海外建築事情002

バルセロナ建築漫遊記<建築ノート=Architectural note & エッセイ=Essay>

鈴木 裕一(スペイン公認建築家)


9月18日は、29年前パリでルノー5の中古車を買い、途中リモージュとカルカソンヌに2泊して1000キロ南下した末にようやくバルセロナに到着した、私にとって記念すべき日である1。そして日本人初めてのスペイン国公認建築家となり、カタルーニャ建築家協会Collegi D’Arquitectes de Catalunya①に登録してバルセロナ郊外のサンクガット市にU1ARCHITECTS建築アトリエを構えて、今年でちょうど20年を迎えた2

1  2004年5月号 新建築『STAND POINT』に自分史掲載。
バリ―バルセロナはパリ天文台を通るMeridian基準子午線上にあった。今は基準子午線はイギリスのグリニッジ天文台であるが、それ以前はパリ天文台②でパリ―バルセロナ間を測量してメートル法がフランス革命直後、共和国政府によってにつくられたものであることが解った。

2  私のバルセロナでの建築家としての活動は建築ノート=Architectural note & エッセイ=Essay『バルセロナ建築漫遊記』のブログhttp://blog.u1architects.com/で2007年から紹介している。

到着した最初の年に、カタルーニャ工科大学=UPCでサルバドール・タラゴ先生の建築歴史・理論マスターコースに入学し、西洋建築の歴史的建造物の形態分析とその再生方法を学び、1992年にポストグラドのタイトルを得る。ガウディとセルダの研究者でもある先生から、ローマ時代のウィトルウィウスM.L.Vitruvioからの建築家像の伝統である理論と実践からなる西欧の本物の『建築』=Arquitectura3への執念ともいえる愛情を学べたのは私の大きな財産となっている。特にギリシア、ローマから始まる現在まで3千年のヨーロッパの石積建築の長い歴史都市の文脈の中で、建築Architectureを捉えるという見方はとても勉強になった。

サルバドール(敬称略)は、若い建築家時代にポルトガルで行ったアルド・ロッシとのワークショップでロッシと知り合ってそれ以後親交を深めたらしい。そしてロッシの代表的な著作L‘Architettura della cittàのスペイン語版La arquitectura de la ciudadを1982年にバルセロナの出版社GG社から出版している。日本語版『都市の建築』大竜堂書店 (1991/12)。1990年にバルセロナ工科大学UPCで行われたドクター論文の発表ではロッシがtutor主査を務めた。

3 日本では『建築』という言葉は、明治期に伊東忠太によって造られた造語でそれまでは『造家』と言われていた。今日でも『建築』は誤解されていて『大文字の建築』と『それ以外の建築』というような言われ方もしているが、伊東忠太の『建築』は英語のアーキテクテュールArchitecture=『美術建築』を意識した概念である。スペイン語ではアルキテクトゥーラArquitecturaという。

伊東忠太は卒業論文『建築哲学』4でV.L.Ducの『建築講話』5にかなり影響を受けている。『真realの建築』とはどういうものか?という考察を歴史的建造物に、デカルトの方法論6を用いて過去の建築のフォルムformを考古学的に分析することにより、『真の建築』と『偽の建築』の区別化を行った。その結果『真の建築』とは「フォルムの必要性、構造方式の結びつきの合理的関係をいう」その合理的関係を満たす建築とし、それ以外の伝統に縛られた熟慮ないフォルムは『偽の建築』として区別する。

そしてその『真のフォルム』とは、代数学algebraと幾何学geometryの数学から導き出される『尺度』と『比例』の法則より成り、『尺度scale』と『比例propotion』の体系systemを構成している『統一unity』と『調和=harmony』の原理より成ると結論付ける。それが本当の『建築芸術』=Architectureであると定義している5

