年にかけて、本多静六が主張した神社を含む社寺風致林の性格は、常緑針葉樹による「人工」林が理想であるというもので、現在われわれが思い描くような常緑広葉樹(照葉樹)による原生「自然」林ではなかった。この本多によって主張された神社風致論は、森林それ自体には神社の荘厳さを生み出す価値を認めておらず、あくまで景観の中心は建築物であるとしている。それゆえ畔上はこれを「名所旧跡的」な神社風致論と呼んでいる。この本多の社寺風致林論は、当時神社行政において政策的に採用され、地域社会の群小神社レベルに対しても絶大な権威をもっていた。そして本多の社寺風致林論は当時の社会実態と合致しており、それをさらに整序していく方向性を持っていたという。つまり、当時の鎮守の森は、実態としても人為的性格が強い常緑針葉樹林が多かったのである。

常緑針葉樹による「人工」林が神社林苑の理想であるとする本多であったが、明治神宮造営局発足時には林苑課の責任者のひとりとして、自身が技術的に不可能(神社林の理想である針葉樹林は、煙害に弱いため)と反対した、煤煙が舞う都市への理想的神社林苑の実現に取り組むこととなった。本多はこれに対して、照葉樹林を重視したものではなく、あくまで名所旧跡的神社風致論の都市対応修正版を提出している。しかし、先に結論を示した通り、明治神宮林苑造成にあたっては照葉樹林が他を圧倒して特権的な位置をしめていた。つまりこの後に大きな思想的転換がはかられ、都市立地での永続的な理想林苑を実現するために全く異なる価値体系が採用されたのである。それが「人工」から「自然」への転換である。

この転換は、それまでの価値体系では価値を認められていなかった森林それ自体の自然性に景観的価値を求める森林美学的価値体系への大転換であり、名所旧跡的神社風致論においては外部でしかなかったものが中心に据えられたのである。これを推し進めたのが本多の弟子、上原敬二であった。

注目すべきは、上原敬二がこうした神社風致論を展開するうえで背景となった、当時の彼自身の危機意識・問題意識である。上原は、第一次世界大戦期に都市化・工業化の影響を受け、神社林が衰退していくことを目の当たりにした際、近代化を否定することができない以上、神社の森林のほうを強くしなければならないと考えた。つまり、「森林美学的神社風致論による「鎮守の森」景観改造の主張とは、上原にとって当時の日本の近代化のいきづまりを解消して、否定することのできない近代化のさらなる発展を可能にする、二〇世紀日本の「精神的開発」という意味をもつものであった」(p.86)というのである。これは、青井が明らかにしている大江新太郎による有力社の境域改修事業の問題につながることとなる。

森林美学的神社風致論が全国あるいは帝国へ展開する基盤をなしたのは「角南隆体制」であった。青井の論文で示された通り、「角南隆体制」の基礎をつくったのは大江新太郎であったが、大江は1920年代から30年代初期にかけての各地の大社の境内改修を次々と手がけ、この時神社境内の計画方針を建築本位主義から、天然の地形風物を軸とするものへと方針を転換した。これは畔上が指摘する神社風致に対する「人工」から「自然」への本質的思想の転換である。大江の神社論は上原敬二の神社論を継承している。こうして森林美学的神社風致論は1940年頃「角南隆体制」において共有されたとしている。この時期に「角南隆体制」において共有されたことは、森林美学的神社風致論が制度化したということである。これ以降、森林美学的神社風致論は、国家的神社だけでなく地方神社行政の展開の中で府県下の神社へも適用されていくこととなる。

「角南隆体制」による空間設計の標準化は地域社会をいかに変えていったのか?

旧都市計画法は1919年に公布され、翌1920年にまずは東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸の六大都市で適用された。これらの都市では各市の実情に合わせてオーダー・メイドというべき都市計画が実施されていく。そして、1923年には25都市に、1932年には105都市に都市計画法が適用され、さらに1933年には全ての市と内務大臣が指定する町村へ適用範囲が広げられた。この間、都市計画の計画標準が整備されたことで、当初はオーダー・メイドであった都市計画が、設計標準に則った画一的なレディ・メイドの都市計画へと変化していった(★1)。

この都市計画法の適用(1920年)とレディ・メイド化(1933年)の過程は、時期をみると明治神宮創建(1920年)と「角南隆体制」確立(1935年頃)に重なる。さらに1933年には都市計画事業に対して初めて国庫補助が導入された年でもある。その契機は昭和三陸津波(1933年3月3日)であった。この間、神社だけでなく設計行為の標準化が進んでいる。

