巻頭スクロール 北京四合院を改修する、住む

作品評論:小さな試みの最大化

川井 操(滋賀県立大学環境科学部助教)

増築をめぐる争い

今夏、北京「城中村」1研究の一環として、北京旧城エリア東端部にある新太倉歴史文化保護区のフィールドサーヴェイをおこなった。

旧城エリアには、四合院が未だに数多く残るが、調査を遂行するのはなかなかに険しい。例えば、ある胡同の壁には、近くに住む老人によってチョークで「打倒小日本」といたるところに書かれてあったりした。真意のほどはわからないが、いずれにしても外国人が画板を持ちながら胡同を歩くのは、大きな緊張感があった。さらに、四合院を実測する際はより緊張感が肥大化した。そのほとんどが雑院化した四合院であり、多いところでは数十世帯が雑居して住む。実測調査では四合院全体で各住戸の平面図を取りたいのだが、一件一件に許可を得ることは容易ではない。一つ一つの四合院は、まるで水平に拡がる巨大な集合住宅を扱っているようだった。住民たちは、我々のような外来者が入って来れば、当然不審に思い、「何しに来たんだ!?」と声を掛けてくる。もちろん事情を説明すれば快く迎え入れてくれる場合もある。しかし、こちらが外国人だとわかるとすぐさま追い出されたことも何度もあった。

調査期間中、ある雑院化した四合院の実測調査をおこなった際、中庭の増築を巡る住民間の激しいやりとりに遭遇した。敷地に入るなり、一人の女性が大声で怒鳴っていた。それまでに何度も追い出された経験から、最初は実測しようとする我々に向けられたのかと思ったのだが、次第に様子がわかってきた。隣に単身で住むおばあさんに向けられたものだったのだ。「このおばあちゃんはうそつきだから、言うことを信用するな。」「工事で空気が悪くなって最悪だ。」「この増築のせいで日照が悪くなる!」女性は絶え間なくおばあちゃんに辛辣な言葉を浴びせた。どうやら、おばあさんが、共有の空間である中庭に、旧正月に息子夫婦や孫たちが宿泊できる部屋を作るために、周囲の住民に許可なく勝手に増築をおこなったのだ。

一つの胡同、四合院を取り上げても、様々な背景を抱えた人たちが住んでおり、それぞれに複雑な近隣関係があることを実感せざるを得なかった。

1. 「城中村」とは、「都市の中 の村」を意味する。中国語で「城」は「都市」と翻訳される。 1978 年改革開放以来、急激な都市化が進行し、都市中心ないしは都市部周辺の街区や農村が急速に収用され市街地となる過程で、居住地が開発されないまま残されたのが「城中村」である。

土地所有問題と雑院化のプロセス

上述したような中庭の所有関係の曖昧性を生んだのも、解放以降の動乱によって、強烈な管理体制と自由化を繰り返す中で北京空間の土地所有が幾度となく改変された結果といえるだろう。

写真1:梁啓超故居復元図

写真2:雑院化した梁啓超故居

特に、1966年の文化大革命期に、北京市住宅管理局による個人住宅の接収によって、複数世帯が四合院に入り込み、雑院化が進んだ。さらに同時期に賃貸用の四合院が全民所有制になり、北京四合院は完全に政府のものとなった。1978年に「個人家屋占拠の機関、企事業単位の迅速な退去に関する通知」が発せれら、1984年末までに個人四合院、賃貸四合院の76.8%まで返還された。しかしながら、賃貸住宅に関しては、住民付きで返還が行われたため、そこに居座る住民を追い出すことができなかった。今でも多くの北京人が雑院に住み続ける理由はここにある。

ここで、新太倉歴史文化保護区にある北溝沿胡同23号の梁啓超故居を取り上げたい。梁啓超(1873~1929)は、清末民初の政治家であり、清末の改革運動「変法運動」の主唱者として広く名を知られている。建築関係者にとって最も馴染み深いのは、建築史家であり建築家の梁思成(1901~1972)の父親であることだろう。敷地面積は、3752㎡に及び、二連棟三進形式の四合院である(写真1)。現在は、120世帯以上が雑居する(写真2)。ここは辛亥革命後、日本での亡命生活を終えた梁啓超が、天津の租界の家に滞在した後に住んだ住居とされてきたが、現在では梁啓超が住んだのではなく、長女の梁思順が住んでいたと実証されつつある2。住民に話を伺うと、文革期に、この大邸宅は、北京市鉄道局宿舎ならびに幼稚園として用いられたという。1978年以降は、従来から住む鉄道局関係者に分譲されたのだが、関係者の高齢化が進み、手狭になった個室は、賃貸住宅として貸し出され、雑院化が進んでいった。現在はこのように、もともと大邸宅だった四合院が、上述した土地所有権の変遷を経て分譲が行われ、120世帯以上が住む大雑院となった。梁啓超故居の所有に関する履歴は、ある四合院の一事例に過ぎないのだが、おおよそ一般的な北京四合院の雑院化はこのプロセスに当てはまるといえる。