4  1882年(明治25年)7月卒業論文『建築哲学』を提出している。未完ではあるが、自序を含め全7巻、684枚の毛筆、手書きイラスト図の入った大論文である。引用文献は英語で書かれた原本を含め約40冊に及び、建築書だけに止まらず審美学、哲学、社会学、文学等、当時の幅広い学問分野に渡っている。筆者は1980年東京理科大学修士課程堀川研究室で伊東忠太の建築思想を研究する為に、東京大学建築学科図書館に通い『建築哲学』の写本を行った。
その結果として3つの研究論文を日本建築学会で発表した。
1982年「伊東忠太の建築思想-その成立と展開-」日本建築学会10月発表
1983年「伊東忠太の建築思想(2)-V.L.デュックの建築思想の伊東忠太に及ぼせる 影響」日本建築学会10月発表
1984年「伊東忠太の建築思想(3)-E.F.フェノロサ、岡倉天心の美術思想の伊東忠太に及ぼせる影響-」日本建築学会10月発表

#  『建築哲学』はその中の一部分しか引用出版(藤森照信編『都市 建築 日本近代思想体系』岩波書店1990年抄録版)されておらず、その為に今でも伊東忠太の建築思想はかなり誤解されている部分がある。

5  Viollet-le-Duc(1814~79)の『建築講話』Entretientes sur l’architectura (全2巻1863,1872) 日本語翻訳は飯田喜四郎先生により『ヴィオレル=ル=デュック』1986年中央公論美術出版。筆者は1983年修論『明治中期に於ける建築芸術思想』でLecture on architecture 1860 英語版での第1章と10章を翻訳。パリのノートルダムの改修、カルカソンヌ城、ベズレー寺院など多数の歴史的建造物の改修を手掛けた建築家として有名。③

6  デカルト『方法序説副題「理性をよく導き、もろもろの学問に於いて審理を求める為の方法についての序説」1636年 V.L.Ducは当時一般に認められていた『建築』の統一と調和の原理をデカルトの4つの原理に従って過去の建築フォルムを分析する実証的な考古学的研究方法で行った。

現在でもサルバドール先生との関係は続いており、S.O.S. Monumentsという建築モニュメント保存のNPO8と2年ごとに行われているラテン諸国の建築家の卒業生達と共に各地で建築文化遺産の保存に関するシンポジウム旅行を行っている。今年の夏は、革命後長い間アメリカとの国交を閉ざしていて最近になってまた国交を回復したキューバで行われた。会場は首都ハバナの旧市街地にあるビクトル・ユーゴーセンターCasa de Victor Hugo7 ④⑤⑥で開催され、建築学的にも成果の多いものとなった。

稀しくも、両国の仲介者が中南米のアルゼンチン出身でイエズズ会初めてのフランシスコローマ法王で、9月21日に革命広場でのミサが執り行われた。そのイエズズ会はスペインのナバラ地方出身でカール5世の兵士であったのイグナシ・ヨロラが創立したカトリック宗派である。黒いマリヤ様で有名なバルセロナ近郊の聖山モンセラット⑦⑧に篭り『霊躁』⑨⑩を得てパリで設立された。神聖ローマ皇帝カール5世兼カルロスⅠ世スペイン国王の修道騎士団ともいわれ、16世紀から新大陸への布教を積極的に行い日本にもフランシスコ・ザビエルが訪れて、布教と共に初めて当時の進んだ西欧文化をもたらしたことでも有名である。

7  ハバナ旧市街の元カタルーニャ出身の薬剤師の家を改修し、フランスの詩人、小説家でフランス第二共和制の政治家でもあったビクトル・ユーゴーを記念してハバナのフランス文化センターとして2005年にオープンした。
http://www.ohch.cu/centros-culturales/casa-victor-hugo/

8  歴史的建造モニュメントの保存を目的としたNPO。http://sos-monuments.org/
1997年Salvador Tarragóにより設立される。この夏はキューバ、ハバナのビクトル ユーゴーセンターでの歴史的建造物の保存と再生に関する建築シンポジウム開催と現地建築家、歴史家と共に調査研究を行う。

キューバはグラナダでレコンキスタを終えたイザベル・フェルナンドカトリック両王の援助を取り付けたコロンブスが1492年に最初に発見した新大陸の島であり、それ以後中南米のスペイン帝国の植民地の中心として現在まで500年以上にわたり両国の歴史的関係は深い。