青井は『建築討論』004号の鼎談(★2)で、この昭和三陸津波後の復興過程が組合主義的なアイディアで組み立てられていたことを指摘している。恐慌や飢餓を経て疲弊した農山漁村一つ一つを自立した経営体として立て直そうと言う議論が農林省などであり、産業組合法を改正して、各村落に組合をつくらせ、そこに国から融資を行い、自力更生をさせるというスキームを組んだのである。どうやらこのスキームの実験場として、昭和三陸津波の復興が使われたというわけである。

近現代日本政治史の雨宮昭一は、この時期の政治体制について次のように論じている(★3)。1920年代から30年代初頭にかけて、労働者の賃金、労働時間、労働者の身分、婦人や幼少年労働者の保護や、農村における小作階層の権利の保障などが皆無に等しい状況を改善しようとする動きが、労働運動・農民運動・婦人運動によって現れた。内務省社会局や農林省関係の一部によって労働組合法や土地制度を改正する動きがあったが、財界、官僚層、地主を基盤とする貴族院など、それぞれの主流によってこれらは退けられた。ただ、一度挫折したこうした勢力は消えてしまうのではなく、1930年代前半から半ばにかけて形と方向をかえて結集する事になったという。具体的には民政党内社会改造派や、農村における産業組合運動を基礎とする部分、労働運動の指導者、内務省社会局や農林官僚の一部によって構成され、協同主義のもと総力戦体制の形成と展開を通じて自覚的・意図的な日本社会の平等化・近代化・合理化を図ろうという動きを強めた。この流れを大づかみにいえば、「下からの協同」として立ち上がった動きが1930年頃に挫折し、その後「上からの協同」の動きとして再結集されたということであろう。こうした流れに、先の昭和三陸津波の復興も位置付けられる。

本書の第1部では、青井の論文によって明治神宮造営を経る事によって、神社建築の設計が表象を求められる設計から機能を要求される設計へと変化し、一回性の設計行為から設計の標準化による大量設計へと変化していったことが明らかにされている。

また、畔上の論文は明治神宮「以前」に一般化していた人工林としての鎮守の森が、自然林としてのそれへと変えられていく過程を跡付けている。その際、人工林として維持されていた各地の神社の実態との間にズレが生まれていたことを確認している。

その上で、こうした神社建築と鎮守の森の整備は、それぞれの地域社会をどのように変えていったのかが問題となるだろう。昭和三陸津波の復興において産業組合が働いたように、1930年代半ば以降に標準化していく神社境内の整備手法は、具体的な地域ではその社会をいかに組み替えたのであろうか。本書において開かれた可能性はこうした点にあるのではないだろうか。

また、本稿では青井と畔上の論文に限って議論を進めたが、本書では藤田大誠によって宮城、明治神宮、靖国神社の外苑の形成過程とその関係性が論じられている。外苑なる空間が、全国の地方や帝国の各地においてどのような論理で計画され実現していったのか。青井や畔上が扱った内苑の空間のように問うことが求められよう。内苑と外苑という明治神宮造営に際して確立された図式が、各地の地域社会に与えた影響も大きい。こうした近代神社の環境形成と地域社会の変容の関係は、今後の研究課題となるであろう。

「あとがき」が「今後とも多様な人々が集う研究アリーナ(討議場)で議論が深められることを心より願い、筆を擱くこととする」と締めくくられているように、本書を契機として、昭和戦前期の日本の空間と社会の歴史研究が学際的に進むことを祈念する。評者もそのアリーナへ参加する一人でありたい。

1 :中野茂雄「基盤整備にまつわる標準化の経緯-オーダー・メイドからレディ・メイドへ」(『建築雑誌』1642号)。

2 :青井哲人・八束はじめ・布野修司「建築思想と生政治-近代建築と建築史-」(Web版『建築討論』004号)https://www.aij.or.jp/jpn/touron/4gou/tairon3.html。青井哲人「再帰する津波、移動する集落:三陸漁村の破壊と再生」(『年報都市史研究』20号)も参照。

3 :雨宮昭一『占領と改革』(岩波書店、2008年)、雨宮昭一「戦時統制論」(『岩波講座 日本通史 第19巻 近代4』岩波書店、1995年)ほか。

石榑督和(いしぐれ・まさかず)

明治大学理工学部助教。
1986年岐阜県生まれ。明治大学卒業、同大学大学院修了。博士(工学)。専門は都市史・建築史。共著に『盛り場はヤミ市から生まれた』ほか。2015年日本建築学会奨励賞受賞。