建築時評012

東日本大震災・原発事故と建築倫理を問う-大船渡市、飯舘村での支援活動を通して

糸長浩司(日本大学生物資源科学部教授)


1.復興への建築の役割

本原稿を東北新幹線内で書き始めている。私の時間は残念ながら2011.3.11で止まったままである。東北の人たちの多くの時間も同様であろう。あれから5年、東北に月一回程度は通う。今回は研究室の学生を連れて、大船渡市碁石地区での震災復興支援活動の一環である。碁石地区支援の後は、学生と別れて福島県飯舘村での継続的な放射能測定を予定している。

大船渡市碁石地区には縁あって2011年暮れから支援活動を継続している。21人の尊い命を失った津波被害の漁村集落の再生、高所移転住宅地建設計画等にかかわってきた。弁護士、技術士の協会連合からなる「災害復興まちづくり支援機構」の技術士佐藤隆雄さんら実務専門家達との合同での支援活動である。被災時から地元リーダー達(大和田東光さん、及川宗夫さん)の活躍により、一時孤立した地区は相互扶助の中で避難生活を乗り越えてきた。今回の学生達への地元リーダー達の語りから多くのことを学ぶことができる。自助・共助・公助の他に、「近助」の力と「遠助」の力の複合力の重要性を指摘された。その複合力を組織化し継続的に行動してきた地元リーダーの組織力とコミュニティ力は、震災前からの地域協議会等の農漁村ならではの、顔の見える活動が基礎となっていると痛感する。

2013年夏には地元の復興まちづくり協議会のみなさんを支援して、市に復興提言書を提出した。研究室で地域地形模型を作製し、住民たちによりリアルに地域の地形、景観、環境条件を認識してもらい、防集移転先についての検討を進めた。防集事業での海の見える高台敷地の場所も被災者の皆さんと確定し、防集事業も進み、造成がほぼ完了するまでにいたった。各敷地から南に広がる海が見える。各家がその眺望と日照を享受できるように、そして、美しい街並みになるように、まちづくり協定を住民たちは締結した。隣の敷地や道路からの建物のフィードバック、建物色彩の配慮、建物形状の配慮等についても合意形成を図った。設計した各自の建物模型を防集の住宅地模型に置き、近接敷地との調整も図ることもしてきた。

自力建設の戸建て住宅が16軒、復興公営住宅6軒の計画である。公営住宅も住民たちの粘りで戸建て住宅となった。被災住民のみなさんがどのような復興住宅を希望しているのかは、被災前の住宅での暮らし方、気に入っていた空間の有無と場所等、住宅ライフストーリーの聞き取りと図面化の作業を研究室で進めた。その後、復興住宅のイメージを固める作業を住民ワークショップで、支援機構に参加している盛岡の建築家の佐川秀雄氏も加わり進めた。復興敷地が100坪と限定されている中で、かつての住宅の良さ、今後の住まい方への希望、環境性能等を調整して、要求床面積別で三タイプのモデル住宅を設計し模型提示もした。復興公営住宅モデルも先に住民ワークショップから提案した小規模住宅モデルを市の担当部局が採用してくれた。

自力建設の戸建て住宅の内6軒は、共同設計・施工方式をとることができた。佐川さんを中心とした建築家協会盛岡支部のみなさんは「リアスの風LLP」という設計集団を立ち上げ、被災者たち6世帯は「住宅建設共同組合」を結成して共同発注方式を進めてきている。施工業者は地元の工務店を核として結成された。施主・設計者・施工者の共同体制が確立し、今秋からいよいよ建設が始まる。毎月のように、建設委員会を開催しここの調整を図りながら進めている。

以上の津波被災地での復興住宅地づくりは、被災コミュニティと建築系の専門集団とのコラボであり、多少の時間はかかったが、成功裡に復興プロセスが進み、被災住民からも感謝とリスペクトを受けることができた事例であろう。建築系の専門家としての倫理、知識、技術等においてまだまだ多くの課題も積み残してはいるが、社会的達成感を得られたものといえる。この多元的な協働の力による復興住宅地づくり支援は、私にとっては次に述べる原発事故被災者支援、コミュニティ支援との格差を明確にするものであり、碁石のような創造的で前向きな支援活動が原発事故被災地でできない矛盾とその虚しさを痛感している。