特に16世紀のスペイン黄金期のフェリッペ2世の時代には、新大陸の植民地化がキューバを中心として行われた。あのメキシコのアステカ王国を征服して有名なエルナン・コルテスも最初にキューバに上陸し兵隊を整えてから向かった。その時、植民地都市化政策のバイブルとなったのが、イタリアルネサンスの万能人アルベルティが最初にラテン語に翻訳出版されたウィトルウィウスの建築書9である。

その中に書かれているローマ時代の都市づくりを参考にしてフェリッペ2世の勅令10が作成されていたことが解る。神聖ローマ皇帝カール5世でありスペイン国王カルロス1世を父に持つフェリッペ2世が新大陸にローマ帝国時代の植民地に倣った都市づくり11が行われ、最初にマヨール広場を町の中心に碁盤の目状のグリッドシティ12を造ったのがキューバであることが今回の訪問でわかった。そして、マヨール広場には教会、市役所、軍等の重要施設があり、特に今回訪れたキューバ東部のトリニダット⑪という町はその都市構造が都市博物館として存在している。教会は16世紀中頃にビニョーラVignolaによって創建されたローマのイエズス会本部Il Gesuをモデルにしたスペイン・バロック教会である。

9  ウィトルウィウスの建築書はローマの建築家M.Vitruvius Pollio⑫は紀元前後にわたって生き、その著書Dearchitectura libri decem(建築に関する十巻の書)を書いた。技術の専門知識だけでなくその基礎をなす広汎な学問をも内容として含む覚書で、建築術を総合的に取り扱った人類初めての書である。森田慶一訳『ウィトルウィウス建築書』1976年東海大学出版会。
15世紀初めのイタリアルネサンス期、長らく埋もれていたローマ時代の建築書がアルベルティにより見いだされ 、再翻訳と解釈を加え=re-interpretされDe reaedificatoria言う本で出版された。『建築』という見地から見たローマ人の世界観の表明であった。
スペインではラテン語からスペイン語に訳されたのが1582年にミゲル ウレアMiguel de Urreaにより出版されている。

10 フェリッペ2世の勅令1573年に公布された。ウィトルウィウスの建築書を参照した都市計画。当時、宮廷建築家でフェリッペ2世と共にエスコリア宮El Escorial宮の現場を指揮していたエレラHerreraによって草案が纏められ、エスコリア宮から発令したとされる。第5巻第1章の広場計画。広場のプロポーション2:3、広場の周りはポルティコ(廻廊)を計画。フェリッペ2世の勅令ではその都市のもっとも重要な空間となる長方形のマヨール広場の位置をまず決定し、これを都市建設の起点とする。この広場と結合する道路との関係を基に街区のグリッド配列を導く。
「フェリッペ2世の勅令とウィトル―ウィウス建築書の比較 ~スペイン・ルネサンス期の都市計画規範に関する研究~」平成16年度 日本建築学会近畿支部研究報告集 加藤章博

11 『グリッド都市』2013年 布野修司他著

街づくりだけでなく建築に於いても、カール5世がイタリアのラファエロの所で学んだスペイン建築家のペドロ・マチュウカPedro Machucaを呼びよせ、イスラムから征服したアルハンブラ宮殿内にスペイン・ルネサンスの傑作と言われるローマ・ルネサンス様式のカール5世宮⑬⑭⑮を建設し、同時にモスク跡にイザベル・フェルナンド王達スペイン王族の為のスペイン・ゴシック様式の霊廟をエルサレムの聖墳墓教会Sant Sepulcroに見立て、またローマの凱旋門からイメージしたバシリカ・ローマ様式のグラナダのカテドラル⑯⑰を建立した。グラナダを新大陸とヨーロッパの中心となる新しい首都をシンボリックな建築で、ヨハネの黙示録の光輝く都市Nueva Jerusalen=新しいエルサレムの様に建設しようとしていたことが解る12。カール5世の子のフェリッペ2世はマドリッド近郊にエル・エスコリアルEl Escorial宮をトレドJ.B.Toledoから引き継いだエレラJuan de Herreraによって建立する。その建築理想イメージとなっているのがエルサレムに建てられていたサロモン神殿である。父=ダビットDavid―子=サロモンSalomonの自分とを重ね合わせたスペイン・ハクスブルク家の新しいサロモン神殿Templo de Salomonをバシリカ・円蓋ドームで創建13としようとしていたことが解る。