2. 多田麻美「梁家の三傑とその故居」『北京の胡同から』集広舎,2015年4月8日URL : http://www.shukousha.com/column/tada/4034/

アフォーダンスとしての中庭空間

先ほど述べた、増築を巡るやりとりのように、雑院化した四合院の敷地内おいて、特に扱いが難しく、重要な要素になるのが、院子つまり中庭空間である。分配されたとはいえ、各個室にはそれぞれに所有者がいるのに対して、中庭は誰のものなのかはっきりとわからないままだからである。しかしながら、今回のツアーで廻った建築作品には、この中庭空間への積極的な試みがあった。

最初に見学した大柵欄エリアにあるZAO/standardarchitecture標準建築(以下、ZAO)の《No.8 Cha’er hutong 微雑院》は四合院内の増築したプロセスを空間に積極的に取り込んでいた。中庭にあった共有キッチンのアウトラインをそのままトレースしながら、アートスペースとして改築をおこなっている。既存の共有キッチンを増改築の痕跡、つまり住民間の協議あるいは独占欲のなかで作られたレイヤーとして捉えて、空間を再構築している。さらに中心にある樹木を最大限リスペクトしており、それをじっくりと観察しながら旋回するように階段が設けられている。歴史的なレイヤーを「住民間の交渉」「樹齢」からアフォーダンスを見出し、設計に組み込んだことに建築家としての新しい価値観を見出すことができる。

写真3:《WZM56》中庭のインフラ整備の痕跡

B.L.U.E建築設計事務所の《胡同の最小限住宅》、《景陽胡同の住宅リノベーション》は、同一敷地内にありながら、2つの家屋をリノベーションした、プロジェクトとしては稀なケースである。《胡同の最小限住宅》は、将来子供が北京の学校に通えることを見越して作られた住宅であり、普段は使用されない。しかしながら《胡同の最小限住宅》と《景陽胡同の住宅リノベーション》の家族は友人関係であるようで、中庭空間の設置されたキッチンは、前者の家族が来訪した際の共有スペースとして使えるように伸縮性を持たせた設計がされている。これは2つの家族関係によって生みだされたアフォーダンスといっていい。

FESCHの《WZM56》は、設計した松本大輔氏自身の賃貸住宅である。彼は、劣悪な雑院の環境を改善するべく、排水管のインフラ改修に取り組んでいる。一般的に雑院生活で最も特徴的なことは、胡同にある公共トイレを使用することだ。四合院の排水管は基本的に径が小さく、室内トイレで大便を行うことができない。近隣には、足の悪いおじいさんと寝たきりのおばあさんが住んでいるらしく、松本氏はそうした状況をみかねてインフラ改修に自ら着手した。しかしながら、一部の住民から強烈な反対があって頓挫したらしく、その痕跡は中庭通路に生々しく残る(写真3)。そのきっかけは自らの事情はもちろんだが、近隣住民に対する配慮からの発想であり、その痕跡は近隣住民とのやりとりを記録した。


空間の余白と素材の痕跡

元来の四合院の空間的特徴として、四方に房屋と呼ばれる個室が配置された空間である。房屋は基本的には急勾配の切妻屋根であり、天井高がある。さらに前面から奥まるにつれて、房屋は高くなり、ヒエラルキカルな空間構成になっている。