2.原発事故と建築倫理

本題の東京電力福島第一原発事故による飯舘村の被災と支援、そして、原発事故に伴う日本建築学会、建築学の在り方について述べる。9月初旬に開催された日本建築学会大会に参加して、その焦燥感をより増している。原発事故から5年目に入り、まだ、原発はアンダーコントロールには至っていない状況下にも関わらず、残念ながら本年度の大会行事をみても、正面から原発事故災害をテーマとしたPD、協議会はなかった。多少、東日本大震災後の復興計画、復興事業の在り方をテーマとしたものはある。個別発表でも、放射能災害に関する研究発表はほとんどない。一方で、原子炉施設の強靭化に対する構造系の研究発表は賑やかである。国民の多くが反対する中でフル稼働が始まった川内原発の動きに対応するような建築学会大会の動向である。ハードで原発事故を乗り越えることができるかのような建築学会の動向である。国民の多くにこのような学会の研究発表状況はどう映るであろうか。まだ12万人の人々の避難生活がつづく中で、これが建築学会の実情であってはならないと思う。

本原稿を書くきっかけとなったのは、先の日本建築学会での震災復興シンポジウムにおいて、フロアーからの私の苛立った発言を布野先生が聞かれ、WEB版『建築討論』での討論話題提供を依頼されたことによる。その時の私の発言概要は、「国民は原発事故後の除染事業でゼネコンを含む建築系は、建設不況から抜け出し焼け太りをしていると思っている。除染は、ゼネコン、下請け、孫請けの労働者が行う。その除染労働者の中には被曝した飯舘村民たちもいる。このような被曝現地の実情を認識したうえでのシンポジウムの内容になっていない。非常に残念である。今後、建築学会として、原発事故、放射能汚染に対してどう向き合っていくのかを真剣に考えてほしい。」である。過酷な原発災害、放射能災害を受け、ふるさとを失った人たちに対して、建築系関係者、建築学会はどう対応していくべきか、事故後5年目にはいって改めて建築学会のあり方を再考してみる必要があるという思いでの発言であった。私も建築学会に所属する以上、天唾的発言であることを認識しながらの発言であった。

思えば震災当時、建築雑誌の編集委員(当時の編集委員長は中谷礼仁)をしていて緊急の原発特集をした。その関連の中で編集委員会として、建築学会の構造系で原子炉部門に対して原発事故に伴う学術的論考を依頼したが、関係者の原稿は掲載されないままであった。その後の建築学会及び会員による原発事故対応は、避難所の計画設計、避難所の実態調査、避難所の生活環境調査と改善提案、復興計画に関係する支援研究、計画研究が進められてきた。それ自体は復興のために有意義であり社会的責務を果たしているものの多くあるといえよう。しかし、この甚大な原発事故そのものに対する、技術の暴走ともいえる事態に対して、原子炉建設に深く関わり、その経済的効果も十分に享受してきたであろう建築学会を含めて建築界において、充分な倫理的、社会倫理的、技術倫理的な回答を社会にしてきたとは言えない。

建築、都市は膨大なエネルギー消費機構であり、そのエネルギー源として原発由来の電気エネルギーに頼ってきた面もある。地球温暖化対策のためにも、残虐で過酷な原発事故を回避するためにも、今後のエネルギー政策は、脱原発、再生可能エネルギーの増進による対策が急務であると考えるが、建築学会の中で温暖化対策+脱原発エネルギーによる建築・都市提案がされているかと自問する。私も建築学会の中の地球環境委員会に所属し、先の大会パネルディスカッションでこの点の、理念と手法について発言をしているが、学会としての明確な方針とは残念ながらなっていない。

日本建築学会は建設業界、大学等の建築系の複合体であり、各種の利害関係の中で成立していることから、より経済的にシビヤーの話題に関しての明確な方針を出すことができないことは承知しているが、それでも、国民的課題である脱原発に関しての活発な論議がおきないことが問題である。原発をベースロード電源とし、電力の2割を占めるようにするという政府見解に対して建築学会からの社会的問題提起等はなされていない。一方で、原発施設の強靱化事業には、技術的対処として深く関わるという構図である。今話題になっている、国立競技場に対する建築界の動向と類似するものがある。かつての使用されることの無かった戦艦大和の建設に邁進した船舶建設技術者のようである。

原発という災害は自然災害ではない。人間の技術による構造物による人為的災害である。それを支えてきた技術の中に建築技術は大きなウエートを占める。原子炉事故が津波による浸水か、津波以前の設備配管損傷かについての原因もまだ究明されていない。その状況下で川内原発がフル稼働となってしまった。この一連の動向に対して建築学会は何らかのアクションを社会的にも発信しなければならないであろう。だが、残念ながら発信されていない。