しかし、もともと建築=Architectureは人体寸法により造られてきたので、その尺度と比例は重要でウィトルウィウスの建築書に書かれており、ルネサンス期にはアルベルティを始めとする研究により、ラテン語による本の出版、建築家による再解釈の建築論など『建築』=Architectureを知る上でのその重要性が再確認された。アルベルティは最初に15世紀中頃にウィトルウィウスの建築書を研究し、その時代に合った彼の建築De re aedificatoriatoとして再解釈を行った。特に建築書の第3巻第1章の神殿を建てる時には人体寸法と円と正方形の幾何学を対応させ『完璧な神のプロポーション』の記述がある。その記述を元にレオナルド・ダ・ヴィンチLeonaldo da Vinci、フランチェスコ・ディ・ジョルジョFrancescodi Giorgio、チェザリアーノCesariano、パラーディオPalladio等それぞれの解釈によるウィトルウィウス的人体図が残されている14

このルネサンス期がウィトルウィウスの建築書をベースとして『建築』=Architectureとは何か?の再定義が行われた時期であると思われる。特に神殿のような重要な建物には幾何学に基づく尺度と比例を使って厳格に作られなければならないとすることが求められた。

それが『建築芸術』Architectureという崇高なものという概念が、この頃再確認されたように思える。神殿、寺院以外の住宅など普通の建物にはあまり厳格な比例と尺度の使用は求めていなかったようである。

その中でもレオナルド・ダ・ヴィンチがウィトルウィウスの建築書の第3巻1章に書かれている人体部位のプロポーションは、自分なりに解釈し人体図『Hombre Perfecto=完璧なる人間』⑱⑲を図像化したものである。それは最初にヘソを中心とした円に内接する人体があり、身長と両手を広げた長さが正方形をなしている。その神である円と人間の正方形が限りなく一致することが「統一と調和のとれた美しい人体図」である。身長hとヘソから円に内接する半径rの比例r:h=1:黄金比Φ1.6115となり、これは人体のスタンダードとも呼べるもので、「神であると同時に人間であり、調和と秩序をもたらし、万物の尺度を示す」『建築美』の根本となる。これがピタゴラス16の幾何学より導き出された音響的ハーモニーの比例的システムである。

以後、『統一unity』と『調和harmony』による『建築美』は、この黄金比Φの比例システムから生み出される数学的法則によるものであるという建築芸術のスタンダードが確立した。

12 MANFREDO TAFURI INTERPRETINGTHE RENAISSANCE
Princes, Cities, Architects2006
VI THEGRANADAOFCHARLES V  Palace and Mausoleun pp.203
イザベル、フェルナンドカトリック両王はグラナダでの1592年1月6日の三賢王の日に合わせアルハンブラに入場し、その日を対イスラム、レコンキスタの勝利の日とした。その日を記念して、神聖ローマ帝国皇帝カール5世&スペイン国王カルロス1世はアルハンブラ宮殿内に正方形と円で構成された幾何学的プランのルネサンス様式のカールV宮とスペイン・ゴシック様式のスペイン王家の霊廟とバシリカ・ローマ様式のカテドラルの3つのシンボリックな建築を創建した。これはカール大帝のアーヘンの礼拝堂と三賢王の棺が納められているケルンの大聖堂⑳㉑のキリスト教の宗教的儀式に則ったものである。三賢王とはフランク王=メルキオール、シシリア王=バルタサール、エルサレム王=ガスパールとし、この時、カールVはフランク王である神聖ローマ皇帝の他にシシリア、エルサレムの王でもあったので三賢王と自分を自己同一視していたものと思われる。イスラム勢力に勝利したスペイン王家の霊廟を聖墳墓に見立て、ローマ法王を超える最高権力者の地位を確立しようとしたのである。グラナダカテドラルとカールV宮の東西の建築とを霊的に結ぶシンボリックなイコンとして計画された。カールV宮はsquare正方形+circle円+octagon八角形=earth,eternity,and hevenly life の錬金術的方程式で計画されていた。

13 ARQUITECTURAY MAGICA  RENÉ TAYLORCONSIDERACIONES  SOBRE LA IDEA DE ELESCORIAL 1992 Ediciones Siruela pp.51
JUAN DE HERRERA  ARQUITECTO DEFELIPE II  Catberine Wilkinson Zerner
1996 Ediciones Akal スペイン語版 pp.107