今回拝見した作品の多くは、この高さ方向すなわち垂直性を最大限に生かしたものだった。《胡同の最小限住宅》は、胡同に面したわずか7㎡の房屋であるが、リビングルームとベッドルーム、キッチン、トイレを併せ持つ。これらの機能を7㎡に収めることは不可能に思われるが、垂直方向に余白があることと時間による使用方法の違いに着目し、ベッド家具が上下する装置を設けることで、リビングルームと寝室を使い分け、最小限空間の最大化をおこなっている。

odd設計事務所の《keizo house》は、屋内の中心にホワイトボックスを設け、斜めに振ることで、三角形の空間の余白を生み出している。ホワイトボックスの上、つまりロフト空間にあたる箇所には、切妻屋根の持つ空間の余白を生かして、ベッドルームが設けてある。《WZM56》も、《keizo house》と同様に屋根裏部分をうまく生かしている。スキップフロアのようにして、休憩室、ベッドルームを段階的にシームレスに配置する。両者の構成は、一階部分をリビングルームやキッチンといった周囲からの視線が気にならない公共性の高い機能を設け、垂直方向に進むにつれてプライベート空間を作り出している。

それぞれの作品は、四合院の空間的特徴を捉え上で、垂直性(空間性)と水平性(関係性)のコンテクストをあらゆる情報から引き出し、空間を作り出している。

四合院を構成する素材は、基本的には軸組を木材で組み上げ、耐力壁として煉瓦が用いられる。増築した箇所は、トタンやRC造、煉瓦造など多種多用である。《keizo house》は、内壁に埋め込まれた荒々しい煉瓦を積極的にインテリアとして表現している。新しく導入されたホワイトボックスと既存の煉瓦壁は互いにそれぞれの素材感と構成を引きだしている。《WZM56》は、再奥部に小さな中庭を設けて、採光を確保しながら隣の四合院の崩れかかった境界壁を積極的に見せている。それぞれに周辺環境を含んだ四合院に埋め込まれたコンテクストを視覚的に表現した試みと言えるだろう。

命題としての最小限住宅

座談会でも触れられたのだが、布野修司氏から「一昔前、建築家は最小限住宅でデビューした。つまり建築家としての問題意識がそこに集約される。君たちの取り組みを拝見して、それを思い出した。」というコメントがあった。

日本の建築家の最小限住宅への試みとして、まず1950年代の増沢恂《最小限住居》(1952)、池辺陽《立体最小限住居》(1950)が挙げられる。戦後の焦土化した日本の中で、圧倒的な住宅難をいかに乗り越えるのか、建築家の命題の一つであった。五十嵐太郎は、以下のようにまとめる3

一九五〇年代は最小限住居の時代だった。戦前にCIAMでも「最小限住居」をテーマに掲げていたが、特に敗戦後の日本では切実な問題だったはずである。都市が焦土となり、圧倒的な住宅不足を経験し、さらに極端な資材不足に陥っていた。こうした状況から一九四七年に臨時建築等制限規則を施行し、一二坪までの住宅が許可され、一九四八年には一五坪まで緩和される。最小限住居は、建築家の大きな課題となった。

1960~70年代には、安藤忠雄の《住吉の長屋》(1976)、東孝光の《塔の家》(1966)が発表される。高騰化する都心の土地価格の中で、建築家は都市最小限住宅に活路を見出した。

戦後日本の焦土化した荒地と住宅供給、高度経済成長期を経て高騰化した都心部の最小限住宅、住宅ストックが満たされる中で生まれたリノベーションブーム。現代北京の雑院化のプロセスは、清末民初時代の大邸宅から、文化大革命期の複数世帯が入り込んだ雑院化、改革開放以降の所有返還に際しての複雑な所有関係、農村からの人口流入による住宅不足といったように、解放以後の政治的動乱とグローバリゼーションが複雑に絡み合って形成されたといえる。北京で躍動する建築家たちは、ある命題を元にしてプロトタイプ的な小さな試みから都市問題、住宅環境を改善していくという点で、戦後の日本人建築家と同じ姿勢であるといえるだろう。ここでいう命題とは、「雑院の居住改善」、「土地所有と高騰化する賃貸問題」、旧城エリアの「歴史文化保護区」のあり方を問うことである。中でも北京の賃貸住居の高騰は著しい。特に北京市の環状線3環路より外側は毎年のように高騰し続けている。一方で旧城エリアの賃貸価格は複雑な利権関係とインフラの未整備から、固定化されたままである。今回拝見した各作品は、最小限の設計で居住環境の改善を進めながら、四合院が積み上げてきたレイヤーをそれぞれの価値観を基にして顕在化させていた。彼らの試みは、異国の地に根を生やしながらも、建築家としての生き抜くための決意表明ともいえる。そして、それは混迷化する都市空間に対して最大限の効果を生み出すクリティカルな実践であることは間違い無い。

3. 五十嵐太郎「9坪ハウス考」『10+1』No.30(都市プロジェクト、スタディ), pp184−193