3.放射能汚染と建築の長い闘い

私は飯舘村の自然と共生した村づくりに村民、行政との協働で20年近くかかわってきた。全国のモデルとなるような過疎山間地域での先進的な試みであった。環境省のエコモデルハウス事業もいれて農村地域でのこれからの環境共生住宅とそこでのエコライフスタイルの発信を行う環境も整いつつあった。建築・農・環境の融合したエコライフの体験学習の場は、「までいな暮らし普及センター」としてスタートしたばかりであった。その時に、原発事故が起き、その後、紆余曲折しながらも継続的な支援活動をしてきている。その詳細はここでは割愛するが、建築に深く関わる点について述べる。一つは住宅内外での放射能汚染実態と除染の限界、もうひとつは木材の放射能汚染である。

震災後、原発科学の第一人者で反原発学者の京大の今中助教達とも合流し、「飯舘村放射能エコロジー研究会」を組織化し、広く村民たちにも放射能汚染実態、避難対策、二地域居住、新天地での居住地づくり提案等の情報発信をしてきた。村内の放射線量を測定していく中で、住宅内の線量調査が科学的に実施されていないことに気づいた。村民達は避難はしているものの見守りも含めて懐かしい我が家に帰宅し一時滞在をしている。宅地周辺の山林からの放射線が住宅内の身体に影響を及ぼすことに、建築関係者として無関心ではいられない。私の研究室で2012年の暮れに成人村民全員にアンケート調査を実施した。村内の自宅処分についての質問では、壊すという回答はほとんどなく、修理していつかは住むという回答が多かった。多世代家族で暮らす住宅は立派であり、壊すという思いには至らない。そして、その家に被曝しながら一時滞在をするという現実がある。被曝の影響をより少なくするためには、住宅内の線量調査が不可欠である。また、室内における放射性セシウムの付着実態の解明も必要であると考えた。

2013年、2014年と飯舘村・浪江町・川俣町で計19軒の住宅内外の放射線量及び土壌、住宅内の冷蔵庫上部での放射性セシウムの付着状況を測定した。その中には除染済宅地も含まれる。結果は外部空間線量と室内空間線量が相関すること、森林に近い室内での線量が高くなること、室内では床面より天井面が高くなること、一階より二階の線量が高いこと等を明らかにした。放射線管理区域基準値の0.6μ㏜/hを超える住宅がほとんであり、被曝リスクの高いことを提示した。室内での空間的に高い箇所の線量が高くなる傾向の理由は、今中氏に計算していただき解明できた。床下にはセシウム降下がなく、宅地土壌に付着したセシウムからのガンマー線が土壌の遮断効果により、室内の高い空間ほど土壌からのガンマー線の透過角度が鋭角となり遮断効果が低いことがその要因と思われる。当初は、天井裏や室内でのセシウム付着の影響を心配したが、そうではないことも判明した。放射能の専門家とのコラボで初めて可能となった研究成果である。

室内の冷蔵庫上の塵に含まれるセシウム量は、0.2㏃/cm2を下回る状況であった。一定の放射性セシウムが室内に入り込んでいたことは明確であるが、室内での外部被曝を心配するほどのセシウムの付着状態ではなかった。ちなみに、放射線管理区域からの持ち出し禁止の表面汚染基準値の4㏃/cm2と比較すると一桁低い値である。しかし、それでも室内に放射性セシウムが付着している状況であり、内部被曝のリスクをかかえることになる。また、別の飯舘村内の建物で省エネ熱交換換気扇の震災時に使用していたフィルターの放射性セシウムを測定すると、20㏃/cm2を超える値を示した。いかに当時、大量のセシウムが大気中に浮遊していたかを提示している。この種の換気扇のフィルターに付着した放射性物質の実態に関して建築学会の中で十分な情報開示や論議がされていたかというと、残念ながら少ないと言わざるをえないのではないか。その後、筆者の指摘もあり、建築学会内に住宅内の放射線量調査研究グループが組織され、被曝地の住宅内の線量調査研究は進められている。

除染による空間線量低減効果はあるが、一方で除染された土壌下部に高い放射性セシウムが残存している宅地もある。飯舘村K邸は除染で表面土5cmは削り取られ客土された結果、室内空間線量は0.2~1.0μ㏜/hと低減したが、除染後の宅地の土壌深15~20cmには、放射性セシウムが2万Bq/kg近く付着したままである。客土で被覆して空間線量が低減されたが放射性セシウムは土中に固定されたままである。放射性セシウム137の半減期は30年であり、90年で1/8の低減を考えると、長期的な危険物質が宅地内に固定化されたままである。除染後での効果評価は空間線量調査だけでなく、土壌コアサンプルによる評価を個々の敷地で実施すべきである。建築の建つ地盤の放射能汚染に関して建築系関係者は無頓着であることは許されない。