14 Rudolf Wittkower Architectural Principles in the Age of Humanism 1971 W.W.NORTON

15 ユークリッドEuclides(A.C.325-265はギリシアで生まれエジプトのアレキサンドリアに住んだ数学者(幾何学)で黄金比Φを発見した。

16 ピタゴラスPitagoras (A,C.562-496)ギリシアの植民地イタリア半島の足の裏に当たるクロトンでピタゴラス集団を立ち上げる。教団のシンボルマークは五芒星。ピタゴラスの音律 周波数の比率2:3

上/⑰
下/⑳

「(西欧建築の)ギリシャ建築からローマ、ビザンチンの建築の流れは、ドームの発見である」と池邊陽17も言っているように、キリスト教を国教にしたコンスタンティヌス帝の東ローマ帝国でビザンチティン文化としてキリスト教会と共に発展し、ローマのバシリカ型と円蓋式ドームを頂く集中型教会堂が合体し、バシリカ・ドームと呼ばれるビザンティン様式のキリスト教会堂ができた。その代表的建築がユスティニアヌス帝によるハギア・ソフィアの大ドーム教会でキリスト教による『建築芸術』を生み出した。それが西暦800年にカール大帝が西ローマ皇帝として戴冠することにより、西ヨーロッパも東ローマ帝国の進んだキリスト教文化、宗教儀式を取り入れイコノクラスムス偶像破壊から逃れてきた職人たちによって、ローマ建築をビザンティン化した石積みのロマネスク様式のドーム教会が各地につくられるようになる。そして教会建築と共に建築芸術が発展し、天上への高さを志向する石柱と交差ボールトによるゴシック建築様式が生まれた。㉒

そしてルネサンス建築では円蓋式ドーム建築である。イタリアルネサンスの建築家ブルネスキによりフィレンツェ大聖堂の十字プランの交差部にシンボリオcimborioという巨大ドーム建築が建ち上がった。その巨大ドームがサンピエトロ大聖堂を代表とするルネサンス建築の特徴となる。

このサンピエトロの負けないくらいのバシリカ・円蓋ドーム形式寺院が、FelipeIIとエレラによるEl Escorialである。全体はグリッド状建築で礼拝堂部分がバシリカ・円蓋ドームである。このEl Escorialグリッド・バシリカ・円蓋ドーム建築がフランスパリの廃兵院Hotel des Invalidesとなりバシリカ・円蓋ドーム形式の建築様式を生み出した。イギリス、ロンドンの大火後、クリストファー・レンはパリを訪れ、廃兵院のこの円蓋ドームを参考にしてセントポール寺院をラテン十字からギリシア十字にプランを変更し、交差部中央に巨大円蓋ドームのシンボリアを建ち上げる。

この円蓋ドーム形式のシンボリアはバロック建築様式の寺院の特徴となっている。

パリのサント・ジュヌヴィエーヴ聖堂㉓は新古典主義様式の代表的な大円蓋ドームである。

このように東ローマ帝国、ユスティニアヌス皇帝によるコンスタンチノープルのハギア・ソフィアのビザンティン円蓋ドーム建築からの発展をドーム建築発展の歴史として捉えることができる。

近代になってこの円蓋ドーム建築をカタラン・ボールト工法により進化発展させたのが、ガウディのサグラダ・ファミリア教会㉔㉕と言うことができると思う。また、ガウディよりも早くカタラン・ボールト工法に注目し、技術的、工業的に進化発展させバルセロナからアメリカに渡ったグウスタヴィノGuastavino㉖㉗の存在を忘れてはならない。彼によりアメリカ国内に数々の円蓋ドーム建築が造られている。

今回訪れたキューバでは、1929年に完成した円蓋ドーム建築として80mの世界一高さを誇るアメリカの国会議事堂に似た国会議事堂であったCapitorio㉘と、もう一つはキューバ革命後にカストロの肝煎りで1961-1965に建設された国立芸術学校ESCUELAS NACIONALES DE ARTE18。4㎝の薄いレンガでつくられたカタラン・ボールト工法の巨大円蓋ドーム群㉙㉚㉛が特に興味深い建築であった。また、都市計画では、1930年代ハバナの街を近代的な都市に改造したフランス人造園家のフォレスティエForestier㉜である。

これらの建築および都市計画はまだあまり知られていないが、スペイン、バルセロナを首都とするカタルーニャと歴史的に密接関わっていることが解った。

17 池邊陽 デザインの鍵 -人間・建築・方法- p.10 1979年 丸善

18 キャンパスはダンス、美術、演劇、バレー、音楽5つの学部があり、それぞれの建物をイタリアの建築家、RICARDO PORRO,ROBERTO GOTTARDI, VITTORIOGARATTIにより創られた。特にVITTORIO GARATTIの建物はレンガ造の中央天窓のある大円蓋ドームは素晴らしい。カタラン・ボールト建築の究極のフォルムを見たような気がした。

そのヨーロッパ伝統の『建築芸術』の原理を近代建築に於いて確立したのがコルビュジェである。

コルビュジェの比例法則『モデュロール』19㉝は人体寸法とメートル寸法の融合を考えたものである。幾何学、円と正方形による理想の人体寸の適合adaptation㉞を黄金比率Φによって割り出している。メートル法はカタルーニャ出身の貴族アラゴFrançoisJean Dominique Arago(後にフランスの共和国の大統領になった)によって測量された20。それ以前の尺度は足、腕の長さなどの人体寸法から成っていてそれぞれの地域で異なっていた。メートル法は地球の大きさから割り出されているものなので、地域、民族の違いに関係なく万国共通の寸法なのである。

その方法によって創られた比例法則モデュロールの原理を応用し計画されたマルセイユの集合住宅 Unité d’habitationの作品は彼の代表作である。

19 コルビュジェの『モデュロール』(日本語版は1953年吉阪隆正訳 美術出版社)
http://blog.u1architects.com/?eid=1088699

20 http://blog.u1architects.com/?eid=1042381

産業革命の近代化の原点はヨーロッパとアフリカと新大陸のアメリカの大三角形の中心に位置するキューバを含む西インド諸島であるということが解ってきている。

ユトレヒト及びラシュタットにより1714年によりイギリスが中南米のスペイン植民地への奴隷の独占的供給権を得て、スペインに変わり18世紀後半、プランテーションに奴隷を送る奴隷貿易で巨大な富を得た。それが原資となりイギリスの産業革命が起ったらしい。

1807年イギリスが奴隷貿易廃止を決めると、スペインは引き続き奴隷貿易を続けた。キューバを中心としてアフリカからの奴隷の労働力をカリブ職国のプランテーションに送り、砂糖、タバコ、カカオ、椰子、アメリカからは綿花と交換しそれらをヨーロッパに送るという大西洋の大三角貿易によってさらにキューバは発展する。その時、貿易を担っていたのがスペイン人でも航海技術に優れたバルセロナ近郊のカタルーニャ出身の漁師が多かったとのこと。そしてカタルーニャからはアニスなど蒸留酒が生産されアフリカの奴隷と交換されたらしい。ガウディのパトロンであったエウセビオ・グエイ伯爵の父ジョアン・グエイもキューバで奴隷貿易などで財を成し、カタルーニャで成功した所謂『インディアノス』の新興資産家でカタラン人とキューバとの関わりは深いことが今回の旅行で分かった。

マルクスは『植民地に価値を与えたのは奴隷制であり、世界貿易をつくり出したのは植民地であり、大産業の条件となっているものは世界貿易である。かくて、奴隷制度は最大の重要さを持つ一つの経済的範疇となる。』というようにマルクスは近代社会を生み出した元の一つに奴隷制をあげている。

グエイ伯爵は、キューバのサトウキビ栽培のプランテーションでアフリカからの奴隷の労働力で培った砂糖工場のシステム生かし、イギリスで発明された蒸気機械を使った綿紡績工場の近代的な工業団地、コロニア・グエイをバルセロナ郊外につくった。そこでガウディと共に福祉の充実した労働者の為のメセナの新しい近代工業植民地スタイルを計画している。ガウディは工場で働く労働者の為の子弟を教育する小・中学校㉟、工場の煙突とコロニア・グエイ教会㊱の3つの重要な施設とを結ぶ大三角の中心㊲に、長方形のマヨール広場を配置し、そこを中心とした植民地に見られるグリッドの街区となっている。