飯舘村は8割近くが森林である。そこに放射性物質が降下し汚染した。森林斜面が汚染された結果、除染による低減策は非常に厳しい。住宅周囲20mの斜面林の表層落ち葉等は除去されるが土壌はそのままである。土壌削除は斜面崩壊、エロージョンの心配もありできない。飯舘村内で日大で研究拠点にしている小屋の周囲は除染された。その場所で除染後に測定した。山林は2014年11月に除染され落ち葉層はかき取られ土がむき出しになっている。0~5cm層(A層)で放射性セシウムは二万Bq/ kgと非常に高い。落ち葉層(F層)は除去されてもその直下の土中にセシウムは固着していて、今後の雨水や風での降下流出により宅地、農地への再汚染危険があり、斜面地での除染の限界を示している。

私は飯舘村外に安住のできる小さい村をコミュニティ単位で構築し、たまに村内の住宅に一時帰宅するような二地域居住を提案してきている。そのためにも、「核シェルター」ともいえるような放射線防御に寄与するような建築計画、建築構法の開発も必要と思う。ただ、残念ながら、飯舘村内に建設予定されている公共施設でのその種の建築的対応が進んでいるとは聞いていない。除染による放射能低減を前提として通常の建築計画、構法、施工ということであれば、建築の放射線被曝化とその対策について学会としてももっと討議を深めていく必要がある。

4.木材放射能汚染と建築

木材の放射能汚染問題である。被災地での樹林、そして、林産物、木材の放射能汚染は深刻である。先に報告したように飯舘村の除染された住宅裏山の森林土壌は高い放射性セシウムで汚染されたままである。汚染森林での樹木の樹皮には何千㏃/kgのセシウムが付着している。当初は芯材への移行はないであろうという予測もあったが、その後の森林総研等の調査では、芯材へのセシウムも移行が明確となり、500㏃/kgを超える材も出てきている。この状況下で、林野庁は497㏃/kgの木材で6面覆った四畳半の室内での被曝は0.0017μ㏜/hであり、危険性は少ないとしてその使用を認める見解を平成24年8月にHP上で示している。学術会議も同様の見解を提示している。

外部被ばくレベルでいうと少ない数字ではあるが、内部被曝リスク回避のため、食べ物としての基準は100㏃/kg未満、薪の基準は40㏃/kgである。薪の基準値は燃焼して灰となった時、放射性物質取扱い基準としての8000㏃/kgを超えないようにした基準である。薪として使用不可の木材で周囲を囲まれた部屋での居住は問題ないという見解である。500㏃/kgの2cm厚で比重0.5の板材は、単純計算すると5000㏃/m2=0.5㏃/cm2となる。

先に放射能汚染された住宅内の冷蔵庫の上の塵は、0.2㏃/cm2程度であったことと比較すると、それ以上に放射能汚染された板材を床・壁・天井に張った部屋でも健康リスクはないという説明は、国民に納得してもらえるだろうか。子供たちがその部屋で過ごすことを考えたときに、母親達は納得するであろうか。ちなみに、原発事故が起きる前、原子炉関係での被曝材の取扱い注意基準は100㏃/kgであった。その数字の5倍のインフレ水準として木材被曝が認められている。ちなみに、まだ、木材使用に関しての放射性物質の販売基準は国では正式に提示していないと思う。林産物、堆肥の基準はあるが、建築用等での木材使用の基準は提示されていないという不思議がある。

林野庁のこれらの見解は外部被ばく数値を元にした見解でしかない。放射能被曝した森林は福島県だけなく、東京を含む広く関東地域に及ぶ。今後、被災地復興等での木材需要が増加する中で、木材流通障害、「風評被害」を問題としてこの種の見解を提示しているとするならば問題はより複雑となる。国民が、薪の基準を超えた放射能汚染された木材使用を可とするかどうかをもっと真摯に考えるべきである。その木材を使用した設計・建設をする建築系関係者、建築学会はもっと真摯にこの問題に取り組まないといけない。建築はそれを建設する人たちにとっては一生ものである。

5.どこに、どう住むか

飯舘村民は今回の原発事故で最も初期被曝をした人たちである。6000人の村民の半数以上が結集して、初期被曝慰謝料、里山暮らしの生活破壊慰謝料等を東電に求めてADRの申立を2014年秋に行った。一方で村当局は除染と帰還を優先する公共事業に熱心であり、村民達の声を聞こうとしない。大震災前の村人と行政の協働による手づくり型の村づくりの理念と手法は、原発事故で残念ながら破壊された。国は2018年3月には現在の避難区域を解除して帰還をさせることを閣議決定している。現に田村町都路、楢葉町等は解除されているが、多くの町村民は帰還していない。帰還宣言を早めるために、被災地のライフライン、公共施設建設に建築界は深く関与している。一方で、帰還宣言後1年経過すると精神的慰謝料の保証はなくなり、自立が強いられる。年金生活の高齢者にとっては帰還しか選択肢のない状況が強いられる。原発棄民という状況が心配される。帰還した町村には利用者の少ない公共施設が建ち並ぶという異様な風景を建築界が作ることになる。