16世紀スペイン・ルネサンス期からバロック建築、V.L.Duc、ガウディ、コルビュジェに繋がる近代建築、現在までの建築芸術思想史が私の現在の中心テーマとなっているので、新大陸における中心を果たしてきたキューバの重要性が今回の旅行でよく解った。特にその中でも建築の究極系であるドーム建築の二つの傑作が見られたのは大収穫であった。

ガウディの建築デザイン方法論を学び、カタランボールトをアーキテクトビルダーで実践

日本の大学院では伊東忠太を中心にV.L.デュックの建築芸術思想の研究を3年間してきたので、その建築言語は共通しているので理解することができた。あのガウディも伊東忠太同様、デュックの『建築講話』に影響を受け、『装飾日記』21を書いているので19世紀末の建築思想は伊東とガウディは既に同時代的に共通していたことが解った。そして彼らの建築思想がどのように建築作品として表現されているかという所に今の建築家としての実践を通して建築デザイン方法論を構築したいと思ったのである。

そこで注目したのがガウディ曲線を生み出しているカタラン・ボールト工法である。4センチ厚の薄いレンガを石灰を入れた速乾性のモルタルで最初にボールト曲面を造り、それを型枠としてレンガを重ね固めて行く。その為に型枠木工事の手間が省け、大工無しでアルバニールと呼ばれるレンガ積職人だけで現場で工事が進めることができるため、建設工法の合理性がある。しかし、私が建設の実践を始めた1988年当時、カタラン工法を知っている職人がほとんどいなかったが、たまたま高齢の職人が知っていて、彼と一緒に廻り階段を創ったのが最初である。それがきっかけとなり、アーキテクトビルダー方式でカタラン・ボールトを職人と共に作るようになった。その最初の作品は、カタラン・ボールト屋根のカタラン茶室『ブラバ亭』である。

その後の主な作品としては

-シッチェスの邸宅群Gran Boveda㊳㊴

http://blog.u1architects.com/?cid=12192

-タラゴナのカタルーニャ古民家Can Coll㊵

http://www.u1architects.com/cancoll/index.htm

-バイス三兄弟の家㊶

http://blog.u1architects.com/?cid=15657

がある。鉄骨の補強材を使った現在の進化したカタラン・ボールト工法を現場の職人とアーキテクトビルダーで共に創って行った。

21 GAUDI SU VIDA, SU TEORIA, SU OBRA 1967 CESAR MARTINELL Y BRUNET
私の所属するカタルーニャ建築家協会COLLEGI D’ARQUITECTES DE CATALUNYA会長を歴任。建築家としてはカタラン・ボールト工法によるワイン協同組合Celler㊷の建築を生まれ故郷であるタラゴナ地方を中心に40あまり創った。
1958年にガウディ中央研究所を創設し所長
APENDICE補遺 V. Cuadernos de apuntes variaosoriginales de Gaudi, en el Museo de Reus p.495にガウディの装飾論が掲載されている。日本ではガウディ研究者の入江正之氏のマルティネイの英訳版を基に翻訳したと思われる、ガウディの『装飾日記』の部分訳の研究がある。日本語全訳は『ガウディの装飾論』20世紀に見失われたガウディの思想 pp.126~221 松倉保夫 2003 相模書房

鈴木裕一(すずき・ゆういち)

1955年東京生まれ。スペイン国公認建築家。東京理科大学、建築史修士課程修了。(財)筑波万博協会建築家を経て、バルセロナのカタルーニャ工科大UPCで『歴史的建造物の再生に関しての研究』でポストグラドの学位を得る。1995年日本人初めてスペイン公認建築家のタイトルを得て、バルセロナ市近郊サンクガット市に建築アトリエ事務所U1ARCHITECTSを設立。ガウディの曲線を生み出すカタランボールト建築工法を現在アーキテクトビルダーの建設工法で実践。西洋の建築芸術=Arquitecturaを成立させてきた建築歴史理論について研究中。