飯舘村当局はその国の帰還決定に抗議することなく、帰還政策を進めようとしている。村民の多くは、村民が納得しない段階での帰還宣言には反対であり、村当局の見直しを村長に要望しているが拒否されたままである。一方で、村内幹線道路沿いでの中央公民館、道の駅の建築設計は、建築界の仕事となっている。これらの放射能汚染地に建設される公共施設での放射能対策、放射線防御のための設計や構法について十分に配慮されているのか不安でもある。この種の対策があるとは聞いていない。放射能被害者に寄り添い、被災者の生活再建、コミュニティ再建に貢献できるような建築的行為、営為はどうあるべきかを建築界で真摯に考えて欲しいと思う。

私は震災当初から、移住と村を捨てない両義的手法として、「二地域居住」、「分村」、「二重住民票」等の提案をしてきた。放射性セシウム137は100年でやっと1/10となる放射性物質である。時間のデザインによる再生として「二地域居住100年構想」を提案した。早期帰還策ではなく、「人の回復、家族の回復、コミュニティの回復」の場の村外での創造を提案してきた。県外の移住も提案したがそれは難しく、村民が避難している福島市や伊達市の低線量地域での「分村」計画を村民達と奮闘したが、行政の協力は得られず実現できないままである。

残念ながら復興公共事業は行政主導で決定され、村民達の生活再建の思いが形にならない。間接民主主義の限界である。村民達が主体的に、コミュニティ単位での再建活動への公共的支援事業がない。先に報告した大船渡市碁石地区のような試みが原発被災地ではできない。農村特有の総有的(入り会的)な土地所有による「新しい村」を避難先に造る仕組みが欲しい。コミュニティでの移住計画を推進するためには、津波災害に適用されている「防災集団移転事業」に相当するコミュニティ単位での住宅地造成事業が必要となっている。五十嵐敬喜が主張する「現代総有論」で指摘するようなコミュニティ共同体の育成を可能とするような制度的、事業的展開が期待される。

大地の恵み、里山の恵みで生きてきた飯舘村民達は、大地が放射能汚染され、市場経済・金で支配される都市的な避難生活を強いられている。相互扶助、互酬性で支えられた共同体は破壊されつつある。それでも、避難先の荒廃農地を共同で開墾し共同菜園を開設した村民達がいる。そこには農の力がある。除染によって元の大地と人間の密接な関係を再生することは今不可能に近い。残念ながら除染終了→帰村というシナリオは描けない。一方で、村民達へのアンケートでも帰村宣言後の生活不安の回答も多い。原発事故棄民となるようなことがあってはならない。

震災後多様な支援をしてきた。村外の避難生活をする村民達に少しでも、農業的営みができるような仕掛けを、村民で友人の菅野哲さん達の共同農園づくりや、伝統食の継承活動(匠塾)を支援してきた。被災直後から飯舘村民達は老若男女が集い、災害ユートピア的組織を結成し、厳しい状況を乗り越えようとした。今、村民半数が参加し「原発被害糾弾飯舘村民救済申立団」が村民有志により組織化され、直接民主主義的な再生共同運動体が構築された。このような運動が、農村的相互扶助・互酬性を継承し、さらに支援者達との協力コミュニティを構築し、この人類史上の課題に対処する新しい価値体として育っていくことを期待したい。未曾有な人災に対しては新しい価値体を創造する知恵と行動が求められている。このような新たな創造は飯舘村民のためだけではない。他の原発被災地の人たちにも必要なことである。

そのために、建築界、建築学会のできることは多くある。帰還優先型の公共事業に深く関与することではなく、オルタナティブな支援活動の発露が今、建築界に求められている。人のための建築の実現のために。


糸長浩司(いとなが・こうじ)

1951年東京都生まれ。環境建築学・都市農村計画・環境デザイン。日本大学生物資源科学部生物環境工学科主任、教授。NPO法人エコロジー・アーキスケープ理事長。飯舘村放射能エコロジー研究会共同世話人。環境デザイン雑誌『BIOCITY』監修人。編著書に『3・11後の建築・まち/われわれは明日どこに住むか』他。農村計画学会賞(業績)2013年、日本建築学会教育賞(2008年)。